英雄たちの選択 琉球スペシャル 第1弾「独立を守れ!島津侵攻 尚寧王の決断」…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

英雄たちの選択 琉球スペシャル 第1弾「独立を守れ!島津侵攻 尚寧王の決断」

江戸時代初め、独立国だった琉球王国に薩摩の島津氏が侵攻、勢力下におく事件が起きた。なぜ島津氏は琉球に侵攻したのか。当時の琉球王、尚寧王の立場から読み解いてゆく。

詳細情報
番組内容
もともと琉球王国は中国や東南アジア各国との貿易で栄えてきた。日本とも交流はあったが上下関係ではなかった。ところが豊臣秀吉が天下を取ると、琉球王国にも支配下に入るよう島津氏を通じて迫り、朝鮮出兵に協力させる。秀吉の死後も徳川家康は中国・明との国交回復に琉球を利用しようとするが、琉球は日本の支配下に組み込まれることを嫌い、返事もしない。島津氏からは武力侵攻も辞さないと脅迫される…尚寧王の決断は?
出演者
【出演】上原兼善,千田嘉博,島田久仁彦,【司会】磯田道史,杉浦友紀,【語り】松重豊

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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キーワード出現数ベスト20

  1. 琉球
  2. 尚寧王
  3. 日本
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(拍手)

「英雄たちの選択」 今回は
2週にわたってお届けする

「琉球スペシャル」です。

という事で 私たちは
沖縄にやって参りました。

見て下さい この美しい景色。

いや もう本当 日本はもとより

世界でも
こんなにきれいな風景の場所

ないんじゃないかというぐらいで
感動してます。

そうですよね。 磯田さんは 実は
仕事でも プライベートでも

沖縄は初めてという事ですね?
実は そうなんです。

私 与論島より南
来た事がなかった。 初めて。

いや~ どんな 何が見られるのか
楽しみです 私も。 それでは

行ってまいりましょうかね。
行きましょう。

独特な文化を育んできた 沖縄。

かつて ここに
琉球王国という

独立王朝が存在した。

15世紀に成立し
およそ450年の間

この地を
治めていたのである。

琉球は 日本から見れば南の端。

しかし 地図を動かし
視点を変えてみると どうだろう。

周りには 中国 フィリピン
ベトナム タイ…。

アジアの国々への道が
開かれている。

琉球王国は
各国との貿易で繁栄した

海洋国家だった。

首里城に飾られた鐘には

その栄華を誇る文字が
刻まれている。

「万國津梁」。

つまり 琉球は
世界の懸け橋となる事を

表明していたのだ。

しかし そんな琉球に
時代の荒波が押し寄せる。

時は 16世紀後半

日本の勢力が
従属を迫ってきたのである。

中でも
直接 圧力をかけてきたのが

薩摩の…

「琉球が 天下に
背いている事は
決定的であり

直ちに 軍を派遣し
滅ぼすべきである」。

だが 琉球には
グスクという

戦国日本をしのぐ
先進的な城塞があった。

この辺の これが たまんないな~。
(笑い声)

L字型に はまっちゃったりとか…

すごい すごい。
すご~い!

武力で迫る 日本。

そこに立ち向かったのが
琉球の国王 尚寧王だった。

戦を覚悟で…

スタジオには
さまざまな分野の専門家が集結。

琉球がとるべき手段を論じ合う。

知られざる沖縄の歴史を
2週にわたって ひもとく

「琉球スペシャル」。

第1弾は
王国が直面した最大の危機

島津氏の琉球侵攻。

尚寧王の苦悩と決断
その真相に迫る。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

今回 取り上げるテーマは
こちらです。

かつての沖縄を治めていた
琉球王国に

薩摩の戦国大名が攻め込んだ
島津氏の琉球侵攻。

その最大の危機に
立ち向かったのが こちら…

琉球国王に即位してから
亡くなるまで

日本の圧力と対峙し続けた

悲運の王として
知られていますけれど

磯田さん 今回のテーマは
どのように お考えですか?

今回はね
日本にとって 沖縄とは何か

また 沖縄にとって
日本とは何かを考える

きっかけになるテーマだと
思いますね。

初めての沖縄生まれの主人公です。
もう 待ちに待ってました 私も。

ただし この事件の真相を
考えるためには そもそも

琉球国が どんな国だったのか
知る必要があります。

では ちょっと
今日は 助っ人がいるんですよね。

そうなんですよ。
今回は この方に来て頂きました。

城郭考古学者の千田嘉博さんです。

よろしくお願い致します。
よろしくお願いします。

千田さんには なんと
私たち2人を 沖縄のグスクに

案内して頂いたんですよね。
豪華でした。

本当 すばらしかったですね。
グスクっていいますと

お城のイメージが
すごく強いと思いますけども

実は…

いろいろな機能って言ったら
いいでしょうか

そういったものを持った
特別な場所でした。

ですから まさにですね
琉球の歴史が詰まったところが

そのグスクだというふうに
言っていいと思います。

沖縄各地に グスクと呼ばれる
建造物が存在する。

その数は 300以上。

多くは 琉球王国の成立以前

各地の有力者が争う戦乱の時代に
築かれた。

中でも 浦添市にある
浦添城は

後に 琉球国王となる中山王が
居城とした場所。

2017年
その隆盛を示す発見があった。

すご~い!

今 こうやってね
見えてきてるんですけど

こちらがですね
浦添城がですね

本当に グスクとして
バリバリやってた頃の城壁です。

うわ~。

発掘調査によって出土した
城壁の一部である。

石積みの技術から
14世紀のものと推定された。

今回は 特別に
目の前で見せてもらう事に。

こういった形で…。

こういった目地が通るような…

本来はですね 恐らく
この一番上の平たんな所まで…

圧倒的ですね。
はい。 それが こうね

南側を グ~ッと取り巻いて
いただろうというふうに

考えております。
すごい!

この石積みは 大規模な城壁の
一部と推定されている。

グスクは 時代とともに

軍事要塞としての機能を
発達させていった。

浦添城より
後に築かれた…

ここには 敵の侵入に備えた
さまざまな工夫が見られるという。

ここが 中城の
今 正門って言ってるところから

お城の中に進んでいきたいと
思います。

もう こっから すごいですからね。
お~!

ちょうど 正面の所に
門がありますけども

あの門に近づいてまいりますと…

そういう仕組みになっています。

正門に近づく敵を見下ろす城壁。

壁の上から
一斉に攻撃できる作りである。

更に…。

ここが また… 見どころの一つに
やって参りました。

これ ご覧頂きますと
ちょうど正面

このすごい高い石垣があって
ここからも狙われてます。

この右側からも狙われています。

目指す本丸は
この向こう側にありますが

これ 本丸に進んでいこうとすると
こっち行きたいんですけども

石垣の壁になっていて
180度ターンして

本丸とは逆の方向へ
行かなきゃいけないっていう。

ないんですよ。

侵入する敵を 180度 逆の方向へ
誘導する。

ここでも 攻撃の的になる
仕掛けである。

本土では 同じ作りを
姫路城に見る事ができる。

複雑な仕掛けで有名な
姫路城。

だが こうした姿に
改修されるのは 17世紀の初め。

中城城の築城から
200年以上後の事である。

しかし 私 驚いたのが
この切り石で

江戸時代だと 家光の時代

大体 寛永時代
三代将軍の頃になったら

全国でも こういうふうなものが
見られるんですけど。

つまり こう 切ってですね。

ところが これ 僕の記憶だと
源平合戦が終わって…

そうですね。 15世紀になると
こういう石垣が現れてきて

もう こういう究極の いわば
完成した状態の石垣ですね。

もう既にあります。
へえ~。

隙間なく積まれた石垣は
築城技術の先進性を示していた。

更に アーチ状の門など
曲線を多用する石積みの技術も

本土の城郭には
ほとんど見られないものである。

すごい すごい すごい…。
走った! 走りました。

(笑い声)

すごい!
この番組やってて よかった~。

これ きれいでしょ? これ。
わあ~! 本当に。

典型的な胸壁の作り方でして

この胸の高さぐらいの石垣が
ずっと巡っていて

この ず~っと
帯状になってるところが

守りの陣地になるっていう
そういう仕組みであります。

なぜ 琉球に
先進的な築城技術があったのか?

それは 琉球が いくつにも分かれ
戦う時代を経ていたからである。

1429年 その分立していた勢力が

中山王によって統一される。

これにより 首里城を中心とした
琉球王国が誕生した。

これは 首里城に中国の使者を招く
儀式が再現されたもの。

琉球国王は 中国の皇帝から
王として認められる事で

権威を得ていた。

いわゆる 冊封である。

実は この冊封こそ
琉球王国の繁栄の秘密だった。

冊封を受けた琉球は

当時の中国の王朝 明に対し
定期的に貢ぎ物を贈る。

すると 明からは その見返りに

当時 世界的にも価値の高い
中国陶磁器などを

大量に与えられたのである。

更に 琉球の船は
東南アジアへと こぎ出す。

各国との
交易ルートを開拓し

酒や香辛料など
珍しい品々を
買い付けていた。

それらを 明に持ち込み

新たに 中国の品々を船に載せて
また 各国に売りさばく

いわゆる 中継貿易で
国を潤していたのである。

失礼します。

首里城の跡からは アジア各国の
珍しい品が出土している。

明やベトナムで作られた陶磁器。

琉球には 各国の権力者でも
入手困難だったものが

集まっていた。

白地に青い模様を浮かべる
ベトナム製の染め付けは

世界で 数点しか
見つかっていないという。

琉球では 民衆の生活にも
海外の品があふれていた。

あっ すごい!
おお~。

大きい。 わあ~。

タイから渡ってきた運搬用の壺も
その一つだ。

分かってるものの中の一つには
お酒ですね。

実際 ここに入ってるお酒を
タイから来たお酒を

中国の冊封使に振る舞ったという
記事もありますので。

あって 普通。
あって 普通。

しかも この史料は

その当時 琉球王国時代に
入ってきたものが

そのあと 沖縄で
いろいろな使われ方をして…

中継貿易によって
空前の栄華を築いた琉球王国。

しかし 16世紀に入ると
その活動は衰退していく。

ヨーロッパ勢力の進出や

海賊行為を行う
倭寇の活発化によって

東南アジアや明との通交が
激減したのである。

そして 16世紀後半
さらなる大問題が起きる。

日本で 天下統一を目前にした
豊臣秀吉が

琉球王国に 従属を
迫ってきたのである。

1588年 琉球国王に書状が届いた。

差出人は 島津義久。

秀吉の配下となっていた
薩摩の大名である。

「琉球が 天下に
背いている事は
決定的であり

直ちに 軍を派遣し
滅ぼすべきである」。

秀吉に従わなければ
武力征伐に出るという…。

独立国である琉球から見れば
理不尽な要求だった。

この危機に対処しなければ
ならなかったのが

時の国王 尚寧王である。

この時 即位したばかりだった。

当時26歳。

苦難の時代が
始まろうとしていた…。

はい。 初めて見るグスクは
本当に きれいでしたし

先進的な技術が ふんだんに
使われているんでしたね。

そうですね。 多分 数百年

ひょっとしたら
300年 早いかもしれないという

石積みの技術だとかに
ちょっと驚きましたね。

思わず駆け寄っていってしまう…。
思わず駆け寄っちゃいますねえ。

今 お話ありましたように

やっぱり 沖縄のグスクというのは
一つには その先進性ですよね。

やっぱり 本土のお城と
比べますと

圧倒的に早く

石垣のお城を
造っていく。

しかも
日本のお城の石垣っていうのは

土の斜面を 石垣で
カバーしていくっていう

そういう形で
発達しましたけども

沖縄のグスクは その城壁自身が
自立して こう壁になって

それで守っていくっていう。

東アジアの標準的なお城を
造っていったというところで

本土のお城とは
もう 決定的に違う

独自のものになっていったという
非常に大きな特色があります。

あれ 中まで
石が詰まってるんですよね。

詰まってるんです。
あの壁は。 それと

当時の戦国時代は
掻き揚げ城っつって

日本の本土の城だと 掻き揚げて
土を盛ってあるだけで

石積みさえないのが
ほとんどなんだけど

あれは 見たら驚いたと思いますよ
当時の人はね。 そうですね。

そして 今回は 主に近世の琉球と
日本の関係を研究されている

歴史家の上原兼善さんに
お越し頂いています。

よろしくお願い致します。
どうぞ よろしくお願いします。

上原さん
なぜ これほど その琉球では

本土と違う文化が
育まれていたんでしょうか。

もともと その琉球というのは

仮名文字も
使用されておりまして

基層文化と
言いましょうか。

それは 日本と同一な
文化であるというふうに

見ていいと思いますね。

ところが
中国大陸と

それから
日本との

ちょうど境界に位置している
琉球という…。

両方の文化的な影響というのを
強く受けるんですね。

これが
琉球の特徴だろうと思いますね。

恐らくですね
中国でも 日本でもない

独特の国というイメージだと
思うんですよね。

今の沖縄 琉球にも

つながるところが
あると思うんですが

地政学的な位置づけ
というのがあって

やはり
太平洋の真ん中

東シナ海 南シナ海の
真ん中というところでは

やはり 軍事的にも
経済的にも

戦略的な位置づけが
あったと。

沖縄のある位置…

それは 今の時代も変わって
いないんじゃないかなと思います。

磯田さん やはり 秀吉から見て
琉球というのは 魅力的な…?

それはそうでしょう。
秀吉は 琉球を支配下に置いて

権益を押さえておきたい
というのがあるでしょうし

あと 琉球貿易って
衰退してたとは言いながら…

やっぱり
陶磁器だとか 大陸からの文物

特に 東南アジアのものとか
ある訳ですよね。

要するに
俺たちは強いぞというのが

アイデンティティーな訳ですよ 本土の。
もう 下手すると

鴨が ネギしょってんじゃないか
ぐらいに

思っちゃいかねない訳ですよ。
なるほど。

「いいな ちょうどいいや!」
みたいなね。

日本の圧力に対し 尚寧王は

どのような対応を
していくんでしょうか。

日本への従属を迫られた琉球王国。

この時 尚寧王の言動を
伝える史料は少ない。

尚寧王が
生まれ育った…

首里城から
およそ4キロの場所にある。

王となった尚寧王は
民衆のために

首里から浦添までの街道整備に
努めたという。

その道の跡が残っている。

おっ!
実は 早速 1か所目が こちらに。

下に行くと やはり敷かれたような
痕跡があるという事で…

出てきた遺構をもとに
石畳を 今 復元をしております。

一部 下の方にも その石畳 本物
オリジナルがございますので

また ご案内致します。
はい。

はい。
はい。

これは もともとの…。
生きているやつ。

色 違うところが
もとの石材なのね。

尚寧王が 1597年に 石畳に
変えたという道の一部になります。

残っています。

アップダウン ありそうですね。

尚寧王が造った石畳の道。

その一部は 現在も
人々の生活に利用されている。

尚寧王って 漠然とした存在

漢字3文字の
存在だったんですけど

だいぶ どんな人か
見えてきましたよね。

かわいそうな事に
なってたって事も

よく分かりました。

度重なる要求を受けた
尚寧王は

1589年 秀吉のいる
京の聚楽第に 使者を送った。

しかし この事が 琉球の立場を
より悪化させる事になる。

間もなく 秀吉から
尚寧王に 一通の書状が届いた。

「我らは 間もなく
軍勢を渡海させ

明に 威風を
振るうであろう」。

なんと 琉球と冊封関係にある明に
攻め込むというのだ。

更に 秀吉は 琉球との
交渉窓口にしていた島津に

思いも寄らない命令を下していた。

与力とは 大名 武士に協力する
格下の存在。

秀吉は 尚寧王を
島津の下に位置づけて

明侵攻に
協力させようとしていたのである。

琉球は 島津から 兵7, 000人の兵糧
10か月分という

重い負担を要求された。

この時の尚寧王の心境を

琉球史の研究家 上里隆史さんは
こう考えている。

琉球側の交渉の記録を
見ていきますと

非常に戸惑っているような記述が
見えてきます。

島津氏が
朝鮮出兵に対しての兵糧を

供出せよという
この要求に対しては

やはり 引き延ばしのあとに
半分だけは出すと。

半分だけは出すという事で
妥協していきます。

秀吉に使者を送ったばかりに
日本に与する事になった 尚寧王。

しかし その一方で
したたかな外交を展開していた。

なんと 秀吉の侵攻計画を
明に密告していたのだ。

この情報を流した者の名は 。

琉球王国の役人である。

対日強硬派だったは

琉球で 貿易の実務を担い

中国とのパイプを持つ立場にいた。

彼の行動の裏に 王朝の意図が
あったとしても 不思議ではない。

1592年 ついに 秀吉が
明征服に向け 朝鮮半島へ出兵。

しかし 序盤こそ勝利を重ねたが

反撃を受け
次第に劣勢となっていく。

そして 1598年

豊臣秀吉の死とともに
戦いは終わった。

しかし これで 琉球の苦難が
去った訳ではなかった。

新たな天下人 徳川家康が

日本と明との関係回復に
動き出したのだ。

琉球は その仲介役として
目をつけられたのである。

尚寧王に 安息の時はなかった。

島田さんは その尚寧王の

日本への対応って
どのように考えてますか?

まず 尚寧王 かなり焦りましたね。

あ~ 焦りですか。
焦りですね。

もし 自分の立場 琉球王国
そして そこの王という立場を

もう一度
ちゃんと理解していれば

違った対応ができたと思うんです。

例えば 1つは
自分自身は 独立国の王として…

もしくは 明の朝貢国という立場を
逆に生かしまして…

そうしておけば 明としても 「おお
かわいいやつよ」というのと

まあ
逐次 ずっと情報は入ってくる。

もうちょっと違った
賢い外交のしかたが

あったんじゃないかな
というのは

私は 今回の尚寧王の対応を見て
感じます。

琉球側の外交に対する考え方と

日本の外交に対する考え方は
違う訳ですね。

皇帝の徳をもって
国家を統一していこうという…

これは なかなか
避けようと思っても

避け難い問題ですね。

琉球が
明への密告をしていたって…。

結構 危ない事なんじゃないかなと
思うんですが。

そうですね。
意図的に もう これは…

それだけではありませんで
明国は たくさんの商人を

スパイとして放つんですね。
つまり 情報合戦が始まるんです。

これを 本国へ送るんですが
その本国へ送る時に

琉球から護送をしてもらう訳です。

という人物がおりますが
これは

中国渡来系の人物なんですね。

彼が その護送に
かなりの力を発揮する訳ですね。

琉球にしてみると
俺は 明の一の子分だと。

日本なんか入ってないと。
だから 明の下にいる以上は

地形的にも
明には 自分たちの方が近いし

あの乱暴な日本がという意識は
どこかに僕はあるような気もする。

さあ そして 秀吉が亡くなって
秀吉の死後ですよね

今度は
家康が接近してくる訳ですが

この時 家康が
実現したかった事というのは

どんな事だったんでしょうか?
磯田さん。

日明貿易を もう一回
やりたいっていうのは

やっぱり あるでしょうね。
中国っていうのは

すごい富を
やっぱり 持ってる訳ですね。

領土拡大も望めない訳です
家康は。

それで お金を得ようとしたら
鉱山から 手に入れるか

貿易による利潤を確保しないと
豊かだというふうには言えない。

琉球等々を通じた
南からの貿易の利潤というのは

喉から手が出るほど欲しいと。

貿易利潤を得たいというのは
あったと思いますね。

明との貿易を復活させるため

家康は 琉球に接近する機会を
うかがっていた。

1602年 東北に 琉球の船が
漂着する事件が発生する。

すると
家康は 島津に命じて

漂着民を
琉球へ 丁重に送還させた。

恩を売る事で 琉球から
返礼の使者を送らせようと

しむけたのである。

しかし 尚寧王が
家康に使者を送る事はなかった。

つまり…

そして 膨大な負担の兵糧を
要求される訳ですね。

その新政権に対しては
恐らく また同じような事が

起こるのではないかという
その危惧が

尚寧政権が この聘礼の使者を

頑として拒絶した理由の一つに
なったのではないかと

私自身は思います。

この一連の出来事を
快く思わない者がいた。

島津は 秀吉から 琉球を
与力として認められており

その権益を独占するつもりだった。

当然
徳川政権の介入は 望ましくない。

義久は
琉球への影響力を示すために

自らが 尚寧王を動かし

家康に 返礼の使者を
派遣させようとした。

尚寧王に 脅迫的な書状を
送りつけたのである。

更に 島津家の新たな当主となった
家久について こうある。

「家久は
琉球への鬱憤がやまず

若さに任せて
浅はかな企てがあった。

それを 私が助言して
押しとどめたのだ」。

家久は 琉球に対する軍事行動まで
考えていたというのだ。

武力攻撃をちらつかせ
圧力を強める島津。

琉球に 危機が迫っていた。

苦悩する尚寧王の心の内に
分け入ってみよう…。

ここは要求を承諾し
衝突を避ける事が肝要であろう。

たとえ 島津が
戦の準備をしていたとしても

要求をのめば
挙兵の大義名分はなくなる。

前の当主 義久に比べ

新たな当主 家久は
血気盛んなようだ…。

手を打つならば
早い方がよいだろう…。

実は 徳川家康には 島津の出兵を
望んでいない節があった。

家康側近の本多正純が
島津に宛てた書状には こうある。

「そちらから
琉球へ出兵する件は

いよいよ
ご無用に願います。

その理由は

明と日本との講和が
成立したからです」。

実際には
明との講和は成立していない。

家康は 嘘をついてでも

島津の出兵を
阻止したかったのである。

それだけ 琉球との良好な関係を
求めていた。

だが 心配なのは
使者を派遣する事で

島津に服属したと解釈される事だ。

秀吉の時のように 無理難題を
押しつけられては たまらない…。

やはり 国を守るためには
そう簡単に承諾してはならない。

むしろ 日本より
明とのつながりを強める事が

独立を守る事に
なるのではないか…。

明との関係があってこそ
我が国は繁栄してきたのだ…。

事実 尚寧王には
明との関係を強める動きがあった。

ある男を 三司官という
行政の最高職に任命したのである。

それは 秀吉の侵攻を明に密告した
だった。

は もともと
三司官になれる家柄ではない。

まさに 異例の人事だった。

尚寧王は
が持つ明とのパイプに

期待したと思われる。

更に このころ 琉球と明の関係を
一層強める行事にも成功していた。

秀吉の朝鮮出兵など

さまざまな理由から
先送りになっていた…

1606年 明から冊封使が到着した。

尚寧王は 即位から17年目にして

正式な琉球国王の称号を
授かったのである。

戦を回避するために
家康に使者を送るべきか

明との関係を強化し
独立路線を貫くべきか。

尚寧王に決断の時が迫っていた。

その危機に陥った尚寧王の選択に
迫っていきましょう。

島津氏から 徳川家康に
使者を派遣するよう要求された

尚寧王ですが
選択肢は 2つです。

それでは 皆さんの意見を
お伺いしていきましょう。

上原さん どちら選びますか?

私は 第1の
「使者を派遣する」というのを

選択致します。
というのは なぜでしょう?

そうすると 疲弊をしている
琉球王国というものが

立ち行かなくなる。 ですから
できるだけ 和平を中心にして

外交を展開するという事が
大事だろうというふうに思います。

私も 1の「使者を派遣する」を
選びます。

なぜですか?
ただ 心理的には やはり

2の とことん迎え撃って
徹底抗戦をしたいんですが…

ただし この使者を派遣する時に
気を付けなきゃいけないのが…

まあ
言いかえれば 島津飛ばしです。

自分は 独立国の王であると。

一国の王である
琉球王である私が

あなたと明との間の仲介
特に 日明貿易の復活のために

仲介の任を担ってあげますよ
というような形での

家康への使節を
送る事にしていれば

随分 違っただろうなと。

という事は 2人は
1の「使者を派遣する」を

選ばれましたけれど
千田さんは どうでしょうか?

私はですね 2の
「使者を派遣しない」を選びます。

琉球各地にある…

琉球のグスクというのは…

実は 中国のお城
あるいは 朝鮮半島のお城を

そのまま持ってきた訳ではなくて
独自の発達をしています。

グスク 琉球各地にありますので

そういうところの拠点を
要所要所 守っていけばですね

島津軍では とても
その全部を落としていく

あるいは 面的に支配していく
という事はできませんので。

武力では劣っていても
あれだけグスクがあれば

勝てるという。
そう思います。

沖縄の城の技術って 有利ですよ。

ただ あのお城だけでは
守れないので…

で 琉球側は 無理すれば
1万までの軍事力が保有可能で

10分の1に 鉄砲を持たせても

十分 なんとか
しっかりした軍はできると。

そうすると
ものすごい垂直な壁の中にいる

1, 000の鉄砲と1万の兵士を
砕く事は 数千じゃ無理なので

そういう余地は
あったんじゃないかと。

だけど 1の「使者を派遣する」も
悪くない方法で

何をやるかって
今 はやりの体制保証を

その家康に求めるという外交が
絶対 必要なんですよ。

つまり
1, 000丁の鉄砲を用意する事と

それと 体制保証を家康に求めて
島津に攻めさせないようにすると。

この2つが 本当は大事だったと
思うんですよね。

ものすごく重要だと思います。

で また 島津が 何か怪しげな事を
言ってきたとしたら

何か あなたの部下の島津から
こんな事 言ってきたんだけど

どういう事なんですかね
というのを

直接 徳川家に送り返す。
なんとかしてくれませんかと。

そうしていく事によって…

はるかに
利益が高いという意味では

体制保証をしたくなりますよね。

上原さん いかがですか?

琉球は 直接 家康 徳川家と
交渉する可能性というのは。

これはね 今の我々から考えますと
可能性があるように

思うんですけどもね。
そうなんだよね。

そのころは
ちょっと難しいんですよ。

つまり それは…

これ 対等ならば
話ができますけれども

下位の国が 直接 上級領主と交渉
するという事は ちょっと難しい。

取次制っていうのが
あるんですよね。

もしも それが できたとしても…

するでしょうね。
下手したら 殺されますよ。

もう 全力で邪魔してくると
思います。

そうですよね。 やっぱり だって

島津にとっては
何としてでも欲しい土地…。

でもね…

そうですね。
で やれないと思わず…

国交正常化交渉でも何でも
過去の 実は 歴史を開いてるんで。

政治家の政治家たるゆえんは

みんな やれないと思っている事を
あっと驚かせて

外交交渉で実現する事なんです。
これこそが

政治のだいご味なんですよ。
だと思います。

尚寧王が
家康へ使者を派遣する事は

ついに なかった。

しかし その一方で

家康の望みをかなえる折衷案を
見いだしていた。

1607年 尚寧王は 明に対し
ある事を嘆願している。

明は 一部の民間商船に
特許状を与え

特定の場所に限って
貿易を許可していた。

尚寧王は その制度に
琉球を加えてもらい

日明貿易の中継地になろうと
考えたのだ。

これは
琉球を中継基地にする事で…

それは イコール…

戦争を回避する唯一の…

当時としては
唯一の手段だったと思います。

つまり…

その可能性が
この尚寧の要求だったと思います。

しかし
この願いは かなわなかった。

明が要求を拒否したのである。

その返答には こうある。

秀吉の侵攻以来
日本への警戒を強めていた明は

日本と関係をもつ琉球との貿易を
危険視したのである。

明との交渉は進まず
いたずらに時間は過ぎていく。

その間に 島津は 幕府から
出兵許可を得てしまっていた。

1609年3月4日 島津家久の命により
およそ3, 000の兵が薩摩を出航。

島津軍は
奄美大島 徳之島を制圧すると

僅か17日間で沖縄本島へ上陸した。

瞬く間に
今帰仁城を陥落させ

那覇へと進軍したのである。

尚寧王は 和睦の使者を送ったが
島津側は これを拒否。

やむなく
防衛軍 およそ3, 000の兵を

那覇港へ派遣した。

防衛軍は 那覇港の入り口に
築かれた砦に配備された。

そして 4月1日

島津軍の船団が
そこへ突入したのである。

島津軍を迎え撃ったといわれる
三重城跡。

現在も 那覇港に面した場所に
残っている。

ここから…

「高石垣に
矢狭間をあけ

大石火矢を
構え置き

湊口には
鉄の網を張って 警戒していた。

石火矢を放つと
船は ことごとく
破壊された」。

ちょうど この奥のとこですね。

その島津軍の船に対して…

撃退をした
船を焼いたというふうに

記録に出てきますから

実際の戦いでも
非常に効果的にですね

この三重城が
機能したんだという

そういう様子が分かります。

しかし
戦国乱世を生き抜いた島津が

これで引き下がるはずもなかった。

実は 那覇港を目指す一方で

島津の主力部隊は
那覇の北から上陸し

陸路で 首里へと
迫っていたのである。

「なんという事
だろうか。

かの島津軍には
別動隊があり

陸路に沿って
侵入したが

そこには
我らの兵の
防御がない」。

「浦添などの地方は
ことごとく

戦火の被害を
受けてしまった」。

しかも 島津の進軍には

皮肉にも あの尚寧王が築いた道が
利用されたのである。

琉球側は 直ちに
首里入り口へ兵を送ったが

その数は 僅か100人ほど。

鉄砲を駆使する島津軍に
突破されてしまった。

4月3日
首里城は陥落し 尚寧王は降伏。

島津の船に乗せられ
那覇港を出航した。

国王が日本に連行される
異例の事態となったのである。

尚寧王と重臣たちは

島津への忠誠を誓う起請文を
提出させられた。

この後 琉球は

島津から さまざまな政治的介入を
受ける事になる。

奄美大島 徳之島などは
島津の直轄領とされ

厳しい圧政を受ける事になった。

だが それでも…

そして その後
明治時代まで存続するのである。

尚寧王の故郷 浦添城の崖下に

浦添ようどれという王陵がある。

こちらがですね…

即位から苦難の連続だった尚寧王。

島津の侵攻から11年後
その生涯を終えた。

やはりですね 琉球が
薩摩に侵攻されるという

非常に大きな
歴史のうねりの中で

非常に いろんな葛藤があったと
思うんですけれども…

波乱の人生を送った悲運の王…。

今は 風の音も静まる
穏やかな場所に眠っている。

琉球にとって 非常に厳しい結果と
なってしまった訳ですけれど

尚寧王の決断 島田さんは
どのように お考えですか?

そうですね この決断を見ると

やはり 失敗だったんだろうなと
思うんです。

ただ この失敗の種っていうのは…

その時に
やはり 島津を介在させた

そして その時に
島津の与力にされてしまった。

やはり
独立国の王だった訳ですから

できないと思われていた…

千田さんは どうでしょうか。

本来
あれほどのすごい城壁があれば

3, 000ほどの兵で
すぐに落ちるっていうのは

考え難いんですけれども

まあ そういうものが
十分機能していないというのは

戦いそのものが うまく
機能しなかったっていう事が

実態だったんだなというふうに
思います。

グスクを生かしきれていなかった。
そうですよね。

琉球は 島津が攻めてきた時に
既に もう 琉球の統一がなって

久しい時代 時期でありましたので
そういった意味では

もう 戦いに明け暮れていた島津と
という事で言うと…

日本の博物館と
琉球の博物館を比べたら

分かると思うんですけども…

多いです。 私も
刀 大好きなので 申し訳ない。

琉球の博物館を見て下さい。
武器がないでしょう。

これは大きな違いなんですよ。

ここは もう
象徴的だと思うんですね。

でも 結局は あんまり
民を死なせなかった方で。

むしろ 死者を減らしてくれた
尚寧王が正しかったかもしれない。

もしも 例えばですね
抵抗なしで終わりますと

これはまた 明国から 琉球の
そうした立場というものが…。

引き入れたと言われますね。
もう 軍事力 引き入れた。

ですから
ここは苦しいとこですよね。

両方の側面を ちゃんとこう
見せておかねばならないという

苦しさがあっただろう
というふうに思いますね。

那覇湾港で 砲撃戦をやって

大して死者がならないまま
城門を開いて

国王が連行された形にするのが
一番 死人が少ない。

このやり方は。
そうだと思いますね。

一応 表向きに
悲運の王とは呼ばれていますが

結局は
実を取ったんじゃないのかなと。

実際 琉球王国としては
琉球としては

明治時代ができるまでは
存続してるんですよね。

という事は…

そのあと やはり
まあ 沖縄 旧琉球がですね

いまだに やはり
アジアだとか 太平洋

もしくは 世界のおへそのような
地政学的な拠点

もしくは 本当に大事なポイントに
なってるというのは

もしかしたら…

歴史を こう 本で読む時に
どうしても

合戦とか戦いというのは どっちが
勝った どちらが負けたという

それだけで考えてしまう。
何となく

勝った方が偉いっていうふうに
見ちゃうんですけども

やっぱり 歴史って
それだけではないっていうですね。

負けるが勝ちも知ってますね
でもね 尚寧王はね。

上原さんは
生まれも育ちも 沖縄の那覇で

今 こうして 琉球 沖縄の歴史を
振り返る事って

どんな意味があると考えますか?

琉球は 例えば
こういう戦いを経ていく中で

自分たちの国というのが
弱小国なんだ。

つまり…

そういう自己認識を
ちゃんと確立をしたという事も

今回の琉球出兵についての
大きな意味があるだろうと。

反射してくる。 それ 考えると

今 この尚寧が味わった
その苦難というのは

我々にも ひょっとしたら
無関係ではないですよね。

米中っていう
非常に大きい国があって

基本的には

それほど 軍事力に頼れる国では
ないという状況もあります。

そうすると
その日本海とか東シナ海を

緊張の海にさせないという事
というのが 非常に重要な事も

この沖縄の…
やっぱり日本は 海の国なんだと。

情報が大事だったり
外交が大事だったり

海の平和が大事だったり。

いろんな教訓がね 今日の話に

僕は 含まれているような気が
しますよね。

さあ 皆さん 今日は 琉球について
たくさん考える事ができて

非常に いい機会になりました。
ありがとうございました。

ありがとうございました。