ファミリーヒストリー「北村一輝~沖縄のルーツ 士族の誇りを受け継いで~」[解][字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

ファミリーヒストリー「北村一輝~沖縄のルーツ 士族の誇りを受け継いで~」[解][字]

母方先祖と琉球王国とのつながりが明らかに。世界遺産の城を建設した人物も?琉球併合や太平洋戦争…激動の時代を生き抜いた一族。父方祖父は戦後バターピーナッツで成功。

番組内容
母方の祖父母は沖縄の生まれ。今回の取材で一輝の一族が、なんと英雄と呼ばれる15世紀の豪族・護佐丸とつながる可能性が浮上。さらに琉球併合の際、琉球王国の存続を目指していた先祖の存在が明らかになる。大阪へ出た祖父母は、沖縄への差別にあったり、沖縄戦で親族を亡くしたりと激動の人生を送る。父方のルーツは金沢に。本家は400年以上続く豪農だった。祖父は二度も戦場へ。戦後、バターピーナッツの販売で一旗あげる。
出演者
【ゲスト】北村一輝,【司会】今田耕司,浅野里香,【語り】余貴美子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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(スタッフ)よ~い はい!

33年間 俳優として
走り続けてきた 北村一輝。

(スタッフ)はい OK~!
(スタッフ)はい カット。

今 なんか 録音部 来てなかったよ。
(スタッフ)いやいやいや! ちょっと待って。

ちゃんと後ろから…。
(笑い声)

ドラマや映画の出演は
200本を超えます。

コミカルな役から
シリアスな演技まで

幅広くこなす 怪優です。

心臓の鼓動まで
聞き分けられるぞ!

そう 狂ってる…
狂ってるんだ!

北村さんには そのルーツを
深く知りたい人がいました。

母方の祖父母 廣と鶴子です。

2人とも沖縄で生まれ育ちました。

やっぱり その 沖縄のルーツというか。

まあ いろんな大変なこと
あったと思うんですけど

そこを やっぱり知りたいというか。

今日のゲストは
北村一輝さんです。 どうぞ。

(拍手)

お願いします!
(浅野)よろしくお願いします。

(拍手)

さあ 北村さん
今日の心境は いかがですか?

ドキドキしますねえ。
あっ ドキドキしてるんですね。

お母さんのご両親が沖縄出身。

そうですね はい。
ですよね。

いろいろ沖縄で こんなんあってん
とかいうのは あんま聞いてないですか?

あまりね 話したがらないから
何かあるのかな 逆に。

今から見て頂きます。
ちょっと汗出てきてますよ もう。

北村一輝さんの生まれ故郷 大阪市。

まずは この方々を訪ねました。

北村一輝の母でございます。
で 私の姉と妹です。

よろしくお願いいたします。
もう恥ずかしいです。

え~。
一輝さんの顔だちは 母 昭子さん譲り。

いや 俺も
思ったわ 今。

≪そう思う?
うん。

美人。

一輝の祖父 廣は

沖縄から 大阪に
出てきました。

いや
こんな写真も
初めて見る。

その姓は
与那城です。

(取材者)歯医者さん。

唯一の手がかりは 歯科医だった

与那城 勇という親戚の名前。

取材を進めると 勇の息子が
埼玉県で見つかりました。

与那城 智さん。

去年 沖縄から引っ越したばかりです。
へえ~。

いい男ですよ 私と似て。

智さんの父 勇は

一輝の祖父 廣と 親戚として
交流があったといいます。

へえ~。

ガーチ… ガーチ?

ガーチ…。

向かったのは 那覇市から
およそ60キロにある 粟国島。

この島で 与那城家のルーツを調べます。

は~い こんにちは。

親戚が見つかりました。

ガーチとは 与那城家の屋号。

かつて 広い土地に
大きな屋敷を構えていました。

古い地図には
確かにガーチの名がありますが

子孫たちは島を去り
屋敷は無くなっていました。

親戚筋の家に預けられたものが
あると聞き 訪ねてみました。

与那城家の先祖代々の位はいです。

1600年代
琉球王国時代のものも残っています。

へえ~。
1600年代?

琉球の歴史に精通する

外間政明さんに確認してもらいました。

(外間)
こういうふうに書いてるんですけど。

地頭代とは 首里王府から命を受け

島を管理する村長のような存在です。

更に 与那城家の末えいが
沖縄本島で見つかりました。

粟国島で生まれ育った
与那城栄章さんです。

(取材者)
ガーチとは どうつながる感じですか?

栄章さんの家は 何代か前に
ガーチから分家したといいます。

与那城家のルーツを
伝え聞いていました。

護佐丸?

護佐丸は
15世紀 琉球王国を建国した

第一尚氏の右腕だった豪族。

後に世界遺産となる城を築いた
沖縄の英雄です。

その護佐丸の
ひ孫にあたる
伊貫親雲上盛方が

与那城家の
先祖だという
言い伝えが

代々
語り継がれています。

16世紀 首里王府の命を受け
唐で薬を買い付けた伊貫親雲上は

帰路 嵐に襲われます。

船員たちの命を救うため
仕入れた大量の薬を

全て海に投げ捨てました。

命からがら粟国島に流れ着いた
伊貫親雲上は

介抱してくれた娘と
結ばれたといいます。

その娘の子孫…

糸洲家に残る家伝には

その後の いきさつが
詳しく記されています。

結婚後 王府から使者がやって来て
首里に戻るように促します。

しかし 伊貫親雲上は

積み荷を失った責任と
妻への愛情から こう言い放ちます。

こうして島で
生きていくことを
決意した

伊貫親雲上の
ひ孫が

与那城家に入ったと
伝わっています。

琉球の系図を
読み解いてきた外間さんに

糸洲家の家伝を見てもらいました。

後の時代の
子孫と思われる
人物の記録が

琉球王国の正史に
記されていました。

島の人々が祈りをささげる拝所には

与那城家の屋号
ガーチの名が付けられています。

船員の命を救い
島の娘を愛した伊貫親雲上。

その精神を受け継ぎ
与那城家は村を守っていったのです。

話が壮大すぎて。
そうですね。

伊貫親雲上。 船員を救うために
あそこに たどりついたわけですよね。

そうですね。
そこで恋に落ちて
そのまま そこで。

なんか映画みたいですね
ほんとですね。 ロマンチックな。

護佐丸も どうなってましたっけ あれ。
護佐丸から伊貫親雲上に。

大本が護佐丸で。

そう 護佐丸が
言うたら 琉球王国
というのを つくった人の

右腕なんですよ。
ねっ 護佐丸。

すごい。
(笑い声)

結果すごいですよ。
そう信じときます。

粟国島は行ったことあるんですか?
いや ないですし

正直 知りませんでした。

粟国島っていうのを。
粟国島が自分のルーツにあるっていうのは。

ほんとに お母さんとか
行ってみたいんじゃないですか?

みんな連れていきたいですね。
ほんとですね。

もう一人 一輝が
そのルーツを知りたいと願っていた

沖縄出身の祖母。

鶴子が娘たちに
よく語っていたことがありました。

(取材者)プライド。 はい。

前城家には どんなルーツがあるのか?

大阪に暮らす
親戚を訪ねました。

鶴子のおいにあたる
前城正雄さんです。

大きな手がかりを
教えてくれました。

(正雄)これは おじいさんだよ。

鶴子の父の名は 前城正鐘。

男性の名には 皆
「正」の字が付いています。

同じ一族で
あることを示す

名乗り頭だといいます。
ほう~ 名乗り頭。

クー氏とは 鶴子の先祖たちが持つ

胡氏という唐名でした。

琉球王国の時代
中国との貿易にあたった士族は

それぞれ唐名を持っていたのです。
へえ~。

数ある前城家の中でも

名乗り頭に
「正」の字が付き

胡氏の唐名を
持つ家はないか。

沖縄県内の前城家

120件余りを当たりました。
はあ~!

うわあ すごい。

調べ始めて3か月。

つながりのありそうな家が
見つかりました。

(取材者)本日お世話になります。

前城惠美子です。

(取材者)皆さん
正しいの字がついていて。

え~。

一族に関する精緻な記録がありました。

すごい記録
残してるなあ。

う~わ~!
すごい。

すごいね これ。

正鐘 次男。

ありました。

はい。 これこれ。 すごい。

一輝の曽祖父
正鐘は

10人きょうだいの
次男でした。

え~!

すご~い。

うんうんうん。

(取材者)えっ!
うん。 偶然にも これもう…。

そう。
(取材者)そうなんですか!? そう!

ねっ。

この日 命日を迎えた 前城正祺さん。

長年 一族の系図作りに
力を注いできたといいます。

正祺さんの娘 和子さんです。

正祺さんが作った系図によると
初代 正好は

18世紀を生きた
琉球王国の役人でした。

「観音にお仕えして
唐国に渡る」

と記されています。

琉球士族の研究をする
田名さんによると

正好は 航海には欠かせない

重要な役職にあったといいます。

初代の正好から
3代あとの子孫が

一輝の高祖父
正知。 はあ~!

琉球王国の
事務方役人でした。

明治12年 日本政府は
首里城に軍隊と警察隊を送り込み

沖縄県の設置を一方的に宣言。

いわゆる琉球処分です。

450年続いた琉球王国は
滅亡することになりました。

このころの正知の行動を伝える資料が
見つかりました。

明治16年の沖縄県警察の調書。

正知への尋問の記録です。
ほう~!

当時 琉球王国存続のため

中国に助けを求める機運が
高まっていました。

人々の困窮ぶりに憤った正知も
清に密航し

琉球王国の復活を
訴えようとしていたのです。

しかし 密航計画は露見。

厳しい取り調べを
受けても

正知は
ひるみませんでした。

なんか すごいですね。

あの 今の ほんと最後の

「一度中止しても
断念するつもりはない」。

うん なんか すごい
自分のことのような感じがする。

闘う男っていう感じですよね
やはり。

そういう感じですね。
中国に渡ろうっていうね。

ちょっと誇りに思いますよね
そういうので折れなくて。

そこで もし… もし もし 抹殺されてたら
終わってましたよね。

しかも あの時代の取り調べですから。
きついですよね。

おばあちゃんの方のルーツ知って。
もう びっくりっていうか

結構もういっぱいですよ。
そうですよね。 (笑い声)

いや~ すごい濃い。
濃いですね。

濃いですね。

休憩 入れません?
(笑い声)

沖縄・粟国島で
地頭代を担ってきた 与那城家。

琉球処分後は役目を失い

サトウキビの栽培などで しのぐ
貧しい暮らしとなります。

明治45年 この場所で

一輝の祖父 廣が誕生。

その後 一族の暮らしが
大きく変わります。

廣が6歳の時
慕っていた兄の蒲が

貧しさから抜け出そうと
ブラジルへ渡りました。

ブラジル?

移民ね
…の時代ですね。

程なく廣も 父 亀次に連れられて
那覇市へ移住。

廣は この辺りにあった長屋で
両親と姉の4人で暮らし始めました。

与那城家の末えいが
持っていたメモに

亀次のことが
こう称されていました。

クルマー叔父さん。

その無理が たたったのか…

亀次は 47歳の若さで他界。

廣は まだ8歳でした。

昭和2年 廣は官費で学べる

師範学校に入学しました。

そして 19歳の時 念願がかない

故郷 粟国島で
小学校の教師となります。

しかし 廣の希望は打ち砕かれます。

昭和初期 日本は
未曽有の恐慌に見舞われ 倒産が急増。

地方では 身売りも相次ぎます。

えっ…?

サトウキビの糖価も暴落。

粟国島など離島では 芋さえ足りず
ソテツを常食とする ありさまでした。

はあ~…。
ソテツ。

毒抜きが不十分だと
死に至ることもあるため

「ソテツ地獄」と呼ばれました。
え~?

子どもの頃
ソテツを食べていたという末吉さんです。

給料も滞るようになり

廣は教師を辞め
親戚を頼って 大阪に渡りました。

ああ~ それで大阪に。

大阪で 一緒に暮らしていた親戚が
見つかりました。

与那城美一さん。

美一さんの父と廣が
いとこにあたります。

ああ~。

ずっと本読んでた
イメージです。 へ~。

2軒続きの長屋に 与那城の親族たちと

身を寄せ合い 暮らしていた 廣。

共同生活をせざるをえない
事情がありました。

沖縄県の出身者には 家を貸すことを拒む
大家が少なくなかったのです。

琉球独自の文化や言葉が 異質と捉えられ
差別につながっていったといいます。

(取材者)あ そうなんですね。

厳しい暮らしの中で
廣の支えになったのは

共に暮らす 与那城の親族たちでした。

とりわけ慕ってくるカズエを

妹のように かわいがったといいます。

当初 染め物工場の作業員だった廣は
独学で加工技術を覚え

繊維組合で
技手として働くようになります。

当時の廣の写真には
直筆で こう記されています。

このころ 廣は
沖縄にルーツを持つ女性と出会います。

9歳年上の鶴子。

後の 一輝の祖母です。

へ~
年上やったんや。

年上だって言いましたね 今。
はい。 9歳。

2人の新婚生活は
多難なものとなります。

昭和16年 太平洋戦争が勃発。

その2年後 次女の昭子

後の一輝の母が
誕生しました。

廣は 病気で徴兵を免れますが

大阪府警の巡査となり

危険な任務に就くことになります。

阿倍野署や。

廣は 空襲時の避難支援に当たりました。

昭和20年6月
連日の大空襲に見舞われた大阪。

廣たちの努力も むなしく
多くの人が亡くなりました。

更に 廣が心を痛める悲劇が起こります。

親戚たちが暮らしていた沖縄。

3か月に及ぶ地上戦では
民間人が巻き込まれ

9万4, 000人以上が犠牲となりました。

そして 故郷 粟国島にも
艦砲射撃が浴びせられ

島民90名以上が 命を落としました。

沖縄戦をはじめ
太平洋戦争の戦没者の名が刻まれた…

「與那城朝吉 與那城カズエ」。

大阪の長屋で共に暮らした
親族の名もありました。

廣が かわいがっていた カズエは

沖縄に
引き揚げた直後

地上戦に巻き込まれ
亡くなっていました。

うん… うん。

(取材者)
あ そうですか。 はい。

もう いっぱいです。
もう いっぱいいっぱいですね。

いや… あの~ まあ

祖父のね その 大阪来てからの
その人生も大変だったですけどもね

その沖縄とかね やっぱり
ああ 大変だったんだろうなというか

まあ 想像を絶するというか。

「沖縄の人 お断り」っていうのはね。
「お断り」っていうのが…。

ほんとに
そんな時代があったんだというか。

今ね やっぱ 沖縄って
そういうイメージがないから

分からないじゃないすか。
はい ないです。

逆に むしろ かっこいいとか
思ったりするんですけど。

やっぱ その 母や その祖父
祖母の時代というのは

大変だったんだろうなというか。

そうやって差別されても
なんかこう 前向きというか。 そうですね。

なんか そのね 廣さんの写真にも
直筆で書かれてた。 はい。

「ぼろ服の皺も明日の思い出」って
なんか すごくね。 いい言葉ですね。

あの言葉は
ちょっと刻んでおきたいですね ずっと。

そうですね。
いい言葉だなと思って ほんとに。

一輝の祖父 与那城 廣と
大阪で出会い 結ばれた祖母

旧姓 前城鶴子。

鶴子もまた
苦難の人生を歩んできました。

ねえ。 だって沖縄から
出てきてんねんもんな その時代に。

那覇市の この辺りで

明治36年 鶴子は
6人きょうだいの長女として生まれます。

琉球王国復活のため

中国へ渡ろうとした

元士族 前城正知。

その次男 正鐘が
鶴子の父親でした。

そうか さっきの
正鐘さんだ。

正鐘は
石大工として働き

家族を養っていたと
いいます。

しかし 大正8年
正鐘は 52歳の若さで亡くなります。

当時16歳だった鶴子は 母親や
きょうだいと一緒に大阪に移り住みます。

軍服などを製造する被服廠で働き
家計を支えました。

ここで出会った男性と 鶴子は結婚。

前妻を沖縄戦で失った
30近く年上の男性でした。

ええ~!
(浅野)30も。

昭和7年
鶴子たち夫婦に

長男 朝雄が誕生します。

朝雄の息子 森山 淳さんは

年上の夫を持った苦労を
鶴子から聞いていました。

(取材者)あっ
おじいちゃんがです?
うん。

(取材者)そうなんですね。
そう。

(取材者)銭湯か なんか…?

昭和14年 夫は他界。

鶴子は 下宿屋を営み
息子と暮らします。

そこに訪ねてきたのが 与那城 廣。

職場に近い住まいを探していました。

ぜんそく持ちだった廣が寝込んでいた時
鶴子は 献身的に看病したといいます。

へ~。
それが きっかけとなり
2人は結ばれたのでした。

終戦後 廣は 阿倍野署の巡査として
取締りに当たります。

殺人や強盗などが急増する中

米軍の統治下で
武器の所持も認められていませんでした。

えっ?

へえ~?

武器なし?

昭和25年には 阪神地区を
ジェーン台風が襲います。

大阪府内 4, 400人以上の警官が動員され
廣も救援活動に身を投じました。

当時 大阪府警の巡査だった門岡さんです。

心身をすり減らす廣にとって

鶴子が守る家庭は
何よりの支えだったといいます。

へえ~。

鶴子が支えたのは
自分の家族だけではありませんでした。

家の軒先で天ぷら屋を始め

野菜や サーターアンダギーを揚げては
近所の人たちに振る舞っていました。

当時 その天ぷらを食べて育った
小川さん一家も

鶴子を頼りにしていました。

へえ…。

ハッハ すごいなぁ。

私は それを感じましたね。

う~ん いや~…。
ねえ。

すごいですね なんか。
うん。

あの サーターアンダギーが
出てきましたけど

子どもの頃 大っ嫌いで。
ええ。 行く時は 毎回…。

サーターアンダギー。
毎回 それしかなくて

やっぱ 子どもなりには
いろいろ食べたいのに。
まあ 確かに。

今 食べますけどね 懐かしくて。

トラウマなるぐらい
それしか出てこなかった。

それしかなくて。 でも その
祖母の そういう優しい話とか

ああ でも その 逆に母親とか

なんか 継いでるのかなっていうのと。
その お母さんを見ててね。

なんか すごい自慢のおばあちゃん
ですよね やっぱ。 そうです。

実は僕も
多分 そういうタイプなんですよね。

そういうこと 結構するんですけど
なんせ 顔が こんな感じなんで。
はい。

誰も そういうふうにとられないっていう。
(笑い声)

一輝さんには
父方にも 気になる人がいました。

近寄り難かった祖父との

印象的な思い出がありました。

自分から
もしかしたら…

続いては 父方のルーツ
北村家の足跡をたどります。

一輝の祖父 与吉の故郷は…

北村家は この地で
400年以上続く豪農でした。

へ~。

今も 一族の本家があります。

歴史的な家やん!

与吉の親戚にあたる敏子さん。

そして…。

17代目。
へ~。

(敏子)写真も
ちょっと いっぱい出てきたもんで。

孫太郎さん…?

幼少の頃 富山県の元武家の家から

北村家に養子に入りました。

地元の資料館に
孫太郎に関する記録が残っていました。

区長や村会議員など
地域の要職を

20年以上にわたって
務めていたことが
分かります。

学校の建設や道路の設置など
人々の陳情に心を砕いた 親分肌でした。

そんな孫太郎の六男として

明治45年に
生まれたのが与吉。

後の
一輝の祖父です。

3歳の時に母親を亡くした 与吉。

自立心の強い少年に
成長していったといいます。

その後 与吉は 大阪の この辺りにあった
親戚の帽子屋で働き始めます。

そして昭和12年
25歳の時 かづと結婚。

翌年には
長男 清が誕生します。

時は 日中戦争のさなか。

与吉も召集を受け

昭和14年 中国の戦地へ赴きます。

衛生兵となり

負傷者を救助する
担架中隊に配属されました。

与吉は 一旦 帰国しますが
再び中国へ出征。

合計7年間を
戦地で過ごすことになったのです。

戦時下の混乱の中で
誕生していたのが 次男の晃。

後の
一輝の父です。

与吉が引き揚げてきたあとも

困難は続いたと聞いています。

家族を養うため 与吉は 芋菓子など
さまざまな商売を試みます。

ある日 市場で出会った男性に
ピーナッツの加工を勧められ

可能性を感じました。

闇物資の運搬に 警察が目を光らす中

与吉は摘発をかいくぐり
何度も買い出しに出かけました。

ピーナッツの加工を研究する
与吉の姿を

長男の清さんは覚えています。

与吉は 試行錯誤の末
バターと塩で大粒の豆を味付け

油で揚げるバターピーナッツに
たどりつきます。

問屋に持ち込むと たちまち評判となり
注文が相次ぎました。

与吉は バターや豆の品質に
妥協しなかったといいます。

昭和34年 与吉は 大阪東住吉区の
この場所で 北村製菓を始めます。

終戦後の創業から7年余り。

50人を超える従業員を
雇うまでになりました。

戦争で 死と隣り合わせの
体験をした与吉。

生き抜く覚悟を
次男の晃は感じたといいます。

そんな父親の背中を見て育った晃は

大阪商業大学に
進学します。

大学では ワンダーフォーゲル部を
立ち上げ 主将を務めていました。

当時 一緒に山に登った後輩
中井信弘さんです。

みんなが憧れて「ええなぁ」いうことでね。

みんなが羨んだ晃の彼女は 与那城昭子。

通学電車で出会いました。
美人。

やがて2人は 一輝の父と母になるのです。
へぇ~。

いや~ ちょっと
親のとこまで きましたね。

友達が「ええなぁ」言うて。
「ええなぁ」って。

いや~ ちょっと 知らない話がいっぱい。
あら。

父の若い頃の写真見て
ちょっと びっくりしました。

初めて見たんで ああいう
そうなんですか。 父親の若い時の写真。

お母さんとのデートの写真。
デートの写真もそうです。

こうやって普通に出会って…。
ねっ 大学生の。

山下りたら待ってて
そんなデートしてたんだなっていうのが。

でも 与吉さんの衛生兵から
そうやって こう ねえ

1人で工場 造ってという
その生き抜こうという執念。

その強さは憧れるっていうか ほんとに…。

築いてきた自分で生き抜いてきてる

その男の強さみたいなものが
すごくありましたね。

大学卒業後 晃は 昭子との
結婚の意思を両親に伝えます。

結婚を反対されたと知った昭子は

その思いを一人胸に秘めていました。

そうですね。

与吉は 息子の幸せを願いながらも

葛藤する気持ちを
金沢の親戚に語っていました。

当時 まだアメリカの占領下にあった沖縄。

「沖縄は日本ではない」という意識から

遠ざけてしまう風潮が
社会に広がっていました。

そういうことか。

昭和42年 晃は反対を押し切り
昭子と結婚します。

これも初めて見ました。
ええ~。

写真。
はい。 うわ これも。

結婚後 昭子は
ピーナッツ工場の事務仕事から

両親や従業員の食事作りまで
懸命に手伝いました。

鶴子は 娘の昭子を
ただ見守っていました。

みんな強い人
ばっかりやん。

そして 結婚から2年後

長男 年浩に続いて
次男 一輝が誕生します。

間もなく 晃は 実家の工場を辞め

インテリアや内装工事の
仕事を始めました。

一輝の兄 年浩さんが

当時 家族が暮らしていた場所へ
案内してくれました。

(年浩)もともとの実家ですね。
へぇ~。

当時 この場所に
実家と晃の店がありました。

毎晩 店の前の じゅうたんを片づけるのは
年浩さんと一輝の仕事でした。

晃の丁寧な仕事ぶりは
地元でも評判でした。

母親となった昭子は

愛情と厳しさをもって
子どもたちを育てます。

一輝たちに伝えていた
大切な教えがありました。

「これでもか!」
なかなか聞かんな。

昭子は 子育てで忙しい中でも

北村家に頻繁に通っていました。

かづが体調を崩せば飛んでいき

与吉の年老いた姉の世話を
笑顔でこなしました。

与吉は昭子に
こんな言葉をかけるようになりました。

かづは 金沢の親戚たちに
こう語っていたといいます。

すごい。

そして 結婚から10年過ぎた頃

かづは 昭子を沖縄への旅に誘いました。

一輝は 幼い頃から夢みていた
俳優を志し

19歳の時に上京。

エキストラからスタートし
オーディションを受け続ける日々。

肉体労働や工場など 常に3つの
アルバイトを掛け持ちしながら

役者修業に明け暮れました。

30年来の友人 南さんは
いつも一輝に驚かされてきたといいます。

自分を信じ 全力で前に進む生き方。

それは 鶴子から昭子へ

そして
一輝へと受け継がれたものでした。

鶴子の晩年の姿を 兄 年浩さんが
撮影した映像が残されていました。

おばあちゃん 撮ってあげるよ。
おばあちゃん。
なんや?

85歳を過ぎた鶴子です。

(笑い声)

平成2年 鶴子は
87年の生涯を閉じます。

病室では最後まで

沖縄の民謡に
耳を傾けていたといいます。

そして一輝は 長年の努力が実り
俳優として頭角を現し

ドラマや映画から
引っ張りだこになります。

確かに それがしは
生まれすら定かではござらぬ。

北条や足立の者にも
なれるはずもない。

ケイオニウス様!

それは皇帝の意に
背くことになる。

反逆行為と見なされて
極刑になりうる重罪だ。

母 昭子さんが大切にしている
一輝手作りのアルバムがありました。

それは 忙しい日々の中

息子が誘ってくれた旅の記録。

一輝が写した母の写真。
昭子さんの一番の宝物です。

ええ顔やな。

チャーミング。

いや なんか ひと言で
「沖縄で大変だった」って言うけども

それが何年も
毎日続いてたりとか

やっぱり 北村家に仲良く
気に入ってもらえるために

そこまで どれだけ
努力したかっていうのも。

言うたら 与吉さんだけじゃなくて
日本全体が沖縄の人に対して

アメリカの占領下。 やっぱり…。

だから そこが身内に入るってことで
どう見られたり

どう言われたりってことも
多分 いろんな側面から

いろんなことを考えて
多分 そうだったとは思いますけど。

でも 結果的には もう
ほんとにいい人やっていう。

ねっ その金沢行かれた時とか。

これでもか精神や。
色紙に今後書いてもええぐらいの。

「これでもか!」って。
いや 今見ると 確かにそうですよね。

自分の中に すごくあります ほんとに。

あの北村さんが撮った

お母さんの写真は でも
ええ写真ですね 確かに。

本人も ええ笑顔の。
すてき。

でも きれいに撮るまで
何枚でも撮れって言うんですよ。
いいね。

そこも「これでもか!」。
「これでもか」ですよ!

全部これでもか!
「アカン アカンわ」とか言って。

ちゃんと見れました。

悲しい気持ちとか
なんかになるわけでもなくて

「お さすがだね!」って。
「やってるね!」って。

もう生き抜いてきたって
感じがすごいね。

「よし!」って感じ。
で 今バトンをもらって

「見とけ!」って感じで。

ここに 一輝のルーツ

ガーチ与那城家の先祖の墓があります。

一族の子孫たちには
それぞれの物語がありました。

一輝の祖父 廣が交流していた

歯科医師 与那城 勇。

終戦後 人々の心を慰めたいと
沖縄で牧師になりました。

勇は 伝道を行う中で
「ひめゆり学徒隊」のことを知ります。

生存者から聞き取りを行い

教会の機関紙に
その手記を掲載しました。

小説「ひめゆりの塔」は映画化され

少女たちの悲劇は

多くの人に
知られることに
なったのです。

大正の初め 粟国島から
ブラジルに渡った

廣の兄 与那城 蒲。

その子孫が ブラジル サンパウロ州で
見つかりました。

蒲の孫 シルビオ・与那城さんと
その家族です。

お兄さんだ。

厳しいブラジルの暮らしを生き抜き
家族を築いた蒲。

移住当初 コーヒー農園で
雇われていた頃の苦労を

シルビオさんは伝え聞いています。

太平洋戦争が始まると
「敵性国民」とされた日系移民。

虐げられる暮らしを
余儀なくされました。

戦後も続く苦境の中 立ち上がったのは

蒲の次男 与那城重雄。

会計事務所を立ち上げ

街の企業の
7割もの業務を請け負います。

その誠実な仕事ぶりが認められ

日系人として初めて
地元自治体の市議会議員となりました。

重雄の功績をたたえ
街の通りや橋には

「Yonashiro」の名が付けられています。

北村一輝さんの
「ファミリーヒストリー」。

激動の時代にあらがい

生き抜いてきた一族の物語でした。

そうですね 生きていく力を頂きました。

是非 何度も見返して頂きたいと思います。
「これでもか!」ってぐらい見ます。