ファミリーヒストリー「前川清~苦難の中で祈りをつなぐ~」[解][字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

ファミリーヒストリー「前川清~苦難の中で祈りをつなぐ~」[解][字]

両親の人生を知り、思わず涙。世界遺産に登録されている教会に先祖の足跡。優しかった父が戦争から帰還後は人が変わった…満州で何が。困っている人への親切を続けた母。

番組内容
前川清のルーツは父方・母方ともに現在の長崎市外海地区にあることが判明。江戸時代、ひそかにキリスト教の信仰を続けた「潜伏キリシタン」が多かった場所だ。果たして清の先祖は?祖父と父は腕利きの大工で、長崎の造船所で働いた。昭和16年、父は招集され満州へ。帰還すると「人が変わっていた」という。戦地で何があったのか。母は生涯、困っている人に無償の親切を続けた。葬儀には会場からあふれるほどの人が訪れたという。
出演者
【ゲスト】前川清,【司会】今田耕司,池田伸子,【語り】余貴美子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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♬~

歌手 前川 清。

昭和44年に 内山田 洋とクール・ファイブの
ボーカルとして デビューすると ヒット曲を連発。

♬「今日も 雨だった」

パッと決めて…。

萩本欽一との軽妙な掛け合いで

幅広い世代から 人気を集めてきました。

はい 流し目 流し目
ちょいちょいちょい。 (笑い)

(拍手)

前川 清は 現在73歳。

昭和23年 長崎県佐世保市に生まれました。

あっ どうも。

(スタッフ)今日は ありがとうございます。
ああ どうも よろしくお願いします。

家族の歴史について
多くを知らないといいます。

この73年 生きてたうちで
一回も おやじ おふくろから 祖先…。

おじいちゃん おばあちゃんに
まあ お墓で手を合わしてとか

そういったものは聞きますけども
それ以前のことは何の情報も。

僕も 拝見させて頂くんですよね
この番組というのは。

こうして話が来て うれしい反面
何にもない自分がいまして

ほんとに ご苦労さまです。

今日のゲストは 前川 清さんです。
どうぞ!

よろしくお願いしま~す!
どうも よろしくお願いします。

お願いいたします。
お願いします。

どうぞ こちらの方へ。
はい すいません。

いや~ 前川さんも。
はい。

私は もう この番組やってて
やっぱり 不思議シリーズといいますか

やっぱり 子供の時から
見てた方ですから。
ああ~。

その方が今 ちょっとね 来て
その方の歴史を今から一緒に見るという。

はい。
今の心境は どうです?

まあ そうですね あの~ 半々ですよね。

いや まあ楽しみと

自分の過去というものが
どういうふうなルーツで

自分が ここまで来れてるんだろう
という不安

いろんなものがありますね。
そうですね。

♬~

父方 前川家のことを知るために
向かったのは 長崎県長崎市です。

郊外にある カトリック信者の墓所。

ここに 前川家の墓があります。

眠っているのは 清の祖父
祖母 父 母 そして兄。

前川家は 代々
クリスチャンでした。

う~ん。
(池田)代々…。

歴史があるな。
長崎で。

父方 前川家でたどれる
一番古い戸籍です。

天保13年に生まれた

清の祖父の伯父にあたる 七平のもの。

暮らしていた場所は

「長崎県西彼杵郡
黒崎村」とあります。

黒崎村は 現在の長崎市外海地区。

長崎市内から
およそ40キロのところにあります。

外海地区にある 出津教会。

国の重要文化財に指定され

世界遺産として登録されている
カトリック教会です。

明治15年
フランス人宣教師 ド・ロ神父が建設。

現在でも
多くの人たちの尊敬を集めています。

朝6時の出津教会。

(鐘の音)

ミサが執り行われていました。

出津教会に カトリック信者だった
前川家の記録がないか尋ねたところ

特別に 洗礼台帳を
見せてもらうことができました。

江戸時代末期の文政2年

1819年に生まれた 清の高祖母
ツヤの記録です。

生年月日 両親の名などが
細かく記されています。

明治13年 60歳の時に
ド・ロ神父から 洗礼を受けていました。

外海 五島などの キリシタンの
研究をしてきた阿部律子さんに

清の高祖母
ツヤの洗礼台帳を見てもらいます。

阿部さんが注目したのが
前授洗者のところ。

前授洗者とは ツヤが ド・ロ神父から
正式な洗礼を受ける前

キリスト教が禁止されていた江戸時代に
洗礼を授けた人物のことです。

「不明」と書かれていますが…。

はい はい。

外海地区は 角力灘に面しています。

慶長17年 1612年
キリスト教の禁止令が出てから

明治6年までの 250年以上

ひそかに信仰を続ける
潜伏キリシタンが暮らしていた地です。

遠藤周作が 江戸時代初期の
キリシタン弾圧を描いた小説 「沈黙」。

前川家の暮らした外海地区が
舞台になっています。

2016年 マーティン・スコセッシ監督が

「沈黙 -サイレンス-」として
映画化しました。

踏み絵など
すさまじい弾圧を受けながらも

人々は ひそかに信仰を続けたのです。

昭和58年に発行された 「出津教会誌」。

明治2年ころのことを
記した箇所に

清の祖父の伯父にあたる

前川七平の記述がありました。

外海地区を治めていた 大村藩の役人が

七平の家に上がり込み

地域の葬儀が 仏式で行われているか

ひそかに監視していた
エピソードが紹介されています。

この地で 先祖代々暮らしてきた…

へえ~。

清の祖父の伯父にあたる 前川七平。

天保13年に生まれた この人物は

何をして 生計を立てていたのか。

長崎のカトリック共同体について
研究している…

前川七平について書かれた資料を
持っていました。

(叶堂)そこ ちょっと読んでいきますと…。

外海地区から 80キロの場所にある
田平天主堂。

現在のものの前に使用されていた
仮聖堂の増築に

前川七平は 大工の一人として
携わっていたことが分かりました。

七平の甥にあたるのが

明治15年生まれの 前川代作。

清の祖父です。

七平の土地台帳を入手しました。

それによると七平は 明治38年

甥の代作に
土地を相続させていました。

おい お前 最初は こうだぞ。
はい。

清の祖父 代作は
七平から 大工仕事を仕込まれました。

明治38年 代作は
七平から土地を相続した年に

下川キトと結婚します。
22歳の時です。

さあ いかがでしたか。
ねえ。

代作じいちゃんという までは
覚えてるんですよ。
はいはいはい。

で 代作じいちゃんが
ず~っと大工をやって

しかし その前から また大工さんであった
ということは 僕は初めて知りました。

いや でも大工さんより うわ~ こう
違うものを望んでたんですけどね。

いやいやいや。
やっぱり 大工さんだったんですね。

大工さんは大工さん それは
変えれないですよ。 あ そうですね。

あの洗礼の資料とかが やっぱり。
びっくりしました。

何か カトリックといっても
僕なんかは今 普通どおり いるけども

その当時 やっぱり
ひいおじいちゃんであったり

そういった方たちには
やっぱり命懸けのもの…。

命懸けで信仰してきたというのがね。
だったんですねぇ。 はい。

代作の次男として誕生したのが
海蔵。

後の清の父です。

出津教会の洗礼台帳に
海蔵の記録が見つかりました。

洗礼名は 「ヨゼフ」とあります。

前川家が 明治 大正期に住んでいた
付近の写真です。

傾斜地が多いうえ 港も発達しておらず
生活するには苦しい場所でした。

30歳を越えた代作は
妻 キトと子供たちを連れ

外海地区を離れることにします。

キリスト教の信仰も認められる中

よりよい生活をするために
新天地を求めたのです。

大正の初め 清の祖父 代作が
一家で移住したのは

長崎市 水の浦町。

近くに 現在の
三菱重工業長崎造船所がある場所でした。

江戸時代後期に 日本で初めて
本格的な造船が始まった長崎市。

大正に入ると
貨客船や軍艦などの需要が拡大し

たくさんの人が働いていました。

三菱重工業長崎造船所を訪ねます。

当時 造船所内にあった木工場の写真です。

ここで 前川代作は
大工としての腕を存分に生かしたのです。

代作の次男 海蔵が通っていたのは
地元の飽浦尋常高等小学校。

昭和50年に発行された
創立100周年記念誌の中に

昭和2年の卒業生として
海蔵の名が記されていました。

海蔵は 尋常高等小学校を出たあと
何をしていたのか。

海蔵の次女で 清の姉に聞きました。

(取材者)今日は ひとつ
よろしくお願いいたします。

こちらこそ
よろしくお願いいたします。

そうそう そうそう。

海蔵! ばかっ話してないで
これ ちゃんと確認しとけ。

分かりました。

海蔵は 学校を出たあと
父 代作と共に 造船所で働きました。

昭和16年に制作された
三菱重工業長崎造船所の記録映像です。

当時は
2万5, 000人近くが働いていました。

ところで 若き日の海蔵は
どんな青年だったのでしょうか。

初代 天中軒雲月とは 佐賀県出身。

九州一帯に名をはせ 明治後期から
昭和初期にかけて活躍した 浪曲師です。

♬~

か~っ! いいねぇ。
あんた 好きねぇ。

天中軒運月に憧れた海蔵は
よく 人前で浪曲を披露しました。

なかなかの腕前だったといわれています。

清の祖父 代作や
父 海蔵が通っていたのが

飽の浦教会です。

教会に 海蔵が結婚式を挙げた時の
記録が残っていました。

昭和13年3月に結婚した相手は 今村ハツ。

長崎市内の病院で看護師をしている女性。

後の 前川 清の母です。

前川海蔵23歳 ハツ22歳の時のことです。

いかがでしょうか。
はい。

新天地を求めてということで。

やっぱ 写真残ってましたけども
すごい場所でしたねぇ あの前の。

あの場所を覚えてます。

僕はですね あの時に
佐世保というところに住んでて。

3つ 4つぐらいの時です。

その時に 大きい船で
その出津というところまで来るんですよ。

車が もう大変で行けない。
行けない?

そうすると そこから港がないんですよ。

で 港がないから 伝馬船というか
櫓をこぐという人がいて

そこから こう
大きいのから はしごを下ろして

それで 下に降りていって
その出津というところに 僕は…。

そうしないと
入れないとこなんですか? そうです。

波がある時は だから もう駄目です。
行けません。

今日は もう上陸できませんっていう?
もう駄目です 駄目です。

お父さんの海蔵さん。
はい。

海蔵さんが やっぱり
浪曲が すごい好きやったっていう。

ああ だからねぇ。

ちょっと 前川 清さんのルーツが
そこで感じますね。

浪曲ってね
うちの姉も言ってましたけど

とにかく 飲むと 浪曲歌ってました。
へぇ~。

子供ながらに
やっぱり上手だなぁと おやじの。

前川さんも覚えている?
覚えてます。

歌ってたのは。
で これがね 不思議なもんで

ウウゥ ウウゥ~っていうのが
似てるんですよ。

いや そういったものが

ちょっと引き継いでる部分が
あったのかもしれません。 はい。

続いては 前川 清の母
今村ハツの若き日を追います。

あっ お母さん。

ハツは
夫の前川海蔵と同じ

長崎県西彼杵郡 黒崎村

現在の長崎市
外海地区の出身です。

今村家は この山の中腹で
農業を営んでいました。

人々を支えた出津教会。

建設したド・ロ神父は 鰯網工場や
保育所も開設するなど

この地に生涯をささげて 大正3年に死去。

その翌年に生まれ
すぐに洗礼を受けたハツは

とても親切な少女に育ちます。

こんにちは。

外海地区と ド・ロ神父の関係について
尋ねました。

小学校時代のハツの記録が

長崎市立外海黒崎小学校に
保管されていることが分かりました。

これが 前川 清さんのお母様の
卒業生名簿です。

昭和3年3月
12歳の時に卒業したという記録です。

その後 ハツは どうしたのか?

今回の取材で見つかった写真の中に
看護師姿のハツが写っていました。

保管していたのは
清の一番上の姉です。

母 ハツについて
伝え聞いていました。

10代のハツが 住み込みで働いていた
長崎市の井手病院。

昭和10年に開業した外科病院です。

現在の院長 井手 聰さんを訪ねます。

(取材者)本日は
どうぞ よろしくお願いいたします。

昭和11年生まれの聰さんと
昭和8年生まれの 姉の瑛子さんは

井手病院を開業した父から
ハツのことを伝え聞いていました。

長崎医科大学で経験を積み
井手病院で働くことになった ハツ。

看護師のリーダーとして
献身的に患者に向き合いました。

井手病院に住み込みで働くこと 3年。

昭和13年に
ハツは 見合いをすることになります。

相手は 長崎の造船所で働く前川海蔵。

清の一番上の姉が 2人のなれそめを
伝え聞いていました。

昭和13年3月に 2人は結婚。

ハツは 看護師の仕事を辞めました。

海蔵23歳 ハツ22歳の時のことです。

昭和15年には
長男 武が誕生。

戸籍を見ると 出生地に

長崎県西彼杵郡
香焼村 深浦社宅とありました。

香焼村は
現在の長崎市香焼町です。

海蔵とハツが暮らした 当時の
深浦社宅を知る方が見つかりました。

昭和9年生まれの元郵便局員…

昭和15年頃 香焼村には
川南造船所がありました。

造船所の社宅として
利用されていたのが 深浦社宅。

ハツは 子育てをしながら
忙しく働く海蔵を支えました。

当時 日中戦争は 長期化。

欧米との関係も きな臭くなる中
前川家に大きな試練が訪れます。

昭和16年7月17日 26歳の海蔵は

臨時召集により
陸軍に入隊することになります。

ハツは 次女を妊娠中。

幼い子供たちがいる中での出征でした。

海蔵は 当時2歳半になる長女に
やさしく声をかけたといいます。

海蔵が向かった先は
中国大陸 旧満州でした。

戦史研究家の白石博司さんを訪ねます。

今日は よろしくお願いいたします。
あっ よろしくお願いします。

海蔵の兵籍記録を見てもらいました。

ソ連が 満州に侵攻した8月9日
長崎には 原爆が投下されます。

ハツや子供たちは
外海地区の実家に疎開していたため

被災することはありませんでしたが
親族が犠牲になりました。

8月15日 終戦。

しかし 戦争が終わっても
海蔵は帰還しませんでした。

ハツは 子供たちを連れ
出津教会で 夫の生還を祈り続けます。

満州で終戦を迎えた海蔵は
どうしていたのか。

それが分かる資料を入手しました。

終戦時に 海蔵が属していたのは
関東軍第四勤務隊でした。

8月22日 武装解除。

9月13日 凌水屯に移動。

以後 「ソ」軍の労役に従事す とあります。

戦前に作成された地図です。

凌水屯は 中国遼東半島にある
大連近郊の地。

関東軍第四勤務隊は
ソ連軍の指揮下に置かれ

資材の撤去や 転送作業などに
従事させられました。

東京にある 国立公文書館。

海蔵が
日本に帰還した記録がありました。

昭和22年2月28日に
長崎県の佐世保港に着いた

米山丸の引揚者名簿です。

終戦から1年6か月の間
どのような生活をしていたのか?

それが分かる資料は
見つかりませんでした。

海蔵も 当時のことは
あまり話したがらなかったといいます。

海蔵は ボロボロになった毛布を
肩からかぶり

家族の元に帰ってきます。

5年半ぶりの日本の地。
32歳の時のことです。

いや~ これは いかがでしょうか?
前川さん。

ねえ。

お母様 看護師の写真も出てきましたね。
ありましたねぇ。

おふくろね 看護 そうです。

看護師を やってたというのは
知ってましたけれど

昔の人っていうのは その
うちのおふくろも そうですけど

命を救うとか そのために
やっぱり看護師さんなったとか

そして おやじは おやじで
その人を救うっていうか

日本のために やっぱり
そういう時代だったんでしょうね。

それ 考えると
何か自分が嫌になりますね。

いやいや。
何でですか?

誇りを持ってるでしょう もちろん!
いや 誇りはないですね。

みんなを明るい気持ちにして頂いて
本当に もう 元気を頂いてます。

長崎県北部にある 佐世保市。

戦前から
軍港の町として発展してきました。

海蔵が復員後

一家は
佐世保で新たな生活を始めます。

昭和23年8月19日に生まれたのが 清。

「セバスチャン」という洗礼名を
授かっています。

佐世保市内にある 俵町教会。

清が幼い頃から
母 ハツに連れられ通った場所です。

平成13年に発行された
俵町教会 50年史に

清が 教会に寄稿した文章がありました。

「母を思い出す時の周りの風景は
不思議と教会のどこかなんです」。

ハツは 教会の活動を通じて

地域の困っている人たちを
支えていました。

海蔵は 昭和20年代後半から
米軍佐世保基地内で働き始めます。

海藏と同じ部署で働いていた人が
見つかりました。

海蔵さんが これですね。
これが海蔵さんです。

私は これです。
右から2番目です。

松本さんは 昭和28年から

米軍佐世保基地内の
シップ・リペアという部署に勤務。

海蔵とともに 船の修理にあたりました。

仕事は できた海蔵ですが

戦争から帰ったあと
ある問題を抱えていました。

中国で寒さをしのぐために
アルコールを口にして以来

やめられなくなったのです。

うちのおやじっていうのが
まあ 仕事に行きまして

で 自転車で行くんですよ。
自転車で行く時に

帰りには 必ず おやじの自転車に
乗ってる姿を見るんですよ。

乗ってきてる時には フラフラでも
ある程度 乗れるような酒の状態だから

「母ちゃん
今日は 大丈夫 大丈夫」って教える。

そうすると おやじが
自転車に乗ってない時には

乗れないほど飲んでるんですよ。

その時は 「母ちゃん
今日は 危ない」と言って

親戚のうちに おふくろが出かける。

矛先は ハツだけでなく
長男の武にも向けられました。

時に 軍隊調で厳しく接することも
あったといいます。

ただいま~。

カバンを放り出したまま
遊びに行くやつがいるか。

ちゃんと片づけろ。
分かっているのか! 返事は!

はい。 ごめんなさい。

兄貴だけに
何で あそこまで厳しかったのか?

戦争時代のおやじが こう変わって
厳しいおやじに なったのかなという。

海蔵が帰還すると 赤子だった武は
7歳になっていました。

父も子も戸惑いながら
暮らしていたのです。

昭和27年の夏 前川家に
思いもかけないことが起こります。

暑いなぁ。

外で遊んでいた長男の武が
日射病に倒れます。

武は わずか11歳で亡くなりました。

長男を亡くした海蔵とハツにとって

次男の清は ことさら大切な存在でした。

すくすくと成長した 清ですが

小学3年生の時
アクシデントに見舞われます。

変形性股関節症を患ったのです。

まあ 股関節ですよね。 痛くなって
それで病院に行ったんですよ。

そうしたら
そこで切断しないといけない。

要するに 骨が溶けてしまう。

で 動かしちゃいけないから入院ですよね。

このギプスというのか
あの白い その石膏。

そういったものを ビッシリやられる。

ハツは 毎朝
ギプスで歩けない清を背負って

ある場所へ向かいました。

ハツは 教室の後ろで編み物をしながら
1日中 授業に付き添ったといいます。

当時 清の担任だった出口博子さんの
お宅を訪ねます。

(取材者)おはようございます。
本日は どうぞよろしくお願いいたします。

92歳になる出口さん。
元気に迎えてくれました。

あ~ 元気で。
どうも ご苦労さまです。

股関節の病気が落ち着いたあと
清が始めたのは 野球です。

西鉄ライオンズが おやじは もう九州だから
もう大好きだったんですよ。

そうすると やっぱり野球を
キャッチボールをやろう!

キャッチボールをやろう!って
僕は いやいや始めたんですよ。

それで こうパーン!と おやじが…
ああ~ よか球! ああ~ いい球!

よか球! よか球! うん!って言って
機嫌がいいんですよ。

だったら 野球をやっとけば
おやじは 機嫌がいいっていうので

僕は 野球を始めたんですよね。 うん。

近所に住んでいた 鍋田敏昭さんは

小学校高学年になった清が 父 海蔵と
キャッチボールする姿を覚えていました。

清は 父の仕事場である
米軍基地で行われた

アメリカ人 少年チームとの交流試合に
ピッチャーとして出場しました。

同じ職場で働いていた 松本 等さんは

海蔵が
息子に抱いた夢を聞いていました。

昭和39年 清は野球部が強い
長崎市の高校に進学します。

海蔵の出征後 苦労続きだった
前川家の希望の星となったのです。

そうですね いろんなことが
だから ありましたよね 結構ね。

お兄さんが そういうふうに まさかの
11歳で亡くなってしまったんで。

うちのおふくろが
大阪で亡くなりましたから

その時 まあ肺ガンでしたからね。

その時に やっぱり
最期に言った言葉というのは

「これで 武のことを忘れられる」って
言ってました。

ああ~ それくらい 大きい出来事
だったんですね。 亡くなる時に。

そういったものの
兄貴に対しての思い出があり

それと 自分が足も。

それで うちのおふくろが
俺をおんぶして 学校へ行くわけですよ。

そうすると もうほら 子供って意外とね
厳しい言葉を言うんですよ。

言いますね。
僕なんかも言ってた。

お母さんに おんぶされて学校来てるから。
恥ずかしいんですよ これが。

もう ねえ 分かります。 分かります。

だから そういう
いろんなことがあった時代でしたね。

昭和39年 清が入学したのは
カトリック系の南山高校。

もちろん 野球部に入部しました。

両親も 佐世保の家を引き払い

清のために 長崎市に引っ越します。

清は どんな青年だったのか?

野球部の同期である
田中良光さんに伺いました。

もう一人 高校時代の同期生が
大阪にいると知り 訪ねました。

ローマ・カトリック教会の枢機卿
前田万葉さん。

「清は 好奇心とユーモアが
旺盛だった」といいます。

しかし 清の高校生活は
2年の時に一変します。

再び 股関節が痛み始めたのです。

清は 両親に黙って
学校を中退することにします。

柔軟体操でも こう曲がらない。

そこで もうギブアップというのか

そこで 高校2年生で
終わりということです。

学校 行ってくるよ~って言って
学校に やめますって

それで1か月間ぐらい
ず~っと出る格好をして

弁当だけを持って 山に行ってました。

退学のいきさつを知った両親は
何も言いませんでした。

その後 次女を頼って
名古屋での生活を始めます。

長崎に残った清は
セールスマンや溶接工など

さまざまな仕事をして
日々を生き抜いていきます。

夜のクラブでの仕事も
そのうちの一つ。

はじめは 裏方でしたが
店の要望で歌うようになりました。

そんな清に 大きな転機が訪れたのは
昭和43年 二十歳の時でした。

長崎で活動していた人気バンド
「クール・ファイブ」。

ベース担当 小林正樹さんが
清の歌を聞いて声をかけてきたのです。

街で すれ違う時にも
あっ クール・ファイブだ!

うわっ クール・ファイブだ!って言って
もう そんな感じでしたから。

そのクール・ファイブが入ってくる。
わあ 小林さんだ うわ~って思いながら

まあ コンガたたきながらとか
そこで ちょっと歌いながら。

そうしたら おい!って言われて

お前 クール・ファイブに入らんか?って
声をかけられたんですよ。

リーダーの内山田 洋さんは
平成18年に亡くなりましたが

他のメンバーは
今も 清とステージに立っています。

ありがとうございます。
どうもよろしくお願いします。

清が 加入して間もなく

東京のレコード会社から
メジャーデビューの話が持ちかけられます。

なんと リーダーの内山田 洋を除く
全員が反対しました。

とにかく思い出のためにも 1回
行ってくれということで行ったんですよ。

だから とにかく その

まず テレビでやるとか
芸能界に入ろうという気持ちもないし

入れるとも思ってないし。

だから レコーディングが終わったら
すぐ 長崎 帰して下さいと。

長崎から
寝台特急さくらに乗っての上京。

清にとっては
生まれて初めての東京でした。

新幹線が 大阪からだったんですよ。
そうですね ほんとだ。

なんと到着した その日に

「長崎は今日も雨だった」を
レコーディング。

この曲は 予想外の大ヒットとなり

クール・ファイブの名は
全国に知れ渡ります。

大ヒットですよ。
名曲…。

デビュー曲やったんや。
はい。

♬~

♬「さがし さがし求めて」

長崎やから
この歌が出てきたんだ。

苦労続きの両親にとって
思わぬプレゼントでした。

父 海蔵と母 ハツは

息子の邪魔をしないように
気を使いながら

時々 クール・ファイブの
ステージに足を運びました。

♬「あなたの傍で ああ暮らせるならば」

♬「つらくはないわ この東京砂漠」

クール・ファイブは
次々とヒット曲を世に放ちます。

♬「神戸 泣いて どうなるのか」

清とメンバーが ほとんど動かずに
歌う姿も話題になりました。

あれは もうみんな
楽器が なくなったからです。

楽器あるから
みんな こんなして弾くけれど

楽器がなかったら どうしていいか
分かんないんですよ。

コーラスでも マイク1本ですよ
まず動けない。

そして カメラに言われた方は
「すみません クール・ファイブさん。

マイク見ないで!」って
目が寄ってるわけです みんな。

みんな やっぱ
マイク見てるんですよ。

だから もう こう目が寄ってる。

そういう状態で
もう だから動けないんですよ。

そこで 僕なんかも まずハンドマイク
じゃないですからね デビューした頃は。

みんな スタンドマイクです こういう。
だから自然のうちに動けないんですよ。

昭和49年 清は 母 ハツと
コマーシャルに出演。

大きな話題を呼びました。

これ ほら ドイツんだって。 ねえ。

おお~ カプシプラスト。 ほお~。

ホッカホカだよ おっかさん。 ねえ。
はい。

清は 浪曲好きの海蔵とも
テレビ番組で一緒に歌いました。

海蔵は 清の成功を見届け
昭和51年に亡くなります。

62年の生涯でした。

今でも歌う前は
緊張して不安になるという 前川 清。

長崎での下積み時代を忘れずに
ステージに立ち続けています。

ああ 息子さんね。

清の背中を見て育った
長男 紘毅さんと 次女 侑那さんは

ミュージシャンの道を選びました。

♬~

やっぱり 僕も 30を越えてから

一緒に こうやって お仕事させて
もらえるようになって

で 去年 子供も生まれて

こう 父として考えた時に
子供と一緒にステージに

親子で
ステージに立つっていう経験って

やっぱり
なかなかできるもんじゃないんで。

やっぱ 長生きはしてほしいなっていう

やっぱり 100は目指して!っていう感じで
ちょっと頑張ってはほしいですね。

デビューから53年 前川 清の歌声は
今も多くの人を惹きつけています。

でも すごいですよ。 高校を辞める時に
勝手に辞めるっていうのも。

言えなかったですよねぇ。
言えない方が勝ったんすか。

はい。 言えない方が勝ちましたね。

もうプロという
そういった もう実力もないし

その時には もうちっちゃい時から

おやじが おふくろと
もめないようにやってる。

その 何か ついでにやってたような
もんですから。

いやぁ クール・ファイブの皆さんが
見れました 私。

僕も 久しぶりに見ました。

やっぱり こうして 今 見てみると

多分 これで 今の
このクール・ファイブが また元気で

元気…
半分 元気みたいなもんですけど

あのコーラスで
1回 最後 歌ってみたいですね。

ほんとですね。
見たいです!

ご両親と一緒に テレビ出たり
共演したりで。 いや~ ほんとに。

ほんとに よかったんじゃないですかね。

僕自身が やっぱり
やっぱ うれしいですね。

今日 ご自身の「ファミリーヒストリー」
ご覧になっていかがですか?

人間というのは それぞれ
やっぱり その場その場で

一生懸命に
いろんなことで乗り越えてきて

そういう先祖がいて ああ 自分が
やっぱり いるんだなという

自分の人生が こうして見れて

もう何か 改めて
僕も 73になりますけれども

ああ~ もうちょっと やっぱり頑張って
ああ~ みたいなぁという。

いや~ まだまだ。 70代は まだまだ!

皆さんのおかげで そう感じました。
本当に ありがとうございます。

前川 清さんの母 ハツさんは
晩年 大阪で暮らし

教会の仲間たちと
社会福祉の活動を続けました。

(取材者)困ってる地域に行って何か…。

ハツさんが通った カトリック平野教会。

昭和55年 ベトナム戦争の混乱の中で

日本に渡ってきた難民69名を
受け入れました。

彼らが 自立して生活できるよう

ハツさんは
こまやかなサポートを続けました。

一緒に
69名のベトナム難民を支えた…

甲斐紀久治さん 80歳。
ハツさんと親交が深かった一人です。

それは やはり長崎の人かなと思うぐらい
熱心でしたですね ほんとに。

長崎の出津教会に通い

ド・ロ神父への
尊敬を抱く ハツさんにとって

他人への親切は
普通のことだったといいます。

私たちは 日曜日に お祈りをしたり
帰って休む時に お祈りをしたり

そのぐらいのことしか
あまりしてないんですけど

もう地に着いてるんですかね 長崎の方は。

平成4年 76歳で亡くなった
ハツさんの葬儀の写真です。

親戚 友人だけでなく

ハツさんが世話をした人たちで
教会が いっぱいになりました。

葬儀の際に配られた 礼状です。

すいません…

清さんは 親切を続けた母に
報いたいという思いが

自らの原動力だったと
明かしています。

「歌手でデビューしてから 母に恩返しを
しようと頑張ってきた僕がいる。

親孝行といっても
毎月仕送りするくらいだけれど

母は とても喜んでくれたし

有名になった 僕は
自慢の息子になれていたようだ。

何度かハワイに旅行に連れて行こうと
母を誘ってみたことがある。

母からの返事は決まって

『そんなお金があるなら
もらった方がいい』だった。

母らしいと思った」。

ありがとうございました。
あ いや~。

要するに おふくろはね
僕に 「金くれ! 金くれ!」と言いました。

あの 芸能界 入られて?
はい 金くれって 何で そこまでって

人に あげてたんですね。
あとから聞いて。

だから おふくろが
教会で亡くなった時に

何で こんなに 人が お葬式の時に
来てるんだろうっていった時に

おふくろさんから
こうして寄付してもらった

何々で こうして食事とか何かも
困った頃に助けられたとか。

まあ そういったものを聞いて
ああ~ そうだったのかと。