ファミリーヒストリー「堤真一~寡黙だった父 家族への思い~」[解][字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

ファミリーヒストリー「堤真一~寡黙だった父 家族への思い~」[解][字]

初めて父方のルーツを知り、驚きの連続。堤姓の由来は?警察官として地域を守り続けた祖父の生きざまに感心。無口だった父が秘めていた家族への思いを知り、涙があふれる。

番組内容
37年前に父を亡くし、父方のルーツは全く知らないという堤さん。取材で明らかになった事実に驚きを隠せなかった。祖父は“駐在さん”として地域の暮らしを守り続けた警察官。父は東大受験を勧められるほどの秀才だったが、夢を断念していた。母も経済的な理由で女学校を中退。結婚後、二人は団地での平穏な暮らしを何よりも大事にしたという。病床の父は夢を追う真一さんを静かに応援。その心の内を知り、涙が止まらなかった。
出演者
【ゲスト】堤真一,【司会】今田耕司,池田伸子,【語り】余貴美子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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この先は 一橋のために
きっちり働けよ。

役者として
圧倒的な存在感を放つ

堤 真一さん。

まだまだ死ねるか。

現在放送中の大河ドラマ
「青天を衝け」での好演も

話題を呼びました。

失礼しま~す。

8年前に結婚 父親になったことで

自らのルーツに
興味が湧いてきたといいます。

前から番組 見てて
面白いなとは思ってたけど

自分も子どもができて
っていうことになった時に

あれ?って 自分のルーツっていうかを
知りたくなったのは事実ですよね。

今回のゲストは 堤 真一さんです。
お願いします。

(拍手)

はい どうぞ。

さあ 今日は でも
ドキドキしてらっしゃるらしいです。

そうですね。
いや ほんとに何も知らない。

それは もうほんと
楽しんで頂けると思います。

♬~

兵庫県西宮市で生まれた
堤 真一さん。

37年前に亡くなった
父 雄さんは

熊本県の出身でしたが

詳しいことは
聞いていないといいます。

父方のことは 全く分からない。
全く分かんないんですよ。

おやじは 自分のことなんて

ましてや 家で声を聞くことが
ほとんどないんですよ。 え~!?

しゃべんない人なので
全く知らないです。

父方 堤家の古い戸籍によると

明治時代には
熊本県のほぼ中央に位置する

宇土市で暮らしていたことが
分かりました。

(取材者)あ こちらですね。

ここが明治時代
かつて堤家があった場所になります。

戸籍からたどった場所には 堤家とは
関係のない方が暮らしていました。

そのはす向かいに 堤姓のお宅を見つけ
訪ねてみました。

(取材者)あ すみませ~ん。 はい。
ごめんください。 はい。

(取材者)今 表札に
堤と書かれてたんですけれども。

え~と 私のですね じいちゃんと
真一君のじいちゃんが いとこです。

堤 由紀夫さんの祖父と
真一さんの祖父は

いとこ同士にあたります。

真一さんとは面識はありませんが
その活躍を 誇りに感じてきました。

あ~ VHSやん。

映画のあれですとか
「マッサン」とか

「武田信玄」ですね。
これ 真一君が出てるやつだけを。

(取材者)そうなんですね。
はい。 全部 映画 行きましたから。

やっぱり 血のつながりがありますから
うれしいですよね。

すごいな。
応援してます。

この地域に関する
興味深い話を聞きました。

こんにちは。

宇土市教育委員会の学芸員
大浪和弥さんに

堤地区について尋ねました。

堤家がある集落から
およそ2キロにわたって堤防を築き 干拓。

新たな土地が できたといいます。

(大浪)この堤防のことを
堤というふうに呼ばれますので

この堤防が 現在の堤地区の
由来になったというふうに思います。

戸籍からたどれる一番古い先祖は

真一さんの5代前の弥平です。

こちらがですね
明治9年から始まりました

地租改正事業の際に作成されました
土地の帳簿になります。

弥平さん この方は恐らく
江戸時代の人物ですね。

現存している帳簿によると
明治9年の時点で

堤家は 30か所以上

合計 3, 500坪以上もの土地を
所有していました。 は~。

更に。

真一さんの曽祖父 喜吉は43歳で
網津村の村会議員になり

その後3期 10年にわたって
務めていたことが分かりました。

そんな堤家で
明治31年に生まれたのが

真一さんの祖父 次郎です。

次郎に関する記録が
熊本県立図書館で見つかりました。

よく見つけんな。

大正9年 次郎は
巡査教習所に入所

警察官になります。

大正11年の熊本県警察職員録にも
次郎の名前がありました。

次郎は24歳の時

黒肥地村駐在所に
勤務していたことが分かりました。

こんにちは。

多良木町役場の学芸員…

当時 各市町村ごとに駐在所が設けられ
一人の警察官が居住し

治安維持にあたりました。

かつては店も立ち並び 人の出入りが
盛んだった この村の治安を

次郎は 一人で守りました。
広いなぁ。

熊本県警の元警察署長で
現在は警察史を研究している…

当時の駐在所の警察官は

消防や保健所のような仕事も
担っていたといいます。

大正13年 妻 初枝との間に
長男の雄が誕生します。

後の真一さんの父です。

戸籍には 岡原村駐在所において
出生とあります。

は~ 駐在所で。

(取材者)この辺りですね
今 銀色の建物が建っている辺りが

岡原村駐在所が
かつてあった場所だと思われます。

ちょっと聞いてみます。

あ すみません。 お世話になります。

現在お住まいの方に 大正時代の
駐在所について聞いてみました。

(取材者)何か そういったようなお話って
聞かれてたりしませんですかね。

私たちの ばあちゃんが
よ~く話してました。

駐在所があって ここに。

駐在所 この付近だったんですかね
当時は。

この地で生まれた雄でしたが
そう長くは暮らしませんでした。

父 次郎は 警察官になってから
雄が小学校を卒業するまでの間に

6か所もの駐在所で
勤務していたことが分かりました。

大変だ。
ね。

転勤が多くて。

昇進の道を進まず
地域の治安維持を信念として

家族と共に
県内各地を転々とします。

次郎のめい 野口秀子さんです。

次郎は丁寧で 穏やかな人
だったといいます。

熊本市の歴史文書資料室で
次郎に関する資料が見つかりました。

昭和12年 次郎は
きぜんと賭博を取り締まり

8名を
検挙していました。

いや あんなところまで
たどれるんですね。
そうですね。

なんかね 子どもの頃に おじいちゃん
警察官だったとかっていうのは

何となく聞いたことが。

このあと まあ
太平洋戦争に入るじゃないですか。

そういう時に 警察官って
何か悪いイメージっていうか

僕の中にあって。
あったんですか。

だから
あまり知りたくないっていう部分が

僕の中にあったのかもしれないですね。
でも ちょっとイメージが違う じゃあ。

うん そうですね 駐在さんっていう。

そうですね。
ほんとに土地の人と近い距離の

ほんとに駐在さんっていう感じやった。

自分の先祖っていうのに

自信を持てなかった部分が
あったんですけど。
うん 今までは。

でも 何か
すてきなじいさんだったんだなと思って。

警察官の長男として
生まれた雄。

父 次郎の
度重なる転勤もあり

なかなか友達が
できませんでした。

雄のめい 芥川尚子さんです。

母から 雄が幼い頃の話を
聞いています。

昭和12年 河俣尋常小学校を卒業した雄。

雄のいとこ
野口秀子さんは

その後の話を
聞いていました。

成績優秀だった雄は
伯母の家に下宿し

熊本県立宇土中学校に
通うことになります。

当時 旧制中学は
県内で僅か11校 狭き門でした。

雄と同級生だった方のお宅で
卒業アルバムが見つかりました。

やっぱり同じクラスで 父がここにいて
堤さんのお父さまが こちら。

あ 似てらっしゃる。
面影がありますね。

こんにちは。 お世話になります。

当時…

雄の話を
伝え聞いています。

しかし その夢は かないませんでした。

時は 太平洋戦争真っただ中。

昭和18年 戦況が悪化していく中
陸軍に ある制度が設けられます。

航空や船舶 通信などの特別な技能を持つ
下士官を 短期間で養成するものでした。

大学進学が かなわなかった雄は
これに志願。

新たな目標を抱きます。

昭和19年4月。
1期生として

岐阜陸軍
航空整備学校に
入校。

整備兵を志します。

特別幹部候補生時代の
同期が見つかりました。

すみません。 お世話になります。

森口 智さん 96歳です。

整備学校での訓練は
厳しかったといいます。

入校から1年半後 終戦。

結局 雄は陸軍での昇進も
かないませんでした。

戦後の混乱の中 働き口を探して
たどりついたのは 神戸。

当時 事業の拡大を図っていた
神戸製鋼に入社したのです。

当社のですね 人事記録です。

ここに 堤 雄さんの
お名前がありますけども

入社日が1947年の9月5日ということで。

で ちょうど昭和22年というのはですね
そのすべての…

全部で13工場
当時 立ち上げることにしたんですが

ちょうど まあ日本全体が恐らく

軍需から民需へというような
産業が移っていく中で

全国からですね 人材を
当時は集めたんだと思います。

雄は 神戸市にあった
山手工場で働きます。

そこで製造していたのは
金属同士を接合する際に使われる

溶接棒でした。

この一本一本で 例えば船の鉄の
溶接板をつなぐ溶接ができるという。

この溶接棒も溶かしながら
板の方も溶かしてですね

それをつなげるという棒でございます。

今回の取材で
雄の職場の後輩が見つかりました。

宮武亀代一郎さんです。

雄のことを よく覚えています。

あの人も兵隊から帰ってきて

とにかく就職できたらええわ
というような感じでしたね。

働かせてもらえるという。

自分の技術を売り込んで
働く時代じゃないですから

体に合わせて 仕事に合わせていくという
時代ですからね。

雄が担当したのは
製造ラインの最終工程にあたる

包装作業でした。

外交官を夢みていた雄。

出荷用の30キロの木箱に くぎを打ち
黙々と運びました。

更に 入社した頃の雄の足跡が
意外なところで見つかりました。

こちらに 堤 雄さまの
お名前がございますす。

勉学への思いを捨てきれなかった雄。

工場で働きながら 定時制高校に通い
24歳で卒業していました。

そんな雄のささやかな楽しみが
仕事帰りにたしなむ酒でした。

こんな写真。

雄は ある日
ふらりと神戸市内の食堂を訪れ

一人の女性と出会います。

食堂で働いていた山下登美子。
後に妻となる女性でした。

いや 東大 受ける。
いや そうですね。

ほど優秀でって。
はい。

で 外交官になりたいっていう夢を
抱いてはったっていうのは。

全然 知らないし。
全然 知らない。

ましてや 高校。
はい 定時制 もう一回 行き直して

卒業されてるんですね。

知らなかったんですか。 全然 知らない。
え~!?

確かに何でも真面目に黙々とする
タイプでは あったと思うんですけど

いや ほんと勉強が好きだったんですね。
そうですよね。

でも不思議なのが そんな無口な方が
食堂で出会った人と

どうやって結婚するのかな 思うて。

こっからは大体分かってるんです 僕。
(池田)あっ そうなんですか。

おかん側からの。
あ~ なるほど。

僕 ここまででいいわ 今日。
(笑い声)

真一さんの母 登美子さんは
今年で90歳 現在は病気で療養中です。

ここからは
母方 山下家の歴史をたどります。

古い戸籍によると
山下家は明治時代

奈良県宇陀市で暮らしていたことが
分かりました。

かつて城下町として栄え
今も古い町並みが残されています。

ほんとだ。

山下家は どんな家だったのか?

町史の編さんも担当した
谷山正道さんを訪ねました。

ある旧家に残されていた文書の中に
山下家の先祖の名前があったといいます。

(谷山)「稼人 喜兵衛」と…。

喜兵衛 江戸後期から
明治の初めにかけて生きた

真一さんの5代前の先祖です。

(谷山)で これを見ていきますと
ここの方が

「古手 古金 古道具商い」と
書かれています。

江戸時代から
商売を営んできた山下家で

明治33年に生まれたのが
真一さんの祖父 利一です。

宇陀市で暮らす利一の次男の妻
山下恒子さん。

若いなぁ。
おばちゃん。

若き日の
利一の足跡を聞いていました。

大阪市立中央図書館で
利一と一緒に商売をしていたという

兄 徳治郎に関する資料が見つかりました。

見つかるねぇ。
なに それ。

こちらが大正14年の
大阪電話番号簿になります。

こちらに 山下徳治郎という
お名前があって

「てつや」という屋号で
呉服衣服商を営んでおられたようです。

呉服商の名は
「てつや」。

そこには 住所も記されていました。

大阪歴史博物館の学芸員
船越幹央さんに

店があった場所に
案内してもらいました。

こちらになるんですけれども。

呉服商「てつや」があった場所は
大阪駅から僅か1キロほどの場所。

今 駐車場になってる場所が
「てつや」のあった場所なんです。

あ まさに ここ。

立地条件は抜群だったといいます。

真一さんの祖父 利一と共に
呉服商をしていた兄 徳治郎の孫が

見つかりました。

すみません。 お世話になります。

山本美代子さんです。

かつて「てつや」で使っていた
貴重なものが残っていました。

こういうふうな感じでしょうかね。

意外と のれんって分厚い生地なんですね。
びっくりしました。

更に。 きれいな状態で。

古い写真ですが
こんなの出てきまして

これは 「てつや」のお店の前で
勢ぞろいした写真ですね。

こちらの端のが 山下徳治郎で。

そして こちらが山下利一さん。

弟さんになりますね。
男前やな。

「てつや」は 上質でセンスの良い着物を
仕立ててくれると評判でした。

(取材者)あ なるほどですね。

呉服商だった利一の長女として
育ったのが登美子。

後の真一さんの母です。

どんな幼少期だったのか
聞いている人がいました。

アメリカ?
は?

カリフォリニアで暮らす
登美子の長女で

真一さんの姉
ギブス佐代子さんです。

ちなみに佐代子さんは かつて
阪神甲子園球場のウグイス嬢として活躍。

(アナウンス)4番 サード 掛布。

街の声の美人にですね
いろいろ集まって頂きました。

真一さんより先に
テレビ出演を果たしています。

1回の裏 タイガースの攻撃は

1番 ライト 真弓 背番号7。

(拍手)

ところで 母 登美子の子ども時代は…。

母は あの~ かわいがられていて

よくいろんな所に連れていってもらった
っていうことは言ってました。

で 小さい頃から
いい着物を着せてもらっていて

ほんとに恵まれた生活をしていたように
聞いてますけれども。

しかし昭和14年 店を牽引してきた
利一の兄 徳治郎が

51歳の若さで亡くなります。

更に 時は日中戦争のさなか。

昭和15年には
高級な衣服や反物は ぜいたく品とされ

販売が禁止されたのです。

繁盛していた「てつや」ですが
やがて 閉店を余儀なくされました。

利一は家族を引き連れ
ふるさとの奈良県宇陀市へ戻ります。

利一の次男の妻 山下恒子さんです。

昭和19年 登美子は
奈良県立宇陀高等女学校に入学します。

はい え~
昭和19年入学の方の学籍簿になります。

こちらに お名前があります。
氏名 山下登美子さま。

その翌年 終戦を迎えると
山下家の生活は一変します。

登美子は女学校を中退。
親元を離れ

叔母夫婦が神戸で始めた
食堂を手伝います。

(取材者)これが若かりし頃の…。
(山下)登美子さんですわ。

食堂の前で写した一枚の写真。

よく見ると 六甲新道商店街と
書かれています。

こんなんで
調べるんだ。 すげ~な。

こちらですね。 はい。

六甲新道商店街の商店名簿があります。

その中に ここに
サザエ食堂の記載があります。

サザエ食堂の住所も記されていました。

その場所を訪ねてみると…。

(取材者)恐らく この辺りが

商店街があったと思われる
通りだと思うんですが…。

すみません。 こんにちは。
あ こんにちは。

すみません あの~ サザエ食堂という
お店があったそうなんですけども

ご存じだったりされますか?
よう知ってますよ。

結局 あの~ ちょうど この真ん前ですね。

そこの真ん前です。

ちょうど今 あのビルになってる…。
(男性)うん そうそう そうそうそう。

(取材者)この辺りが。
(男性)そうですね。

ここに かつて
サザエ食堂があったといいます。

(取材者)
俳優の堤 真一さんのお母さまが

このサザエという食堂で
働いてらっしゃったんですよ。

働いてた方 おられます。
ちょっと 名字 分からんですけど

確か 登美ちゃん 登美ちゃんって
いうておられたけどね。 おお~!

(取材者)そうです。 登美子さんと
おっしゃるんで。
ああ 登美子。

割と ちょっと小柄な 割と
べっぴんさんやったと思ったけどね。

ハッハッハッハ。
看板娘いう感じの人やったからね。

覚えてはんねや。
当時 食堂を営んでいた

叔母夫婦の長女が
見つかりました。

古市康子さんです。

同居していた登美子とは
姉妹のように育ったといいます。

(取材者)ああ~。
お姉ちゃんの
いい笑顔でしょ? 愛想がいい。

テキパキとした
そんなイメージが残ってますね。 うん。

康子さんには 登美子との
忘れられない思い出があります。

(康子)私が小学校の頃にね
運動場にあるシーソーで

ねんざして
しまったんですよ。

それで そのあとに運動会があって
リレー 走れなくなった時に

お姉ちゃんが 私とこへ パッと来て

おんぶ おんぶって言って
おんぶしてね

私が走るべきリレーにね
お姉ちゃんが走ってくれたんですよ。

アハハハッ。
で 周りの人が うわ~って。

大人が 私をおんぶして走ってるのを
わ~って拍手してくれて。

当時 店によく通う客がいたといいます。

神戸製鋼で働いていた 堤 雄です。

あの隅っこで 静かに 一人で こう…。

アハハハッ。 …っていう印象が。

スラッとした… スラッとしたね
ハンサムでしたよ。

ある年の正月
一通の年賀状が登美子のもとに届きます。

パッと裏を見たら
堤 雄と書いてあったんです。

あっ あの堤さんから… いや
雄さんっていう名前やわと思って

名前どおりに静かな方やなと
思ったんです。

それで お姉ちゃん お姉ちゃん
堤さんから来てるよって言って

お姉ちゃんに渡したら お姉ちゃんが

あっ そう? って言ってパッと受け取って
スッと奥へ入っていったので

じっくり一人で見てたん違います?

心に秘めてた人だったんだなと
後で分かりますよね。 フフフッ。

こうして 昭和37年 2人は結婚。

雄38歳 登美子31歳の時でした。

いや すごいですよ 向かいの人が
登美ちゃんって覚えてるんですもん。

覚えてたって すごいですね。
食堂で働いてた人を。

いや でも あの年賀状のエピソードはね。
ああ びっくりしたなあ。

何か すてきじゃないですか~。
もうパッと持って

自分一人で じっくり眺めてっていう。
ねえ。

しかも おふくろに… お店じゃない
ですもんね おふくろに宛てて。

ラブレターみたいなもんでしょうね。
ねえ。 いや 面白いな。

お父さん そんな声かける
タイプじゃないですから。 ないですからね。

でも ひそかに思ってたのか…

まあ その辺 想像すんの
気持ち悪いけどね 何か おやじの。

昭和37年に結婚した 雄と登美子。

その翌年 兵庫県西宮市に
建設された

浜甲子園団地に入居します。

当時 団地暮らしは憧れの的で

応募倍率は十数倍ともいわれました。

堤家が暮らしたのは 98号棟。

98って すごいですね。
すごいよね!

住宅政策に詳しい…

現在は 建て替え工事が
行われていました。

当時の浜甲子園団地の映像が
NHKに残っていました。

そして 団地に入居した翌年の昭和39年
長男の真一が誕生します。

時代に翻弄され 夢を諦めた2人。

憧れの団地で
モダンな生活を始めました。

ごめんくださ~い。

子どもの頃 堤家に遊びに行くのが
楽しみだったといいます。

朝御飯が 茶葉を煮立てて
紅茶をいれて下さったり。

半熟卵で エッグスタンドに立てて

で 半熟卵だから こう垂れてくるから
スプーンですくって食べるっていうのが。

(久保)何か ハイカラな。
ハイカラな。

(大西)オーディオで音楽が流れてて
クラシックだったんですけど…。

(久保)堤家 行くと

もう何か
全然 世界が違う。

そして 雄の一番の趣味は
自宅での読書。

文学 政治 哲学と
幅広いジャンルの本を読みました。

(久保)おじさんが 本好きで

行くと 何か難しい本が
たくさん あってね

その中で
何か 図鑑みたいなのを見つけて

それを見るのが すごい楽しみで。

これは すごい量やわ。

この団地で ようやく
望んだ生活を手にした雄。

しかし
無口なところは 相変わらずでした。

全くしゃべんないんだよ ほんとに。

ほんとにしゃべんない。 もう
高倉 健さんなんか しゃべり過ぎですよ。

起きて 朝 寒いって起きると
で おやじ

ちゃんとストーブつけて あっためては
くれてないんで 寒いって言うと

おやじは 「冬は寒い」 これだけです。
名ゼリフ。

で 暑い暑いって
夏 暑いっつったら 「夏は暑い」。

何の こっちも
リアクションも取れないし。

そのころ 雄は

大阪 茨木市の工場で
働いていました。

その真面目な仕事ぶりが評価され

製品を包装する係の班長を任されます。

雄の職場の後輩だった
和田知久さんです。

血気盛んな人も多い中
雄は 異質な班長だったといいます。

あらま!

大勢をまとめる立場の夫を
妻 登美子は支えました。

同じ団地で 堤家と家族ぐるみの
つきあいをしていた

冨田千恵子さんです。

家族に おいしい食事を食べさせたいと
飲食店でも働きました。

団地に入居して9年。

真一が小学校2年生の時

雄に 広島の工場への
転勤話が持ち上がります。

しかし 友達と離れるのが
嫌だった真一は

行きたくないと言いだします。

警察官だった父の転勤で

転々としながら
少年時代を過ごした雄。

その栄転話を断り 浜甲子園団地で
家族と暮らすことを選んだのです。

ほんとに そうですね
断ったっていうのは

家族のこと考えてですね。

てっきり そんなふうな理由とは
思ってなかったんで…。

父親が 自分が
転校し続けてたからっていう。

でも 言わないから 何にも。
そうですね。

話さないんですね。
ほんとに。

でも お父さんね 職場ではね
すごい女性に。

モテたって言ってましたね。
ほんとですね。

相談に乗ったって
あの無口が どうやって…。

だから 今 この時代に
一番必要とされている

聞き力ですよ。
ああ~。

満遍なく聞いてたんちゃいます?
ほんとに。 いや でも

そんなイメージが全く… 何か
女性と しゃべってるイメージが

全くない人なんで。

浜甲子園団地で 伸び伸びと育った真一。

小学校 中学校と野球に熱中しました。

その一方 成長するにつれて 父
雄との間には 溝ができていきます。

一番分からん
時代やわなあ
思春期で。

父とは話したくないっていう
状態になっていて

父の思ってることを話してくれたり
っていうことが もちろんなかったので

そういうこともあり

だんだん距離が
できていったのかなって思うんですが。

昭和55年 真一は
西宮東高校に進学し 野球部に入部。

しかし
当時の野球部の体質に嫌気がさし

僅か半年で退部します。

すると…。

小学校から
ずっと そうだったじゃないですか。

野球を中心で生活してたんで

やめた途端 やることがないし
気力が湧かないんですよ。

だから それがなくなった途端

学校行ってる意味とかも
もう分かんなくなって。

やがて 不登校になった真一。

悶々と毎日を過ごします。

そして とうとう中退を決意し
父 雄に向き合いました。

思わず出た言葉が…。

家族のために 黙々と働いてきた
雄の重い ひと言でした。

重いわ。

そして 真一が 3年生になったある日。

テレビ番組で見た スタントマンの派手な
アクションに すっかり心を奪われます。

真一と…

当時 体操を習っていた戸谷さんに

真一から
電話が かかってきたといいます。

アクションスターの養成所
みたいなところに入りたいから

体操 教えてくれない?
みたいな話をしてきて

あっ 実は 俺も 去年 そこを
受けたことがあって 落ちてて 一回。

もう1年 受けようと思ってるんだ
っていう話をして

えっ そうなの? みたいな感じで。
あ 分かった 分かった じゃあ一緒に

じゃあ 1年間 体操 教えるから
受けよっか みたいな感じで。

そして 2人とも
見事 オーディションに合格。

昭和58年

高校を卒業した真一は
京都にあった養成所へ通い始めます。

そのころ 父 雄の体に
異変が起きていました。

家に帰宅した時に
まあ 父が背中を向けて座って

前かがみに… 上半身 前かがみに
なってるような状態だったんですね。

で じっとしているので
どうしたの? って聞くと…

いや 痛いの? って聞くと
うなずく感じで。

診断は 肺がんで 余命3か月
と言われたのを覚えています。

登美子は 雄に悟られぬよう
病名を隠して気丈に振る舞いました。

病院の料理だけでは 味が
薄かったりするだろう ということで

母が作ってる手料理 おいしいものを
持っていってあげようっていうことで

毎日のように行っていたと思います。

闘病生活が9か月続いた頃。

真一は 選抜クラスに選ばれ
東京の養成所に行くことになります。

その報告をするため
父 雄の病室を訪ねました。

「どうやって来た?」って言うから

友達の岩田というやつの車で来てると。
そこに止めてるって言ったら

要は 切符 切られるから
過ぎちゃうから もう行けと言うんですよ。

いやいや まだ10分 15分しか
たってへんぞと思いながら

じゃ 何日に東京に行きますって言って…。

雄は 立ち去ろうとする真一に向け
声を振り絞りました。

その無口の人が 急に
「真一!」って 大きな声で呼ぶんですよ。

えっ!? と思ったら
「元気でな」って 言ったんですよ。

ああ この人 死ぬって知ってると思って
もう振り返れなくて

そのまま 病室出て 号泣しました。

ああ 会えないんだと思って。

もう この人と会うことは
もうないんだって。

それから1か月後
雄は 60歳の若さで この世を去ります。

高校時代の担任で 不登校になった
真一を気にかけていた…

真一から 手紙が届いたといいます。

真一は 東京へと戻り
一心不乱に アクションの練習に励みます。

夢を追う真一を
母 登美子は 全力で支えました。

登美子の友人で
かつて 同じ団地に住んでいた…

お母さん 一生懸命 頑張るから

アルバイトなんかをするなって
言ってたと言ってた。

お金は お母さんが働いて協力するから

そのかわり
それを もう一生懸命やりなさいって。

アルバイトをすると つい横道

ねえ あんな東京行ったら
それることが多いじゃないですか。

東京で 4畳半のアパートを借りて
ハードな稽古をこなす毎日。

しかし 真一は 度重なる
膝のけがに泣かされました。

養成所の同期で 俳優の…

アクションに限界を感じ始めていた頃
真一に 大きな転機が訪れます。

父を亡くした翌年
21歳で出演した舞台「天守物語」。

坂東玉三郎さん
主演の舞台でした。

真一は 黒子として
獅子の頭と前足を動かしました。

後ろ足は 同期の明樂さんが担当。

その獅子の動きに
駄目出しが飛んだといいます。

動きの間とかっていうのを

ものすごく 玉三郎さんに指導されてた
記憶がありますね。

侍が 敵が入ってきた時に
ぬ~っと 動きだすんですけど

この ぬ~っの時から
間が違う 間が違う みたいな

何を おっしゃってんのかなと
僕は思いながら 聞いてましたけど

要は 役者の生理で 物を動かさなきゃ
駄目だっていうことだと思います。

真一は 演じることの
奥深さに気付かされます。

アクションの道ではなく
俳優を志すようになった 真一。

ドラマのオーディションを受け始めます。

すると昭和62年 23歳の時に
NHKのドラマで主演に抜てきされたのです。

お茶飲む?
いいけど。

その辺…。

たまたま 電話をとったのは
私だったんですけども

第一声で 「堤 真一やりました
NHK主役!」って言ったと思うんですが

ほんとに びっくりして
えって なったんですけど

母は よかったねって感じで
放送を楽しみに ずっとしてました。

その後 舞台 映画 ドラマと
幅広く活躍を続け

味のある演技で
人々を魅了し続けていきます。

2人で メイド イン ジャパンの
新しい時代 つくったろやないか。

父 雄さんの職場の後輩…

この思春期のね
あれは 深いですね サラリーマン。

やっぱり分かりますよね 子どもの時に
お父さんと逆のことをね。

はい そうですね。

しがないサラリーマンみたいなイメージで
こっちは見てるし

そんな東大を受けれるぐらいまで 勉強…
受けろと言われるぐらい勉強して

それが 戦争によって砕かれた人とは
知らないので

よく そんな生意気なこと
言ったなって思いますよね。

でも 何か 後輩の方ですか
演じてる時の堤さんが

たまに やっぱりお父さんに似るっていう。
ああ 言ってましたね。

だから こう 何ていうんでしょう

自分の中に ちゃんと そういう意味では
父親っていうのは生きてるって。

しかも 大きな存在ですよね。
そうですね。

でも その勉強したいっていう意欲が
僕には欠けているので

これ ちょっと
今の自分に対する反省として

やっぱり
もっと勉強って その何ていうのかな

何かを学ぶっていうことが
すごく大事だし

平和な環境だからこそ できるんだ
今だからこそ できるんだということ

その時間を やっぱり
無駄にしちゃいけないなと思いましたね。

いや でも ほんとにありがたい。
何なんでしょうね これ…。

さあ それでは 最後のVTR。
ほんとに ごめん。 いや~ 感謝ですよ。

いや~ 是非 最後のVTR ご覧下さい。

平成20年 76歳だった母 登美子さんは

女性としては 初めて
浜甲子園団地自治会の会長に就任します。

自治会の事務局長…

登美子さんは
精力的に 動き回っていたといいます。

あっ これだ。

これが その時の写真だったんですけどね。

郵便ポストの設置を働きかけるなど
よりよい暮らしのために奔走。

86歳まで会長を務め 夫や子どもたちと
暮らした団地を守り続けました。

そして 子どもの頃から
向学心を持ち続けた 父 雄さん。

今回 近畿大学で
あるものが 見つかりました。

静雄さんは 定年を迎える前

51歳で 近畿大学短期大学部
通信教育部に 入学していました。

そして 更に…。

裏面の方に 当時の入学の動機
卒業後の希望ということで

当時 税理士の受験を
志されていたということが

こちらから読み取ることができます。

雄さんは 10代の頃に諦めた大学に入学。

難関の税理士を目指していたのです。

志半ばで倒れた雄さんは
夢を追う息子を 静かに応援していました。

亡くなる前 真一さんを病院に送った
岩田和彦さんに

自身の思いを伝えていました。

今回の取材で 雄さんが写した
大量の写真が見つかりました。

♬~

団地のモダンな生活に憧れを抱いた
雄さん。

1963年4月に
建設中の団地を撮影しに行きました。

そして 1964年7月6日 朝。

長男 真一さんが生まれる前日

我が子を待ち望みながら
団地の風景を写しました。

そして 7月7日
長男 真一さんが誕生した日。

カメラを向けたのは
やはり団地の風景でした。

真一さんが 団地生活に加わった瞬間も
シャッターを切りました。

心の内を語らなかった 雄さん。

何よりも大事にしたのは
団地で家族と過ごす 何気ない日常でした。

堤 真一さんの「ファミリーヒストリー」

誠実に生き
家族を愛した歳月がありました。

♬~

やべっ。

無口だから 何か ずっと
愛されてないって思ってたので

俺のこと嫌いなんだろうなって
生意気だったし。

それが…。

ほんと バカですね。