ふたり「コクリコ坂・父と子の300日戦争~宮崎駿×宮崎吾朗~」[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

ふたり「コクリコ坂・父と子の300日戦争~宮崎駿×宮崎吾朗~」[字]

企画・宮崎駿、監督・宮崎吾朗によるジブリ最新作「アーヤと魔女」あす放送!▽「コクリコ坂から」制作に挑む親子の物語をもう一度!(2011年8月初回放送)

番組内容
2人の人物の絆を描くドキュメンタリー「ふたり」。今回は映画監督・宮崎駿さんとその長男・吾朗さん。2011年公開「コクリコ坂から」は吾朗さんが監督、駿さんが脚本を担当。二人の合作ともいえる作品だ。しかし二人の間には知られざる葛藤があった。70歳にしてなお映画への情熱をたぎらせる父。偉大な父と比較される宿命を負いながらも、挑戦を続ける息子。衝突しながらも同じ目標に向かい情熱を燃やす父と子の物語。
出演者
【語り】石田ゆり子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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誰かに もらわれて
どっか別のところで

暮らしてみたいと
思ったこと ないの?

ない!

クヴィンテレ・スン・プテレプテレア
スン・クヴィンテレ。

こんばんは。 寺島しのぶです。

私は この度 スタジオジブリの最新作

「アーヤと魔女」の声優に
初挑戦いたしました。

いくつか ハッキリさせておこうかね。

あたしの名前は ベラ・ヤーガ。 魔女だよ。

孤児院で何でも自分の思いどおりに
やってきた主人公のアーヤが

ある日 魔女に引き取られ 家の仕事を
あれやこれやと やらされます。

このちょっと意地悪な魔女が私なんですが
アーヤは 全くへこたれません。

だったら 何でもかんでも
ただ やれって言うだけじゃなくて

いろいろ教えてくれなくちゃ。 ねえ?

バカな言い訳するんじゃない!

アーヤと魔女は
この原作を気に入ったアニメ界の巨匠

宮崎 駿さんが アニメ化を企画。

息子の吾朗さんが
監督を務められています。

駿さんと吾朗さんが
共同で作品を作るのは

2011年に
劇場公開された映画

「コクリコ坂から」以来
2度目です。

今日これから ご覧頂きますのは
父と息子が激しく衝突しながらも

1つの作品を作り上げようとする
制作過程を追ったドキュメンタリーです。

7月16日
一本の映画が公開された。

スタジオジブリの新作「コクリコ坂から」。

(俊)うん?
(海)「カルチェ」に載ってたし。

脚本を書き下ろしたのは
巨匠 宮崎 駿さん。

監督は その長男 宮崎吾朗さん。

ふたりにとって 初めての合作だ。

しかし 親子の間には
人知れぬ深い葛藤があった。

6年前 吾朗さんは 父の反対を
押し切って監督になった。

そんな息子を
駿さんは 認めてはいなかった。

70歳にしてなお
映画への情熱をたぎらせる父。

偉大な父と比較される
宿命を背負いながら

挑戦を続ける 息子。

♬~

衝突し 反発しながらも
同じ道を歩む 父と子の物語。

猛暑が続いていた 去年7月。

スタジオの3階にある小部屋で

映画「コクリコ坂から」の制作が
動き始めていた。

監督 宮崎吾朗さんは
準備作業の真っただ中。

封切りまで1年を切り
ここからが 正念場だ。

この部屋は 通称 新作準備室。

毎日のように
ある人が やって来る。

吾朗さんの父 宮崎 駿さん。

新作の脚本を担当した 駿さん。

特に 用があるわけでもないのに
いつも部屋をのぞきに来る。

吾朗さんには 近づこうとしない。

駿さんが去ると
吾朗さんが 紙を並べ始めた。

1カットずつ 絵の構図や登場人物の
動きなどが描き込まれた

いわば アニメーションの設計図。

絵コンテ作りは
監督の 最も重要な仕事だ。

映画「コクリコ坂から」の舞台は
昭和30年代の横浜。

ヒロイン 海ちゃんは 17歳の高校生。

幼い頃 船乗りだった父を
海で亡くした。

そんな彼女に
思いを寄せる少年 俊君。

ふたりは出会い
やがて恋に落ちる。

誰もが 明日への希望を信じていた
時代の ピュアな初恋の物語だ。

場面の設定や 登場人物のセリフは

駿さんの書いたシナリオに
記されている。

しかし そのセリフを どんな表情で
どんなふうに話すのか。

どうすれば そのキャラクターが
より魅力的に見えるのか。

キャラクターに 命を吹き込むのが
監督の仕事だ。

吾朗さんは この新作に
監督生命を懸けていた。

監督デビュー作「ゲド戦記」は
宮崎 駿の息子として注目を集め

その年の 邦画最大の
ヒット作となった。

しかし
映画そのものの出来については

厳しい批評も寄せられた。

このころ 父 駿さんも
自らの映画に取り組んでいた。

ジブリ美術館で公開する
短編アニメーションだ。

これまでになく キャラクターの動きを
濃密に描く 実験的な作品だ。

吾朗さんの新作について尋ねると
途端に 口が重くなった。

吾朗さんの絵コンテは
全体の半分まで進んでいた。

しかし 気がかりな事があった。

ヒロイン 海ちゃんのキャラクターだ。

幼い頃 大好きなお父さんを
亡くした海ちゃん。

それを強く意識してきたため

海ちゃんは
影のあるキャラクターになっていた。

映画のトーンが
重くなりすぎていないか

引っ掛かっていた。

その翌日の事だった。

壁に貼り出された3枚の絵を
外せと 駿さんが言いだした。

海ちゃんも 物語の世界も
暗すぎるという。

映画の舞台となる コクリコ荘の絵を
描くので 絵コンテを見たいという。

しかし 吾朗さんは
絵コンテを渡さなかった。

海ちゃんの暗いキャラクターは
吾朗さんなりに考えた結果だった。

翌日。

スタッフは 浮き足だっていた。

作画監督の近藤さんは
注意された絵を描き直した。

駿さんの指摘は 吾朗さんの迷いを
ずばり 言い当てたものだった。

しかし 監督としての意地がある。

重苦しい空気を察し プロデューサーの
鈴木さんがやって来た。

絵コンテの内容を
自分で確認するという。

(鈴木)分かりました。 はい!

商業映画である以上 作品は

多くの観客に 受け入れられる
ものでなくてはならない。

映画の責任者として
演出の方向性を見定める。

あ~…。

翌日。

鈴木さんは
吾朗さんに率直に告げた。

「このままでは 公開はできない。

もっと魅力的なキャラクターに
練り直してほしい」。

(聞き手)頑張って下さい。
お疲れさまです。

その決定は
駿さんにも伝えられた。

(スタッフ)そうです。

(鼻歌)

いかん。

う~ん…。

吾朗さんは スタジオを離れ
マンションの一室に籠もった。

おはようございます。

作画監督の近藤さんと
海ちゃんのキャラクター像を練り直す。

ただ はつらつとした
明るい少女にする事は簡単だ。

しかし それでは 薄っぺらい
キャラクターにしかならない。

どうすれば 命の宿ったヒロインとして
魅力的な少女になるのだろう。

♬~

宮崎 駿さんが 長男 吾朗さんを
授かったのは昭和42年。

駿さんは 当時26歳のアニメーター。
子煩悩な父親だったという。

幼い吾朗さんを描いたスケッチが
今も残っている。

吾朗さんが
最初にしゃべった言葉は…

親に似て 絵を描くのが
大好きな子供だった。

後に駿さんは

「息子を喜ばせるために アニメーションを
作っていた」と語っている。

♬~

「パンダコパンダ」は
5歳の吾朗さんのために

駿さんが企画した映画だ。

お邪魔します。 いいおうちですね。

お天気もいいし
特に 竹やぶがいい。

ふあ~?

お父さんパンダが
仕事から帰ってくるエンディング。

登場する駅は 近所の駅を
そっくりモデルにしたものだった。

5歳の吾朗さんは 大喜びした。

その後も駿さんは 幼い吾朗さんに
向けて テレビアニメーションを作り続ける。

しかし 吾朗さんが
小学校に上がった頃から

駿さんは アニメーターとして
注目を集め始めた。

仕事が忙しくなり
帰宅は 毎日 明け方。

吾朗さんと過ごす時間は
ほとんど なくなっていった。

家から 父の姿は消え
事実上の母子家庭となった。

そのころの事を 吾朗さんは
今も鮮明に覚えている。

吾朗さんにとって
父の不在を埋めるもの…

それが 父の作るアニメーションだった。

初めて監督を務めた テレビシリーズ
「未来少年コナン」。

映画デビュー作「ルパン三世 カリオストロの城」。

駿さんの作品を 吾朗さんは
食い入るように見続けた。

そして 高校生になった頃
一つの思いを抱くようになる。

しかし それを
駿さんに伝える事はなかった。

そのころ 42歳の駿さんは
大きな岐路に立っていた。

「カリオストロの城」が 興行的に失敗。

勝負を懸けた 初のオリジナル映画に
全力で取り組んでいた。

子供の成長を気にかけつつも
目の前の仕事に邁進した。

映画「風の谷のナウシカ」。

公開されるや 若い世代を中心に
大きな反響を巻き起こした。

駿さんは 一躍 その名を知られる
人気監督になった。

しかし それが吾朗さんにとっては
重荷となっていく。

いつしか吾朗さんは 父から
離れたいと思うようになった。

大学を卒業すると

公園の設計などをする
建設コンサルタントの仕事に就いた。

吾朗さんは 高校時代

一度 母に アニメーションへの思いを
伝えた事がある。

母は 「才能を問われる
厳しい世界だ」と言うばかり。

吾朗さんは思った。

父とは離れた世界に
行かなければならない。

それも できるだけ遠くへ。

8月。

吾朗さんは
いまだ 暗中模索の中にいた。

映画「コクリコ坂から」のヒロイン
海ちゃん。

はつらつとしたキャラクターにするには
どうすればいいか。

見直しの期限は
3日後に迫っていた。

テンポを上げるために
カットを間引き始めた。

「きれいにして女子を招待したら
みんな素敵な魔窟だって思うわ。

私が そうだったもの」。

セリフを読むスピードも
1.3倍に速めてみた。

(吾朗)会話のスピードを上げるだけで
全然 変わるな。

手探りが続く。

翌朝の事だった。

駿さんから 一枚の絵が届いた。

駿さんが下がきをし
スタッフが 色を塗ったものだという。

すごい 股関節が軟らかい。

大股で 前のめりになって
登校する 海ちゃん。

(スタッフ)別に
遅刻しそうなわけではないけど

こうやって スタスタ スタスタ
前のめりで歩いていくような子。

「はつらつさ」とは 何か?

キャラクターに命を吹き込むとは
どういう事か?

父の絵は 何より雄弁だった。

作業が 一気に動き始めた。

表情も しぐさも変わってきた。

♬~

手がかりをつかんだ 吾朗さん。

発想が どんどん湧き始めた。

映画の冒頭。

朝起きた海ちゃんが
階段を下りてくるシーン。

以前は ただ階段を下りるだけの
平面的なカットだった。

構図を ガラリと変え

階段を勢いよく下りてくる
海ちゃんを 真正面から描いた。

吾朗さんたちの変化は
駿さんの耳にも入った。

(セミの鳴き声)

2日後。

プロデューサーの鈴木さんは
描き直された絵コンテを見た。

(鈴木)青春になった事は

確かじゃねえかなって
気がしたんですよね。

吾朗さんに ゴーサインを出した。

そうします。

その直後。

映画の冒頭 海ちゃんが
布団を畳むシーンを入れれば

はつらつさが より際立つと
駿さんが言いだした。

駿さんは 映画のアイデアが浮かぶと
伝えずにはいられない。

吾朗さんは 開き直っていた。

映画を良くするために
意地も プライドも かなぐり捨てた。

しかし 絵コンテだけは
自分一人で やり抜く。

9月。

スタジオでは アニメーターなど
100人のスタッフが動きだした。

7万枚もの絵を
一枚一枚 描いていく

気の遠くなるような作業が
始まった。

それを束ねるのが
監督の吾朗さんだ。

練り直した絵コンテを基に

どんな絵を描いてほしいのか
アニメーターに伝えていく。

(吾朗)
朝なので…

並行して 映画の背景となる
美術の指示も出す。

そして もう一つ
大きな仕事が残っていた。

映画の終盤のシーンの 絵コンテ作りだ。

エンディングに向け 最後の盛り上がりを
生み出さなければならない。

このころ 駿さんは
取り組んできた短編映画が完成。

水面下で 新たな仕事に
取り組もうとしていた。

「崖の上のポニョ」以来となる
長編映画の準備だ。

アニメーションの監督は 全くのゼロから
壮大な世界を紡ぎ出す仕事だ。

巨匠であれ 新人であれ
常に孤独な闘いを強いられる。

どこまで自分を追い詰め
作品を高める事ができるか。

どうしたの? こんなに遅く。

身を焼くような 生みの苦しみ。

それでも この仕事を選んだ。

父も。

そして 息子も。

異なる世界で
生きてゆくはずだった ふたり。

しかし 1998年
ふたりの運命が動きだす。

駿さんは 当時57歳。

映画「千と千尋の神隠し」の準備に
取りかかろうとしていた。

一方の吾朗さんは 31歳。

公園の設計を中心に

建設コンサルタントとして
腕をふるっていた。

そんな吾朗さんのもとに

ある日 プロデューサーの鈴木敏夫さんが
やって来た。

駿さんが 子供向けの
美術館を建てるので

手伝ってくれないかという。

吾朗さんは
これまでの仕事のノウハウを生かし

建物の設計から 庭のデザインまで
美術館造りを取りしきった。

それがきっかけで 鈴木さんから

ある企画の検討会に
呼ばれるようになる。

小説「ゲド戦記」のアニメーション化。

吾朗さんは
この本の熱心な愛読者だった。

映画化の方針をめぐって
会議は難航した。

その時 吾朗さんは
自ら描いたスケッチを見せながら

アイデアを熱く語った。

プロデューサーの鈴木さんは その姿に
感じるものがあったという。

吾朗さんに言った。

かつて憧れた アニメーションの仕事。

しかし 誘いを受ければ

どんな つらい事が待っているか
容易に想像がついた。

経験のない自分が
するべき仕事ではない事も

分かっていた。

でも 断らなかった。

駿さんは 猛烈に反対した。

吾朗さんは 父を納得させるため
一枚の絵を描いて渡した。

絵を見た駿さんは 黙り込んだ。

2005年 吾朗さんを監督に
映画「ゲド戦記」は動きだした。

当時 撮影された スタジオジブリの様子。

駿さんは
一切 手を出さないと宣言し

実際 吾朗さんとは
口さえ利かなかった。

(スタッフ)何でですか?

監督に挑んだ吾朗さんには
冷ややかな視線も向けられた。

公園造りの仕事で培ってきた
空間把握力は

アニメーション作りにも役立った。

しかし それだけで務まるほど
たやすい仕事ではなかった。

押しつぶされそうになりながら
必死に 映画と格闘した。

9か月後 映画は完成した。

試写会の会場に
駿さんの姿があった。

♬~

試写の途中で
駿さんは席を立った。

映画は 駿さんの作品を
思い起こさせるシーンに溢れていた。

「ナウシカ」を彷彿とさせる
荒れ果てた世界。

ここもか。

「ハイジ」を思い出させる 日常の描写。

駿さんは 動揺していた。

かつて 吾朗さんが どんな思いで
自分の作品を見ていたのか。

それを 目の当たりにした。

「ゲド戦記」は
興行的には ヒットしたものの

内容は 父の作品には
遠く及ばないと酷評された。

駿さんは これで吾朗さんが
監督を辞めると思っていた。

吾朗さん自身 一度だけと思い
引き受けた監督の仕事。

しかし 辞めなかった。

「ゲド戦記」の仕事が終わると
次の企画を探し始めた。

企画作りは 困難を極めた。

出しても出しても
企画が通らない。

実に 3年間 頓挫し続けた。

そんな時 駿さんが プロデューサーの
鈴木さんに提案したのが

「コクリコ坂から」だった。

鈴木さんは 吾朗さんを監督に据え
駿さんに 脚本を依頼した。

駿さんは 断らなかった。

書き上げられたのは
父を亡くした少女の初恋の物語。

主人公が 悩みながら自分を
見つけてゆく 自立のドラマだった。

11月。

吾朗さんは スタジオを離れ
一人 絵コンテに没頭していた。

キャラクターを動かそうと
するのではなく ただ寄り添う。

父 駿さんが貫いてきた
映画作りだ。

吾朗さんの描く絵は

駿さんの若い頃の絵に似てきたと
言われるようになった。

そのころ 駿さんは
悲しい別れに直面していた。

(司会者)
飯田馬之介こと 勉様の葬儀を
無宗教にて執り行います。

後輩のアニメーション映画監督
飯田馬之介さんが

病気で この世を去った。

かつて 監督と演出助手として
映画作りの現場で共に闘った仲間。

駿さんは 連日 病床を見舞って
励まし続けたが かなわなかった。

69歳の駿さん。

かつての仲間との別れが
相次いでいた。

そして 駿さん自身の身にも
老いは 確実に押し寄せていた。

この数か月間 取り組んできた
短編映画の制作。

(ため息)

気力 体力の衰えを
駿さんは 思い知らされたという。

次回作の構想は なかなか
前に進まなくなっていた。

2010年も 残り10日。

吾朗さんは 絵コンテ作りの
最後の山場に挑んだ。

主人公のふたりが ある人物に
会うため 船を訪ねるクライマックスだ。

その中に 吾朗さんが
こだわっている場面があった。

駿さんのシナリオには
「俊が上下するタラップに飛び移り

海に手を貸す」とだけ
記されていた。

吾朗さんは 絵コンテに向かう時
奥歯を食いしばる。

そのために歯がすり減り ついには
歯を抜いての作業となっていた。

鉛筆を走らせ始めた。

俊君が 手を差し伸べる。

海ちゃんが
俊君に向かって跳んだ。

俊君は 海ちゃんを抱き留めた。

吾朗さんの中で ふたりは
もう ただのキャラクターではなかった。

それから間もなく 駿さんは
アトリエに 一人 籠もった。

新たな長編映画の企画書を
ついに書き始めた。

駿さんの中で
何かが湧き上がり始めていた。

駿さんが 次回作に向けて
動きだした事は

吾朗さんの耳にも届いた。

同じ仕事に打ち込む今

駿さんが 映画を作り続ける理由が
吾朗さんには分かる。

3月。

全ての絵コンテを描き上げた
吾朗さん。

4か月後の公開に向け
追い込みに入った。

スケジュールは ギリギリ。

連日 深夜まで作業が続く
そのさなかの事だった。

3日後の週明け。

余震のおそれがあるため
スタッフは 自宅待機となった。

会議室では
緊急ミーティングが開かれていた。

計画停電の影響が心配されていた。

混乱を避けるため
3日間 休業とする事が決まった。

しかし 休業の決定に
駿さんは反対した。

(一同)おはようございます。

今 自分たちが すべき事は
目の前の映画を作り続ける事。

それが 駿さんの示した
作り手としての覚悟だった。

スタジオは 休業から一転
通常出社となった。

駿さんは 差し入れを持って
現場を回る。

(一同)ありがとうございます。

おはようございます。

コンピューターを使うスタッフは
日中の停電を避け

夜間勤務に切り替わった。

それでも
制作の遅れは深刻だった。

スタジオジブリ始まって以来の
非常事態。

あ~ そっち入ってくるところの
色が 難題だな…。

公開を危ぶむ声も上がっていた。

その中で 記者会見が行われた。

(拍手)

どうぞ ご着席下さい。

♬「あなたは わたしを
抱くかしら」

「困難な時代だからこそ
いい映画を 世に送り出したい」。

(拍手)

父と息子は
同じ方向を向いていた。

吾朗さんは 昼夜を問わず
現場に張り付いた。

試されているのは 何があっても
映画を完成させるという

監督としての覚悟。

スタッフを束ねて
どこまで走りきれるか。

「広小路さん ご飯ですよ」。

「お洗濯 干すのだけ
お願いします」。

「分かったわ。
いってらっしゃい」。

「いってきます」。

スタジオでは 父 駿さんが

次回作の絵コンテに
取り組み始めていた。

♬~

2か月後。 吾朗さんとスタッフは
映画を完成させた。

試写の会場には
駿さんの姿もあった。

♬~

♬~

うん?
「カルチェ」に載ってたし…。

(俊)何?
(海)ううん いい。

あっ! お魚屋さん。

今回は
本当に ありがとうございました。

次の機会があれば その時も
よろしくお願いいたします。

(拍手)

♬~

くそ~っ!

死ぬなよ!

♬~

♬~

いかがでしたか?
「コクリコ坂から」を完成させた2人は

その後 別々の作品作りに専念。

実に9年ぶりに
父と息子がタッグを組んだのが

新作の「アーヤと魔女」です。

ここでは み~んな
私の言うとおり。

どこもかしこも ピッカピカ。

窓も大きくて 日当たり抜群。

え…?

クヴントゥルス・ブレステン
ブレステムル・クヴァンテ。

クヴィンテレ・スン・プテレプテレア
スン・クヴィンテレ。

あっ あ… イタタタタタッ!

うう~!
(ベラ・ヤーガ)そっちからは逃げられないよ。

どうして?

そりゃあ マンドレークが
デーモンたちに見張らせてるからね。

そ… そう。

ハハハハハッ!
つまり

マンドレークのことも 上手に
操れるようにならなきゃってことね。

んっ! フッ!

駿さんも 吾朗さんの監督としての
仕事ぶりに

確かな手応えを感じたようですね。

さて 私も出演しております
「アーヤと魔女」ですが

夜7時半から 総合テレビで
放送いたします。 是非お楽しみに。