ファミリーヒストリー「柔道家・野村忠宏~金メダルへの種を残した二人の祖父~」[解][字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

ファミリーヒストリー「柔道家・野村忠宏~金メダルへの種を残した二人の祖父~」[解][字]

五輪3大会連続金メダルを獲得した稀代の柔道家のルーツ。最初の師匠だった父方祖父の教えが原点。母方祖父はシベリアに抑留。凄絶な日々が明らかに。母の脅威の運動神経。

番組内容
柔道家・野村忠宏。五輪3大会連続金メダルという偉業の礎は、先祖譲りの心と体だった!?父方祖父は農業をしながら町道場を開き、晩年まで柔道を教えた。野菜を近所に配るなど人育て人助けを生涯大切にした。母方祖父は旧満州に渡り、終戦後シベリアに抑留。凄絶な日々を送り、無念の死を遂げていたことが明らかになる。生前は足が速いと評判をとった祖父。その運動神経を受け継いだ忠宏の母は競泳で五輪代表候補になったという。
出演者
【ゲスト】野村忠宏,【司会】今田耕司,浅野里香,【語り】余貴美子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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(観客)野村! 野村! 野村!

希代の柔道家 野村忠宏さん。

(実況)巻き込んだ! 技あり!

(実況)そうだ 背負った!

(実況)背負い投げにいく。
背負い投げ! 一本!

オリンピック3大会連続で
金メダルを獲得したのは

柔道界で ただ一人。

よろしくお願いします。
野村です。

その土台が作られたのは
小さな町道場でした。

(取材者)は~。

こちらが まあ 私が柔道と出会った
大事な場所。 豊徳館野村柔道場ですね。

道場を開いたのは 父方の祖父…

忠宏さんの最初の師匠で

名前から 「忠」の字を受け継いでいます。

米づくり 農業しながらも
純粋に柔道を愛した人。

そして 忠宏の「宏」の字は

母方の祖父 岡田光宏からもらいました。

光宏おじいちゃんに
すごい顔 似てるって

もう本当に うり二つって
言われて 余計にね

どういう人生を歩んだのかって
いうのは 知りたいですよね。

今日のゲストは 野村忠宏さんです。
どうぞ!

よろしくお願いします!
(浅野)よろしくお願いいたします。

(拍手)

いやぁ もうアトランタの時

もう少年… 少年のような。
(浅野)うん そうそう…! 若い!

オリンピックの代表が決まる
半年ほど前の時点で

まだね 3番手 4番手ぐらい
だったんですよ。
はぁ~。

そんな人が3連覇して
最後の この背負い。

オリンピックの神様に愛されてた自分が
いたかもしんないし

若い時に まだ実績もない時に
担当してくれたドクターが

「いや 野村さん この体
この筋肉っていうのは

鍛えて できるもんじゃないよ」と。

「いや これは本当にね

親とか先祖に
感謝しなきゃいけないよ」。

…っていう体だったんですか。
そうなんですよ。

♬~

父方 野村家のルーツをたどるために
向かったのは 奈良県広陵町。

忠宏の実家を訪ねました。

あ~ どうも。
あ~ どうも。

忠宏の父 基次さんと
母 八詠子さんです。

(取材者)よろしくお願いいたします。

3年前 基次さんは気管を切開する
大手術を乗り越えました。

2人が案内してくれた場所は…。

野村家が 先祖代々暮らしてきた本籍地。

明治の終わり頃まで
染め織物の工場として活況でした。

しかし 忠宏の曽祖父
彦三郎の代に廃業し

小作農となります。

明治43年に生まれた祖父 彦忠は
学校に通うことも ままなりませんでした。

大正9年には 苦労がたたったのか
母 コトミが病死。

当時のことを 彦忠は
手記に記しています。

こんにちは。

当時の話を 伝え聞いています。

貧しさの中で成長した 彦忠。

心の支えになったのが
地域の草相撲でした。

家柄など関係なく競い合える世界に
魅了されたのです。

大正15年 15歳になった彦忠は
隣町の警察署で 柔道を習い始めます。

稽古を通じて仲間を作り
心と体を鍛えました。

柔道を始めて2年。

彦忠は たまたま立ち寄った
柔道場近くの教会で

運命の出会いをします。

生活困窮者のために奔走した牧師で
社会活動家。

ベストセラー作家でもありました。

関東大震災の被災者支援など
ボランティア活動の草分けで

農民が支え合う組合を作りました。

自身の境遇も重なり
賀川に共感した彦忠。

洗礼を受け 地域のための活動を始めます。

仲間たちと一緒に寄付を集めて
農繁期の託児所を設立。

無料で利用できました。

さらに
果樹園芸や畜産などの技術を学び

周辺の農家に伝えます。

彦忠は 町の人の人望を集め
頼りにされるようになりました。

そして昭和11年 彦忠は
託児所の一室を借りて

柔道を教え始めます。

少年時代 相撲や柔道に救われた彦忠。

人々の心身を育てたいと
無料で誰でも受け入れました。

指導にあたる彦忠の気持ちが
書き残されています。

3年後 長男の基次が誕生します。

後の忠宏の父です。

しかし 時は太平洋戦争の真っただ中。

彦忠も召集され フィリピンの東
パラオ諸島に送られました。

半年後 米軍の空襲で補給が途絶えます。

昭和20年12月
何とか戦地を生き延びて復員。

彦忠は母国の状況を見て がく然とします。

殺人や強盗などの犯罪が急増。

生きる気力をなくしている人も
多くいたのです。

彦忠は 自宅裏の納屋に畳を敷き
ひっそりと道場を再開します。

当時 GHQは 軍国主義を助長するとして
武道全般の活動を禁止していました。

それでも…。

昭和25年 柔道の禁止令が解除されると
多くの子どもたちが集まります。

出井俊宏さんは
当時 彦忠から学んだ教えを

今も大切にしています。

彦忠に柔道を学んだ長男 基次は
強豪 天理高校に進学。

個人 団体ともに 県大会で優勝します。
すげえ!

強そう。

次男の豊和は 10代から頭角を現し

ミュンヘンオリンピックで
金メダルを獲得しました。
すごいなぁ。

基次さんは 現役を引退後に
大きな花を咲かせます。

母国 天理高校柔道部で
指導にあたり

世界レベルの選手を
何人も育てたのです。

これが 先生。

教え子の一人で
彦忠のこともよく知る 藤木崇博さん。

野村家の親子に
通じるものを感じたといいます。

始め!

現在の野村道場を守るのは
父 基次さんと 忠宏の兄 忠寿さん。

技術だけでなく
「人を育てる」という精神は

今も受け継がれています。

そうそう そうそう!

グッと グッと引っ張れ!

よいしょ。

いや~ やっぱりそうですね。
やっぱり 何て言うのかな

柔道一家の血が。
ね。

柔道の すばらしさを伝えながら
まあ 子どもたちを育てる。

子どもたちを育てることが
社会への貢献にもなるし

未来の柔道のためにもなるっていう
そういう思いが。

いや~ それが やっぱり
野村家の柔道っていう。 うん。

だからほんとに まあオリンピックって
4年に一度じゃないですか。

「やっぱ そこで勝つっていうのは

すごい先祖の みんなが
いろんな徳を積んできたから

先祖に感謝しなきゃいけない」って
ほんと言われますね。
いやぁ~。

でも 素直にそれ
受け止められますよね。 はい。

忠宏の母 八詠子さんは
母子家庭で育ちました。

父 岡田光宏の人生には
大きな謎があるといいます。

父のことは 満州で

あの… なんか…
どう言うたら いいんかな。

無線かスパイか何かとかいう話が。

全然 想像がつかない。

古い戸籍によると
岡田家が暮らしていたのは

奈良県吉野郡大塔村。
現在の五條市です。

忠宏の曽祖父にあたる義武は
隣接する十津川村から来た婿養子。

十津川郷士の末えいでした。

そんな義武の長男として生まれたのが
祖父 光宏。

父から厳しく育てられました。

ああ どうも。

光宏は とても真面目で
意志の強い青年に育ちます。

昭和10年 15歳になった光宏は
無線通信を学ぶため

大阪の逓信講習所に入所。

その後 船舶の通信士などを育成する

東京の中野高等無線電信学校に
進学します。

こちらが 同窓会の名簿と
昔のアルバムになります。

こちらの昭和15年の
「三月普通部」のこちらに

岡田光宏さんという
お名前がありました。

光宏は
全国から集まった生徒たちの中でも

優秀な成績を収めました。

光宏のおいにあたる
伊藤秀樹さんは

生前の様子を
伝え聞いています。

本当に 十津川村に近いような田舎から

東京に試験に受けに行ったという。

学問的にも そうですけど
精神的にも強い人だったと思います。

その後 光宏は どんな人生を歩んだのか?

奈良県庁に
光宏の記録が残されていました。

「昭和15年3月12日
関東軍特種情報部技術雇員を命ず」。

光宏は 卒業と同時に軍属となり
旧満州の佳木斯に配属されます。

当時は 日中戦争のさなか。
ソ連との緊張も高まっていました。

光宏は ソ連軍の無線傍受や
暗号の解読を課せられたのです。

は~ むちゃくちゃ重要な仕事やん。

3年後の昭和18年12月。

一時帰国をした光宏は
同郷の伊藤繁子と結婚します。

大阪の逓信講習所時代に知り合い
10年越しの大恋愛。 う~ん 10年。

光宏のめい 木島瑞恵さんは
若き日の繁子を覚えています。

優しい人やってね
ものすごい美人でした。

いや 本当にそうですよ。
写真見ても分かる。

私の大好きな人でした。

挙式後 光宏は繁子と一緒に佳木斯に戻り
新婚生活を始めます。

昭和20年7月に 第1子が誕生。
後の忠宏の母 八詠子です。

光宏は 仕事から戻ると
片ときも八詠子を離しませんでした。

どうも よろしくお願いいたします。

光宏は ソ連軍の侵攻を
予感していたのではないかといいます。

光宏は 妻と子を避難させるため
駅に送ります。

繁子は 別れる時の夫の言葉を
手記に残していました。

(汽笛)

繁子と 生後1か月の八詠子は

5日間 飲まず食わずで
貨物列車に揺られます。

旧満州の新京の駅で
いったん下車した繁子。

そこで 思わぬ救いがありました。

駅の前で
母の兄の部隊っちゅうんですか。

それが とまってたんですって。

もうその時は ほんまに
地獄に仏っちゅうような感じでね。

繁子の実の兄 伊藤雅夫の所属する
部隊がいたのです。 へ~。

雅夫の手引きで
一軒の空き家に身を寄せた繁子。

その後の生活も 手記に残しています。

そんなある日…。

脳裏に浮かんだのは

「日本人らしく」という 光宏の言葉でした。

ソ連兵は立ち去り 難を逃れたのです。
へ~。

昭和21年8月 繁子たちは

何とか ふるさとの奈良県五條市に
たどりつきます。

一方 佳木斯で別れた光宏は
どのような運命をたどったのか。

同じ部隊にいた人が ソ連軍侵攻後の
経緯を書き残していました。

「8月23日 ハルビンの外れ
成高子で ソ連軍の命により

武装解除」。

そして 11月3日。

光宏たちは シベリアにある
テルマ地区の収容所に

移送されていました。

これは 現在のテルマの衛星写真。

光宏がいたのは 町の西側を走る
シベリア鉄道沿いです。

国の資料にある 三角の印が収容所。

かつて 線路沿いを中心に
100以上あったといいます。

取材の結果 光宏と行動を共にした
原田栄治の手記が見つかりました。

マイナス40度にも達するシベリアの冬。

光宏たちは
森林の伐採を課せられたといいます。

士族の末えいとして厳しく育てられ
なみなみならぬ精神力があった光宏。

それでも 過酷な日々を耐え抜くことは
できませんでした。

山脇さんという
技師の長の方がいるんですけども

この方が記載した
こちらのページを見ますと

岡田さんの名前が ここにありまして

21年の1月1日
6時10分

テルマ収容所にて
亡くなったと

まあ
病死ということで
書かれています。

これは テルマを走る
シベリア鉄道沿いの写真です。

当時25歳だった光宏の なきがらは

この森に埋葬されたと伝わっています。

いかがでしたでしょうか。
え~ そうですね

母方の おじいちゃんのことは
もう子どもの時

まあ家にある 本当に写真だけでしか
知らないんですよね。

おじいちゃんが こういう時代に
こういう人生を歩んだっていう

その詳細は知らなかったのでね。
はい。

すごい人生というか。
そうですねぇ。

光宏さんも 25歳でしょ。
はい。

やっぱ 無念だったと思いますよね。
ですよね もう…。

生まれたばっかりのね 娘がいて。
そうですねぇ。

愛する妻がいて もう最後 会えずに。

会えずにというか もう別れて。
そうですね。

毎日 もう不思議なほどに
面倒を見てたっていう その…。

いや ほんとに…。
いかがですかね。

いや もうそこには愛しかないですよね。
いやぁ そうですね。

昭和21年 ふるさとに戻った繁子に
夫の訃報が届きます。

3日間 泣き通しましたが
間もなく覚悟を決めました。

地元の電報電話局の職員となり
仕事と子育てに奔走。

当時の生活を
八詠子が作文に書いています。

夫への思いと壮絶な体験が
繁子を強くしていたのです。

どうも。
あ どうも。

そんな繁子の背中を見て育った八詠子は

元気で活発な少女でした。

ほうやねぇ。

実は 八詠子の両親は
共に足が速いと評判を取ったほど。

特に父 光宏は
運動神経が抜群だったといいます。

昭和33年 中学生になった八詠子は
水泳部に入ります。

本格的に練習を始めて僅か半年で
近畿地区大会の背泳ぎの部で優勝。

3年生の夏には
中学生の
日本新記録を

たたき出したのです。
え~!? お母さん。

すごいよ
お母さん。

結局 オリンピック出場は
かないませんでしたが

その運動神経は 77歳の今でも健在です。
バタフライ!? すげえ! すごい!

これだな 野村さん。
はい。

昭和43年 大学を卒業した八詠子は
天理高校の体育教師になります。

2歳年上の先輩教師が
柔道部の師範 野村基次でした。

すごい2人 くっついた。

案外 柔道の人って優しいんですよ
怖い顔して。

そういう恋愛感情は
お父さんも ないやろうし

私も ないしっていう感じで
先輩の先生っていう感じでしたね。

昭和45年 2人は結婚。

4年後 長男 忠寿に続いて

次男の忠宏が誕生します。
きれいな顔してんな でも。

野村さん かわいい顔してますね。

少年時代の忠宏は 気が弱くて小柄。

運動も 得意ではありませんでした。

祖母 繁子のインタビュー記事が
残されています。

それでも忠宏は
祖父の道場で 柔道を始めます。

彦忠は 投げられてばかりの孫に

背負い投げを教えて励ましました。

どんな試合でも
カメラで撮影しながら 熱心に応援。

へ~ すごい残ってんだ。

ちっちゃ。

相手 でか!

たとえ負けても
日々の努力をねぎらったといいます。

柔道 楽しんでくれたらいい。

柔道 楽しんでくれたら
柔道 好きになってくれる。

好きになったら
おのずとね 努力するから

まず 楽しんで好きになってほしい。

その言葉どおり 私も この道場で
柔道が好きになった。

道場に通った出井俊宏さんは
彦忠の考え方を感じ取っていました。

平成2年 忠宏は 父 基次が部長を務める
天理高校柔道部に入ります。

彦忠の道場とは違い
勝つための技術と精神を養う 厳しい稽古。

苦しくて 嫌気がさすこともありました。

それでも根っこには
柔道への愛があったため

質の高い練習が
続けられたといいます。

高校時代の映像です。

≪そうそうそう!

一本!

祖父 彦忠の考えを体現するかのように
体の成長とともに結果を出し始めた忠宏。

高校3年で 県大会優勝。
全日本ジュニア選手権で 準優勝します。

そして 大学4年で
全日本選抜 60kg級を制し

オリンピック初出場。

背負い投げを武器に
快進撃が始まるのです。

(実況)天理大学の学生です。

「天理大学の学生です」って。

(実況)担ぎ上げて 背負い投げ!

(実況)そうだ 背負った!

(実況)今 チャンスですよ。
背負い投げにいった! 一本!

前人未到のオリンピック3連覇。

もう指もね 全部テーピングでね。

祖父 彦忠から始まり
学生 社会人までに受けた指導。

そして
本人の壮絶な努力のたまものでした。

しかし もう1つ大事な
要因があると

父 基次さんはいいます。

中学から始めた水泳で
オリンピック代表候補になった八詠子。

その運動センスは
父 岡田光宏譲りでした。

2人の祖父 彦忠と光宏は
名前の一字だけでなく

忠宏に 大きな種を残したのです。

いやぁ いかがでしたか。
いやぁ うれしいですね ほんとに。

ね。 でもやっぱ 高校に入って
どんどん自分の実力というか。

ただ私 高校入学時に
45kgしかなかったんです。
え!?

で あの父 監督でもあった父から

もう無理して柔道しなくていいぞって
言われるぐらい 弱かったし

ちっちゃかったんですね。
まだ 高校 入ったばっかりの時は。

はい。 ただやっぱり
おじいちゃんの道場でね

柔道が楽しかったし
柔道が好きになったし

やっぱ おやじに もうやめていいぞって
言われても やめたくなかったし。

そしてノーマークでした
お母さんの あの体力。

そうそう それですよ。
油断してました。 これだっていうぐらい。

まさか 本当に今?

バタフライで泳いでるのは
知らなかったです。

お父さんまでも このお母さんの精神力と
その運動能力みたいなものを

全部 受け継いでるっていう。

肉体だけじゃなくて やっぱ精神も含めて
すべてが はい。

それがあるから 今の自分があるんだ
っていう感謝ですよね。

オリンピック3連覇のあと
忠宏さんは ケガと闘いながら

40歳まで 現役を続けました。
う~わ これ 俺 見たな これ。

すごい精神力だな。
最後の試合は…。

豪快な一本負けでした。

欲を言えば やっぱりチャンピオンなって
もう一回 金メダル 今日 優勝して

メダルかけてもらってるところを
見てほしかったけど

まあ まあ まあ ここまで
おっさんになっても頑張ってきたんで

まあまあ ちょっと褒めて下さい。
(拍手)

息子の姿を見ながら 父 基次さんは

彦忠の生き方を 思っていました。

そうね。

忠宏の祖父 彦忠は
晩年まで柔道を教えながら 農業を続け

地域の人に 野菜を配ります。

生涯 親切を貫き
97歳で亡くなりました。

地元では 今も慕われています。

今回の取材で 母方の祖父 光宏に関する
新たな事実が分かりました。

平成9年以降 シベリアのテルマ地区を
厚生労働省の関係者が訪れていたのです。

現地の自治体や 復員者の情報から
埋葬された場所を探索。

光宏が眠っている場所も分かったのです。

北緯50度3分8秒。
東経132度10分42秒。

その付近の遺骨は収集され
日本に持ち帰られていました。

取材で分かったことを
八詠子さんと基次さんに伝えると上京。

♬~

やって来たのは 皇居にほど近い…

正面奥に見える茶色い壁の地下に

テルマで収容された遺骨が
納められています。

♬~

母がいる時にね 分かりましたら…。

こんなうれしいことは ないです。

♬~

生後ひとつきで生き別れて 77年。

初めて実現した 墓参りです。

いや いかがでしょう。
ね。

いやぁ 何だろう。
いやぁ~。

いいとこに生まれたなって。
すごいですね。