英雄たちの選択「家臣団分裂!若き家康・最大の試練 ~三河一向一揆の衝撃~」[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

英雄たちの選択「家臣団分裂!若き家康・最大の試練 ~三河一向一揆の衝撃~」[字]

桶狭間の合戦後、今川から自立し、三河統一を目指した若き日の徳川家康。立ちはだかったのが一向宗だった。有力家臣までが一向宗側につく大ピンチをいかに切り抜けたのか?

詳細情報
番組内容
桶狭間で今川義元が討たれた直後、若き日の徳川家康は織田信長と組んで今川からの自立と三河統一を目指す。闘いが続く中、さらなる敵が現れる。三河一円に勢力を張っていた一向宗だ。まるで城郭のような堅固な寺院を拠点に、経済的にも軍事的にも圧倒的な力を持っていた。さらに家康の有力家臣たちも一向宗側についてしまう。家臣団分裂という大ピンチを家康はいかに切り抜け、三河統一を果たすのか?最新研究と現地調査から描く。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】城郭考古学者…千田嘉博,脳科学者・医学博士…中野信子,歴史学者…平山優,【語り】松重豊

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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一つの合戦が 時代を大きく変えた。

尾張の織田信長が
東海の雄 今川義元を討ち果たしたのだ。

実は この戦い
もう一人の武将の運命をも大きく変えた。

その人物とは…。

こちらのお像が そうです。

長きにわたる戦国時代を終わらせ
天下太平の礎を築いた…

若き日の姿を伝える木像が
今に伝わっている。

家康公が 戦勝祈願をされて

ご自身から この寺のお稲荷堂に
安置してくれということで

現在に至っております。

りりしい表情を浮かべた
20代前半の家康の木像。

このころ 家康は
大国 今川氏の傘下から抜け出し

現在の愛知県東部
三河国の統一を図っていた。

そんな若き家康に
絶体絶命の試練が訪れる。

家康の生涯 三大危機の一つに数えられる
三河一向一揆である。

当時 三河一円に広がっていた
一向宗勢力が

打倒 家康を唱えて
一斉に蜂起したのだ。

すると 家康を支えてきた家臣団までが

家康をとるか信仰をとるかで
真っ二つ。

敵味方に分かれてしまったのだ。

存亡の危機に直面した家康。

そして この混乱極まる戦いを
収束させるために

家康が企てた奇策とは。

スタジオには 各界の専門家が集結。

熱い議論を展開する。

ひょっとすると…

徳川家康 天下への長き道のり。

その第一歩となった「三河一向一揆」。

若き日の家康に課せられた最大の試練
その真実に迫る。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

その時 彼らは 何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。

今回の主人公は こちらです。

この木像を見て ピンとくる方は なかなか
いないかなと思うんですけれど

実はこれ 若い頃の徳川家康を
写した木像なんです。

今回はですね 家康が 22歳の時に起こった
三河一向一揆を取り上げます。

もしですね インタビューに
家康が 今 答えてくれたら

生涯 最大 困った敵っていうのは
信玄や石田三成ではなくて

一向一揆と答えるんじゃないかと。

いや 大体 家康のいとこの…

だから 恐らく そう答えるだろうと。

で しかも
ただの一向一揆ではなくてですね…

いや~ 外から攻められるより
対外的な敵より

自分たちの仲間が中にいるというのは
タチが悪いです。

それほど 家康にとって
苦難の戦いとなったのが

この三河一向一揆で。

「雨降って地固まる」で。

非常に大事な歴史ですね。

ところが この一向一揆
残された史料が少ないですね。

理由は当たり前ですよね。

そっか~。
ええ。 しかし

近年 やっぱり
一次史料の発掘が進んでですね

その全貌が見えてきましたね。

それでは 若き日の家康が
大国 今川氏のもとから

いかに独立を図ったのか
まずは そこから見ていきます。

桶狭間の戦いが行われた
永禄3年5月19日。

松平元康 後の徳川家康は

今川軍の先ぽうとして

最前線である尾張の大高城まで
進出していた。

ところが この日…。

総大将 今川義元は

新興勢力の織田信長に敗れ
なんと討ち死にしてしまう。

同じ日の夕刻。

この衝撃の報せが
元康のもとに届けられた。

義元が討ち取られ
今川本隊が総崩れになると

孤立無援となった大高城が
織田軍に囲まれるのは

時間の問題だった。

その日の夜。

元康は 大高城からの撤退を決断。

一路 三河国の岡崎城を目指した。

岡崎は 松平氏代々の本拠地である。

岡崎城に近い東岡崎駅。

2019年に完成した
若き日の家康像がある。

岡崎市出身の
杉浦友紀アナウンサーが訪ねた。

どちらかというとね 将軍 家康公の

ど~んと構えた姿を
見ることはありますが

この勇ましく りりしい家康公
岡崎にいた頃ということで

こういうことなんでしょうね。

いや~ 勇ましい。

ここ 岡崎の地に生まれ

幼い頃 駿河の今川家へ
人質に出された元康。

義元が討ち死にしたことで

織田 今川の大国のはざまとなった西三河。

元康は 岡崎城を拠点に
西三河の統一を目指した。

岡崎城の当時の姿は
よく分かっていない。

家康時代の痕跡を探した。

岡崎城の本丸を守る清海堀。

発掘調査を担当する
山口遥介さんに

案内していただいた。

すごいですね 立派な。
はい。

実は 最近
この堀底を発掘調査をすると

更に この石垣っていうのも もう1m50
2m近く まだ堆積をしているので…

すごいですね。 堀自体は
家康が 岡崎にいた時にもあった…?

はい はっきりと…

この堀 見ていただくと…

確かに。
こういったのが すごく こう…

恐らく 家康段階にもですね

この堀の最初になるような堀というのは
あったと思います。

そのあとに 石垣をつくったりですね
改修の手が加わっているので

まあ ずばり その時代のが
残ってるわけではないんですけれども…

岡崎城は 矢作川と乙川の

2つの河川に囲まれた
天然の要害。

しかし 堅固な岡崎城を
居城としたとはいえ

元康のような小勢力が
生き延びるためには

織田か今川か どちらかに
くみさなければならない。

そして…。

元康は 桶狭間の戦いの翌年
その後の運命を左右する決断を下した。

この時代の松平家を記録した
「松平記」に こうある。

「岡崎と
尾張との間の戦いを
停止する」。

つまり 元康は
織田との和睦を
図ったのである。

なぜ 元康は
今川ではなく織田を選んだのか。

歴史家 柴 裕之さんは こう考える。

ところが今川家は
当時ですね

東の方で 実は関東に
侵攻してきていた

上杉謙信
北条と武田との関係から

対応に
追われてしまったわけですね。

つまり 家康からすれば

見捨てられたという状況に
なってしまうわけです。

今 切り捨てられた今川よりも
織田との関係を維持していった方が

今後の在り方として
ひらけるんではないか。

逆に言うと…

…となってしまったので 縁を切った
ということになるかと思います。

織田と和睦したことで
西に対する憂いのなくなった元康は

東に向かう。

東三河の今川方の重要拠点

牛久保城を攻めたのだ。

将軍 足利義輝が
ある大名に送った手紙には

「今川氏真と
三河岡崎の元康が

戦になった」と記されている。

牛久保城周辺に砦を築き
城攻めを仕掛けた元康に対し

今川義元の後を継いだ氏真は
1万の大軍勢を率いて出陣。

家康方の砦を攻撃した。

砦に籠もった兵は 僅か数百だったという。

知らせを受けた元康は
3, 000の援軍を率いて岡崎城を出陣。

砦を包囲する今川の大軍勢を攻め
籠城していた兵の救出に成功した。

「松平記」には こうある。

「1万の今川方が
3, 000ばかりの元康方を

食い止めることが
できなかった。

これこそ 無双の高名である」。

元康は 名前を「家康」と改める。

今川義元からもらった
「元」の字を捨て

ここに 今川からの
完全な独立を宣言したのである。

ところが この年の12月。

三河統一に邁進する家康の前に
更なる敵が立ちはだかる。

若き日の家康 最大の苦難
「三河一向一揆」のはじまりであった。

今回も さまざまな分野の
専門家の皆さんに

お越しいただいています。
よろしくお願いいたします。

さあ 今回は珍しく 20代前半の家康を
取り上げているんですけれど

平山さん この若き日の家康には
どんな印象をお持ちですか?

ひときわ運のいい
強運の男だという印象があります。

危機的な状況で
あるにもかかわらず

どういうわけか
それを切り抜けて

切り抜けるたんびに
大きくなるっていうのが

私は 徳川家康の特徴ではないかな
というふうに思ってますね。

特に この三河一向一揆を
よく調べていくと…

ところが いろんな偶然が重なって

家康は これを切り抜けることに
成功するんですよね。

中野さんは 若き家康について
どんな印象でしょう?

そうですね 我々がよく知っている
徳川家康像って

かなり後年のものですよね。

なので こうした若い時期の家康
元康時代を見るのは

すごく新鮮だなと思います。

先ほど平山先生が
おっしゃったような

「強運の人」っていうことなんですけども…

…なのかなという印象はあって。

何か そこから 非常に
学べることっていうのが

多いのかなというふうにも思っています。

今回 私 実は初めてですね
仕事で 岡崎城に行ったんですけれど。

この家康時代の岡崎城って
実は あまりよく分かってないんですよね。

そうなんですよ。
岡崎城っていうのは

幕末までですね 近世城郭として
ずっと続いていきましたから

家康の時の岡崎城が
どうだったのかっていうのは

実は よく分かりません。

じゃあ当時の まさに
三河一向一揆とですね

激突していく時の家康の城
っていうことで申しますと

例えばですね 1569年 永禄の12年に

遠江に… 今の静岡ですね
見付城っていうお城を

造ろうとしたっていうのが
分かるんですが

これを見ますと 実は この家康の
まさに本拠のお城として

造られた
見付城だったんですが

中心部分が四角く…
四角い形をしていて

周りに 堀を巡らせてると。

それに付属する
二の丸に相当する所

あるいは 三の丸に
相当する所っていうのは

もちろん あるんですけれども…

分かりました。
桶狭間の戦いをきっかけに

独立を果たそうとする
家康なんですけれど

信長と手を結びますよね。
うん。

尾張の新興勢力にすぎない
信長を選んだ理由は

これは なぜなのか
皆さんに聞きたいんですけれど。

実はね…

この永禄3年の桶狭間後
まず岡崎に帰るんですけど

実際はですね…

本領に 事実上帰った形になって
そして 今川方の有力な防波堤として

織田と戦うっていう
使命を与えられるんですよ。

問題は そこから先なんですよ。
織田勢と ず~っと戦うんですよ。

一向に 今川から援軍が来ないんですよ。
本隊もやって来ない。

これはですね…

なので 自分たちは
見捨てられる可能性が高い

そう考えて 今川から離れる決断をした
ということになるんだと思います。

千田さんは どうしてだと思いますか?
はい。

ここで…

ここは そっちに賭けてみよう
っていうですね

家康の選択ではなかったかな
というふうに思います。

織田に賭けてみようと。
はい。

ちょっと
ギャンブル性もあったわけですかね。

あると思います。
若さならではですね。

こっちに賭けてみよう
ってことじゃなかったんですかね。

10代後半から20代前半ぐらいか
ここのブレーキの機能って

あんまり出来上がってないんですよね。

なので…

…という部分もあって
ひょっとしたら そういう

大人に もう十分なってたら
やらない選択をした可能性もあるのかな。

私 雪だるまの法則って
言ってるんですけど

大名って やっぱり
雪だるまをぶつけ合って… 軍勢の大きさ。

単純に 石高だけで言うと

三河国って
30万石ぐらいの国なんですよ。

ほいで ところが織田って
尾張って大国なんで

それで 更に
信長の勢力が伸びてるんで

60万石 100万石の
雪だるまなんですよ。

これを押していこうとしたって
併呑するのが難しいんですよ。

ほいで もし その
100万石 60万石の雪だるまが

30万石にやって来た時に
こっち側 転がってきた時に

今川が押し返してくれるかっていうと
ないんですよ。

そうすると
30万石の雪だるまで

次の国である
遠江 浜松の方に行くと

浜松は たった30万石の
雪だるまなんですよ。

じゃあ 駿河国自体
いくらあるんだと。

せいぜい15万石ですよ。

もっと伊豆になったら
6.9万石しかないわけですよ。

ですから この雪だるまは
東へ向かって転がす方が

どんどん大きくなって
併呑できるのは

誰の目にも明らかなんですよ。

さあ その信長と同盟を結んだことで
今川の敵となった家康。

しかし 更なる強敵が
家康に反旗を翻します。

いよいよ 三河一向一揆の始まりです。

三河統一を目指し 今川方と戦う松平家康。

だが ここには 第3の勢力が存在した。

当時 一向宗と呼ばれた宗教勢力である。

武士 農民の区別なく
信仰で結び付いた一向一揆は

時には 大名とも対立 徹底抗戦した。

戦国大名に匹敵する武装集団でもあった。

広島県竹原市にある長善寺には

戦国時代の一向一揆ゆかりの品が
今に伝わっている。

(取材者)住職 こちらは
どういったものになりますか? はい。

こちらの方が
一向一揆の旗と呼ばれるもので

私たちは
「進めば往生極楽 退かば無間地獄」と

読みなさいというふうにいわれてます。

旗のあちこちに残された
虫食いのような穴。

戦場で実際に使われた証しである。

これはですね…

戦国時代
全国各地に 勢力を拡大した一向宗。

「一向」とは
一心に 阿弥陀仏を念じること。

浄土真宗本願寺派を指す呼び名である。

飢きんや戦乱が続く乱世に生きる人々は

死と隣り合わせの日常の中
来世に救いを求めた。

それは 家康の三河国においても
同じである。

当時 三河では
家康の居城 岡崎城の周辺に

一向宗の寺院が 勢力を拡大していた。

本證寺や本宗寺など4か寺は

数百に及ぶ末寺や道場を展開し
隆盛を誇っていた。

信長の一代記「信長公記」にも こうある。

「三河の一向宗寺院は
川沿いの攻めにくい
要害の地にある。

経済的に豊かで
人の多い港である。

国中の半分以上が
門徒となっていた」。

愛知県安城市。

一向宗の中心となった
本證寺がある。

櫓なんでしょうかね。

お堀もあるし。

すごい お寺というより お城みたい。

本證寺住職の小山興圓さんに
境内を案内していただいた。

何か 今 来ただけでも
お寺というよりお城のようなんですね。

そうですね これ
城郭伽藍といいまして

本当に お城のような造りをした
お寺ということになっております。

お~。
特に あの建物。 はい 櫓のような…。

はい これ 太鼓楼といいまして

本当は… 本来は 時を告げる太鼓が
2階にぶら下がって

時刻を知らせるというのが この建物。

で 高い所に造ってありますもんで
これが…

その有事には そういう役割を
担っていたものだというふうに思います。

更に 奥へと進んでいくと…。

ここを 多分…

だから ここは 今 通れますけど。
で ここにありますよね。

あ 本当ですね。

ここがね まさに。
確かに。 でも この ちょうど

切れてるから分かりやすくて。

寺の周囲には
土塁と堀が築かれていた。

高さ2m以上の土塁が
数十mにわたって続き

敵の侵入を拒んでいる。

これまでの発掘調査により

本證寺は かつて 大規模な堀や土塁で

周囲を囲んでいたことが分かっている。

ここは どういった場所なんですか?

こちら
今までの発掘調査をした堀の中で

一番深い所になります。

もともとの地面の高さが
ここになりまして

ここは もちろん堀の中で
ここから大体… そうですね

2m以上は 堀底までありますので
もともとの地表面からすると

堀の底まで
約4mぐらいの深さがありました。

そうなんですか。 はい。
4m。

へえ~。 だいぶ深い堀なんですね。
そうですね。

断面も
アルファベットのVみたいに

傾斜がきついので 下に行くと

とても自力では登れないような
感じの形になってました。

いや これは 結構鉄壁な守りですよね。

更に 本證寺には

門徒たちの強固な団結力を物語るものが
残されていた。

こちらはですね…

どこまでも寺を支えようと誓う
門徒たちの名前が書かれた連判状。

115名のほとんどが 武士である。

松平の家臣もおりますし
今川の家臣もいたり

水野家の家臣と吉良家というのが
まだ ありましたので

そちらの家臣の ある意味では
四つどもえの

そういう中での人たちになります。

だから 全然…

三河一向宗は 武士たちの心を
主従関係とは別な形で 強く捉え

勢いを増していたのだ。

今川との戦いを続ける家康は

そんな一向宗と
ついに敵対することになる。

永禄6年 秋のことと考えられる。

きっかけとなったのは 家康の家臣が

一向宗寺院から
強引に兵糧米を取り立てたことだという。

ところが…

そもそも 何で兵糧を課すのかというと
やはりこれも…

一向宗寺院との対立が深まる中

家康は
一向宗門徒である家臣たちに

「一向宗から改宗し
反逆者に味方しない旨の

起請文を出せ」と命じたという。

ところが 一向宗門徒の家臣たちは

「主君の恩は 現世のみ。

しかし 阿弥陀如来の大恩は
未来永劫尽きることなどない」と

一揆方に身を投じたという。

家康の有力家臣たちも

家康側に残る者と

一向一揆に参加する者とに割れた。

中には
一族間で敵味方に分かれた者もいた。

後に 家康の天下統一事業を支え

「懐刀」と称された 本多正信も その一人。

この時 一向一揆方に走ったのだ。

そして 永禄6年12月

ついに 三河の一向宗門徒が一斉に蜂起。

堅固な寺院に籠城し
反家康の兵を挙げたのだ。

兵の数は家康方を上回っていたという。

あの 先ほど映像には

「不入の権」という
言葉が出てきましたけど

この「不入の権」というのは
どういうことなんでしょうか。

「不入の権」というのは
守護から派遣される守護使が

寺内に立ち入って そして
税の徴収とか あと罪人の逮捕

これを
拒否する権利のことをいうんです。

まあ 今でいうと…

税から逃れられる所に
なっているわけですよね。

現世では税を取られず
来世も保証してくれるっていうと

お金持ちたちは みんなそっちへ行くと。

だけど…

それで やっぱり家康の家来等が

まあ 誰かの指示を
受けていたかもしれませんけど

無理にお寺の中へ入って

もうボコボコにされるわけですよね
棒で打たれたりして。

そうすると そうやって
けがして帰ってきた様子を見て

家康は まあ何せ 相手 強くても

戦国大名の持ってる
やっぱり 武力って強いですから

寺の一つや二つ踏み潰してやれって
こう 行くわけですよね。

そうすると お寺同士は
連携を取って一斉に刃向かってくる。

ブワ~ッ! と… 広がって
一向一揆対家康ということになって

大変なことになっていったんだと
思うんですよね。

うんうん。

確かに 何か これから
今川と戦わなきゃいけないのに

何か その地元にいる 強い人たちと
戦う必要なんて

ないんじゃないかなあって
私も思っちゃうんですけど。

まあ でも…

私はね この三河一向一揆って
ほかの一向一揆と

全く性格を異にすると
思っているんですよ。

一つ…

ないです。

へえ~!

本願寺側が指示してたら もっと
本願寺側に史料が残ってるはずで

本当 ないんだよ。
そう。 で しかも

あらゆる史料を見ても
三河一向一揆対家康の戦いは

徳川の家臣団の戦いっていう史料しか
出てこないんですよ。

ただし お寺側も
大きくするつもりはなくて 籠城戦で

そして最終的に だって 和睦条件は

諸役免除と不入権の確認だけ
なんですよね。

だからもう もともとの権利を

ちゃんと認めろって
言っているにすぎない。

だからね あれは両方とも

あれよあれよという間に
起きてしまったっていうのが

僕は実情じゃないかなと
思うんですけどね。

その家康と敵対する
一向宗ですけれども

今回その拠点の一つとなった
本證寺を見てみますと

本当に お寺というより
お城のような

堅い防御施設が
出来ていたんですが

千田さんは
あれについては どうでしょうか。

ねえ。 杉浦さん
現地を訪ねてくださいましたけれども。

すごかったでしょう?
すごかったです。

あのお寺の本堂とかある
中心部だけではなくて

実は その本證寺の場合
お寺の周りの集落そのものを

現在の家並みがある所よりも
更に広い範囲を囲っていて。

まあ まさに寺内町
といったらいいですかね

その防御都市を
つくっていたわけですよね。

で しかも…

すごくお金持ちの 何て言うのか…

ああ~ そうですか。

この一向一揆が拠点にした その本證寺を
はじめとしたお寺というのは

もう時代を超えた
もう何十年も先取りしたような

非常によく出来た
軍事要塞でもありまして。

もうお城の 何て言うのか

まあ うまさといったらいいですかね
その巧みさ ということでいえば

家康の岡崎城とは
比べ物にならないぐらい よく出来ていて。

で しかもですね
この本證寺をはじめとした

三河一向一揆の拠点となった
その一向宗のお寺というのは

矢作川を代表とした
この河川の流通路ですね

それから街道の流通路ですね。

陸路も
海とつながる水路も

それぞれ押さえていて。
確かに。

それぞれが 都市的で お金も持っている
技術もあるっていうですね。

まあ そういったところを押さえている。

で しかも そのお寺を頂点として
道場といわれるような

網の目ネットワークが
三河一帯に巡らされているということで。

ここを 家康として攻めるといっても

これは非常に難しかったと。

まあ そういうことでいいますと
これ お城のことから見れば

ああいった
あの寺内町のことから見れば

家康 負けですよね これ。
これ とても勝てない。

うわ~。 大都会。
1, 200軒ですよ。 すごいですよね。

だから それが4つあるわけですよ
大きい所で。

そんなのに
全く課税ができないってなると

やはり それなりに
相当の誘惑だと思いますよ。 ねえ。

だから せめて貸してよ! っていうのも
家康の偽らざる心境だと思いますね。

何か 今 私たちが現代に感じている
そのお寺のイメージと

はるかに こう 大きな差がある
ということですね これは。 ねえ。

いや だって 銀行だもん。
銀行であり 大学であり

中世の寺院というのは。
ああ~。

さあいよいよ 家康最大の試練
三河一向一揆が始まります。

そして 家康に選択の時が訪れます。

若き家康は 最大の試練に直面していた。

一揆勢は 岡崎城の南
3kmにあった

家康方の砦 上和田城に
大軍勢で攻めかかった。

知らせを受けた家康は
すぐに岡崎城を出陣。

一揆勢に突入する。

大乱戦の中 家康に銃弾2発が命中。

鎧が硬かったため
命拾いをしたという。

翌日も 一揆勢の攻勢は続いた。

ところが…

一揆方に身を投じたとはいえ

主君と信仰のはざまで
苦悩していたのである。

1月15日。

最大の激戦が
小豆坂で行われた。

小豆坂は 岡崎城の南東3.5kmに位置する
丘陵地にある。

この時 一揆勢は

家康の別動隊と戦っていた。

そこを 家康本隊が

小豆坂を押しのぼって
一気に突いた。

挟み撃ちにされた一揆勢は

撤退せざるをえなかった。

激戦は 家康方の勝利となったのである。

2月になって 一揆方から
和議の申し入れがあった。

この申し出を
とりあえず受け入れた家康。

だが問題は
和睦の後の一揆勢の処分である。

許すべきか それとも…。

家康の心の内に分け入ってみよう…。

元はと言えば
兵糧を取り立ててはいけない

一向宗の寺から
無理やり取り立てたばかりに

こたびの一揆が起こったのだ…。

やはりここは
きゃつらを許すほかあるまい。

今は 同じ国の者同士で争う時ではない。

三河を守るためには
一人でも多くの武士を

家臣として 手元に置くことこそが
肝要であろう…。

三河の周囲は

東に今川 北に武田と
大国がひしめいている。

家康が ほかの国衆を抑え

三河を
速やかに統一しなければ

力ある戦国大名たちの
草刈り場と化してしまう。

「松平記」にも
こうある。

「三河で争っている
この時に

今川や武田などの
敵が

押し寄せれば
一大事となる」。

だが 許すとなれば これまで
わしに忠義を尽くし 討ち死にした

多くの家臣たちに顔向けできぬ…。

きゃつらは
主君である わしに 弓を引いた大逆臣。

許す道理などあろうか…。

やはり ここは 断固として
許さないという姿勢を

貫くべきではないか…。

だが それを不服とした者が
再び一揆を起こさぬとも限らぬ…。

反旗を翻した一揆勢を 許すべきか
それとも許さず 厳しく罰するべきか…。

若き日の家康に
決断の時が近づいていた…。

さあ 和睦を申し出た一向一揆に対して
家康はどう対処すべきか。

苦悩する家康に選択の時が訪れます。

選択1は一揆勢を許す。

選択2は一揆勢を許さない。

皆さんが家康の立場だったら
どちらを選択するでしょうか。

中野さんはどちらを選択しますか。
はい。

中野は… 許さないで。

あっ 許さない?
はい。

戦国武将としては
必要なことなんだと思うんですよね。

自分が 果断な処置を行う人間である
ということを

見せつけるということをしないと

あっ この人 こんなにチョロイのねと
思われるだけで

家臣団も危険にさらされるし

まあ 領国も危機にさらされる
ということがありますから

気持ちとしては許したくても
ここは許してはいけない

という判断を
自分なら すると思います。

では 平山さんはどちらを選択しますか。
はい。

私はですね 2の一揆勢を許さないという
方向でしたいと思います。

あっ 中野さんと一緒ですね。
はい。

ここで たとえ許したとしても

不入の特権を持つ寺院が
ずっと残っていて

これが いつ また新たな
リスクにならないとも限らない。

だとすれば 将来にわたって
禍根を 今 断つということで

許さないというふうに
選択した方がいいと

私はそう考えます。
はい。 千田さんは どうでしょうか。

はい。 私はですね
一揆勢を許すを

選びたいと思います。
あっ そうですか。

一揆の人々が 不入権を巡って
争っているという段階であれば

これはそこで 家康としても

折り合える可能性
あると思うんですね。

そして あの一揆勢と折り合った上で
やはり一番大きな課題であった

今川との戦いっていうのを
いかに盤石な体制で展開していくかと

いうところに集中した方が

家康としては
合理的な選択だと思うんですね。

まずは 和議を結んで
折り合えるとこで折り合っておくと。

そうすれば
次の今川の戦いに対しても

自分の方から
イニシアチブを持って展開できると。

僕も許すですね。

やっぱりね 信仰を
強く持っている人たちっていうのは

やっぱり一気に潰すと
あとがね やっぱりたたりますよ。

ああ そうですか。
ええ ですから寛容な政策をとると。

あと怖いのが…

国外へ出ちゃいますんで。

しかも 寺内町の周りにいる人たち
っていうのは 商業的にも強くて。

それで しかも あんなに商売ができる
ってことは賢い人たちで。

やっぱり 領内に 長期的に見ると
いてもらった方がいいので。

国外へ出られると
やっぱり ちょっと よくないので

うまいこと許したいところですね。

ただね
どうしても 僕 条件付きなんですよ。

あの お寺に堀をつくったり
塀をつくるのはいいんですけど

その周りに住んでる人たちが
町 丸ごと… ねえ。

外堀みたいなのをつくって それで
租税回避をしてるわけでしょう。

これは やめてもらわないとね
やっぱ困るので。

お寺の中の内堀だけは残すけど…

そこで 拝んでてもいいし
もう何やっててもいいけれど

その周りに お城並みの堀を掘って
あの 俺の子分を追い返したり

乱暴するっていうのは
やめてくれというのは

ちょっと言いたいところですね。
条件付きですね。

安城市歴史博物館。

家康に仕え 特に功績のあった
16人の家臣を描いた

「家康十六将図」が残されている。

酒井忠次や井伊直政など

後に徳川四天王とたたえられる名将が
居並ぶ中…。

槍の半蔵とたたえられた渡辺守綱。

そして
人質時代の家康のそばに仕えた

蜂屋半之丞。

この2人は 三河一向一揆の際
一向宗側につき

家康に敵対した門徒武士である。

一揆勢の主将格にあった蜂屋半之丞が
家康方に和議を申し入れた。

一揆方は 参加者や首謀者たちの
命を保証すること

そして一揆のきっかけとなった
寺院については

前々のとおり
不入の権を認めるという
条件を出した。

家康は これら全ての条件を受け入れ
起請文を交わしたという。

反旗を翻した一揆勢を
許すことを選択したのだ。

これにより…

実は家康は この時を待っていたのだ。

一揆勢との和睦から2か月。

家康は 一向宗寺院に対し
一つの要求を突きつけた。

「宗旨をかえよ」と迫ったのである。

それに対し寺側は

「前々のごとくと
起請文を交わした」と主張。

ところが 家康は
「寺が建つ前は 野原である。

なれば 前々のごとく野原にせよ」
と言い…。

一向一揆の拠点となった4か寺や
多くの末寺 道場を破却した。

寄るべき寺院のなくなった僧侶たちは
三河から離れるほかなかった。

この三河の一向一揆を平定し
またですね 反勢力を鎮圧したあと

家康は東三河に 本格的に
攻略に乗り込んでいくことになります。

その中で
家康と それまで敵対し続けてた

そういった勢力が
家康に従ってくるという状況になります。

つまり…

つまり…

そういうですね
きっかけとなっていったというふうに

考えていいんではないか
というふうに思います。

西三河を完全に掌握した家康は

勢いに乗って 東三河 奥三河を制圧。

三河国の統一を成し遂げる。

天下人への第一歩を踏み出したのである。

はい。 家康は一向宗を許しましたが

最後は もう寺の前は野原だったんだから
野原にしちゃえという

強引なやり方で終わらせましたよね。

結構 強引だなあと思うんですけど
中野さん。

そうですね。

「名」と「実」っていう部分がありますよね
物事には。

…っていう やり方なのかなと思います。

ちょっと こう 後年のね
やり方の片鱗が見えるというか

とりあえず 建て前は きれいにしておいて
というやり方ですけども

日本的な意思決定って
ほぼ こうなってますよね。

あの… まあ そうですね 大企業ですとか
まあ ちょっと公的な部分だと

書類を とりあえず整えておいて。
だけれども後に ちょっと…

…というような やり方の原形が
家康にあるなと思いました。

はあ~。

千田さん どのように考えます?
この強引な解決。 ねえ。

いや すごいこと やりましたね 家康ね。

途中まで いい人だと思ってたんですけど。
そうですよね。

あの 実際の発掘調査を見ましても
杉浦さんが現地を訪ねてくださいました

あの本證寺など ものすごい堀で
まさに町ぐるみ守ってたんですが

その堀をですね
完全に あれ埋めてるんですね 一旦。

ですから 本当に
形ばかり壊したことにするじゃなくて

本当に壊してるんですね。
ああ~。

そういったところが
実は三河には たくさんあって

岡崎城よりも
その岡崎の城下よりもですね

中心性を もしかしたら発揮していたかも
しれないというとこですから

そういったものを
壊してしまうということは

非常に あの 家康にとって
マイナスではあるんですが 逆に…

まあ ですから
ひどい人だなあと思いますけれども

その ひどさを乗り越えて
実行したということは

これ家康にとっては
非常に大きな意味を持ったと思います。

これは でも 磯田さん だったら最初から
許さなくてもいいんじゃないのかなって

思っちゃうんですけど。
そうしたら立て籠もって戦闘になるので

殺したくないは
あったんだと思うんですよね。

要するに 将来 散らせても
国外に散らしても

戻ってくる可能性もあるし。
家康にしてみると…

で 後年になって
近世の史料に残ってる家康って

政治や裁判について
何て言ってるかっていうと…

それを 結構 しゃべってるんで。
恥ずかしげもなく それを言うわけです。

でね 要するに…

…ということを
チラチラ言うっていうのは

実際 やってること見ると そうなんで
この柔軟なやり方っていうか。

だからね この辺が 政治家 家康の片鱗が
やっぱり見えてくると思うんですよね。

すごい…。 すごいですね。
それで結局 死者は減らしたんですよ。

感動した…。
ハハハハ!

中野さん とても感動されて。
僕も 家康の語録で近世に残ったものを

ほとんど点検しようと見てる中で
その言葉 見てね

「うわ すげえな この人」と思ったよね。

いや それ なかなか 僕なんか割と
理や筋に こだわるところもあったんで

「家康さん… なるほど!」と。

確かに
それで死人は減りますよねっていう。

我々の生きているパラダイムって
「真 善 美」っていわれるじゃないですか。

だけど
「真」に意味はないんだっていうことを

家康がやってる。

みんなが利益を生むことだったら
別に 真じゃなくてもいいんです。

あ~。 だから あれだけの
まあ 江戸幕府という幕府を

つくれたのかもしれないですね。
かもしれないですね。

利益を優先する人のパラダイムが
260年 続いたわけですよね。

そりゃあ
文化の花は開きますよと思いますね。

いや~ でも 平山さん
どうして この苦難を

家康は乗り越えられたと考えますか。

だから もう 出口戦略を一刻も早く
やらなきゃいけないっていうことで

まあ この一向宗を潰した
ということなんだと思うんですよね。

潰しておいて よかったんですよ。
というのも…

なぜかというと…。
ないんだからね 寺が。

そうか。

間違いないですよね。

そういう意味では
先見の明があったのと

まあ 運がよかったって
2つあるんだと僕は思います。

さあ 最後に磯田さん。
今回 若き日の家康と

三河一向一揆をテーマに
お送りしましたけれど

どんなことを感じましたか。
あれ 一見 一回 許しといて

本願寺さんたち その一向宗を
だましたように見えますけど

この解決法って 後に一向宗にとっても
家康にとっても よかったと思うのは

例えば あの時 本当に理を尽くしてね

お寺を囲って
火をかけて皆殺しにしてたら

あそこで死んでたはずの人たちが
いっぱいいるわけですよね。

考えてみりゃ 後の家康の戦略を
ほとんど立てた本多佐渡守。

あれを火の中で殺してたら

あれだけの
水際立った家康の作戦は
誰が考えたんだと。

あと 突撃させると
槍持って突撃させると
上手な渡辺守綱。

ああいう有力な家臣たちを
失ってたはずで。

ある種 僕は思うんですけど…

最後まで覚えて
あれこれ言うんじゃなくて

さっさと忘れる力っていうのも
よかったと思いますし。

まあ 理不尽に迫害すると
まずいんだなと。

あとになったら ゆっくり 昨日の敵が
今日の友になるんだということが

効いてきたのが
例えば 天正伊賀の乱で

忍者のいる所をね…

これも大事でしたし…

これが 弱い集団が
強くなっていく時の

非常に重要なことなんじゃないかなと
思いましたね。

何か許すことって
結構 自分のためになるという。

ただ その許し方が上手じゃないと
いけませんよ。

ただの 人のよい人でない許し方を
追求するっていうのが

ひょっとすると
人間や組織が大きくなる時の

僕は大事なことかなと思いました。

いやいや 若き日の家康について
いろんなことが知ることができて

私も 次 また岡崎に帰るのが
楽しみになりました。

皆さん 今日は ありがとうございました。