英雄たちの選択「月影の男 ~天下人の弟 豊臣秀長~」[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

英雄たちの選択「月影の男 ~天下人の弟 豊臣秀長~」[字]

天下人秀吉の弟、豊臣秀長。万事に派手な兄と対照的な性格ながら、武将として政治家として卓越した能力を秘めていた。豊臣政権を支え続けた月のごとき生き様をみつめる。

詳細情報
番組内容
天下人秀吉の三歳下の弟、豊臣秀長。万事に派手な兄とは対照的で地味な性格ながら、この人がいたからこそ、秀吉の天下取りは成功したともいわれる。どんな人物だったのか。重要な合戦を制した武将としての働きや、領国経営で見せた先進的な政治力から単なる秀吉の補佐役以上の実力が見えてくる。兄弟が骨肉相食む戦国の世にあって、珍しく仲が良かったという豊臣兄弟。太陽と月のような二人が組むことで大きな力が生まれた。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,静岡大学名誉教授…小和田哲男,伊東潤,明治大学政治経済学部教授…飯田泰之

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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天正18年
豊臣秀吉は小田原の北条氏を攻めた。

天下統一の総仕上げとなった戦場。

そこに これまで苦楽を共にしてきた
一人の武将の姿がなかった。

秀吉の弟 豊臣秀長。

兄が壮大な
夢をかなえるのを見届けることなく

秀長は この世を去った。

長幼の序を守り
弟としての生き方に
徹したという秀長。

死の床についてもなお

我が命ある限り
兄者の天下統一に
尽くしたいと

口にしたと
伝えられている。

華々しい活躍が語り継がれてきた
兄 秀吉に比べ

秀長の実像は あまり知られていない。

豊臣秀長とは
いかなる人物であったのか。

お~ すごい すごい!

さまざまな角度から秀長の足跡をたどり

武将としての実力や
政治家としての能力を分析した。

秀長が
武将としての真価を問われた戦がある。

秀吉に代わって総大将を任された
四国攻めだ。

敵は 四国の覇者 長宗我部元親。

立ちはだかったのは
難攻不落を誇る阿波一宮城。

天下取りの行方を左右する戦。

極限状況の中で行った
その選択が 武将としての転機となった。

今回は 秀長の政治的な手腕にも着目した。

やがて 大和国の大名となった秀長。

戦乱の世を終わらせるための 刀狩

荘園制度の古い土地支配からの
脱却を図る 検地

秀長は この地で
新しい全国統治の仕組みを

生み出していった。

だが 秀長は 天下統一の道半ばで
兄より先に この世を去る。

その後 豊臣政権は
崩壊へと
進んでいくのであった。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

その時 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。

今回の主人公は こちらの人物です。

天下人 秀吉の弟なんですけれど

磯田さん この秀長には
どんな印象を持っていますか?

秀吉の存在が大きいから どうしても
印象は薄くなるんですけれど

秀吉の重要な局面にはですね
しばしば 秀長がいます。

で 秀吉だけでも天才すぎるのですが
2人そろって

1.5人分ぐらいの秀吉に
しちゃったんじゃないかなと

思っていてですね… それ以上かなあ。

秀吉にも いっぱい欠点はあるので

この秀長の存在って
大きかったと思いますよ。

今回
どんなところに注目しましょうか?

兄弟 戦国時代 仲悪い人も多いんですけど
割と仲いいですよね。

仲たがいをあんまりした形跡はないと。

秀吉が思いついて 秀長が忠実にこなす
役割分担みたいなものが

うまく できてたでしょうし。
ですから やっぱり

この兄弟関係を見ておかないと
豊臣政権っていうのは

分かんないだろうということですね。

さあ それでは
豊臣秀長は 秀吉の天下取りにおいて

どのような役割を
果たしてきたのか見ていきましょう。

天正10年6月2日

秀吉 秀長兄弟の運命の歯車が
急速に回り始めた。

織田信長が
明智光秀に討たれた本能寺の変。

信長の家臣として
出世を重ねていた羽柴秀吉。

この時 46歳。

中国地方で毛利氏と戦っていた秀吉は

信長が討たれたとの知らせを受け
急ぎ畿内へと引き返す。

中国大返しである。

この時
撤退する秀吉軍の殿を任されたのが

秀吉の弟 秀長だった。
秀長 この時 43歳。

最後尾で
敵の追撃を食い止める殿は

命を張って
大将を守る危険な任務である。

これまで 幾度となく
秀吉軍の殿を務めてきた秀長。

この時も 明智光秀のもとへと
攻め上がる秀吉の背後を守る

地味ながら
重要な役割を一手に引き受けた。

そして 迎えた 明智光秀との山崎の戦い。

秀長は 勝敗を分ける要の地
天王山に布陣。

この地の守りを固め
秀吉本隊の突撃を援護。

勝利に貢献した。

強気に攻める秀吉に対し

守りを固める役割を
多く担った秀長。

そんな兄弟は
生い立ちからして対照的だった。

天文6年
尾張国の農民の家に生まれた秀吉は

若くして家を出る。

行商人として放浪した後
武士を志し 信長に仕えるようになった。

一方 秀長は 天文9年
秀吉の3歳年下の弟として生まれた。

真面目で働き者の秀長は
長男の秀吉に代わり 農家を守っていた。

だが 秀長が 二十歳を過ぎた頃
突然 秀吉が弟のもとを訪れる。

自分の家来になってくれというのだ。

武士になるなど夢にも思わなかった
秀長は困り果てたが

兄の強引な誘いを断り切れなかった。

以来 行動を共にするようになった2人。

20年後 本能寺の変を迎えたのだった。

山崎の合戦で
主君の仇を討った秀吉と秀長。

ここから天下統一への
兄弟の挑戦が始まる。

秀吉は信長の後継者の座をかけて
柴田勝家と戦った。

勝家軍は北国街道を南下。

それを
琵琶湖の右岸で 秀吉軍が迎え撃った。

布陣から ひとつき後
両軍にらみ合う中でハプニングが発生。

信長の三男
織田信孝と
滝川一益が挙兵。

秀吉は戦場を離脱し
美濃へ向かわなければ
ならなくなったのだ。

あとを任されたのが秀長だった。

この時 秀吉から
秀長に送られた書状が残されている。

書状には こうある。

「私が戻ってくるまでは
攻め込んではならない」。

この時も秀長は
秀吉から

戦場の守りを
託されたのだ。

だが 敵の大将が
いなくなったのを知った勝家軍は

一斉に攻撃を開始。

窮地に立たされる秀長。

それでも
秀吉の指示に従い 守りに徹し続けた。

そこへ
秀吉本隊が 美濃から引き返してきた。

形勢は一気に逆転し
戦いは秀吉軍が勝利。

(勝ちどき)

兄弟の連携により 信長の後継者争いに
一歩抜き出たかに見えた。

だが ここで
2人に待ったをかける者が現れる。

徳川家康だ。

賤ヶ岳の戦いの翌年 家康は 信長の次男
織田信雄の求めに応じて挙兵。

この小牧長久手の戦いで
秀吉は家康に手痛い敗戦を被った。

各地の反秀吉勢力と関係を深めた家康。

最大のライバルとして
秀吉の天下取りに立ちはだかったのだ。

家康と敵対する上で
戦略拠点となった城がある。

大和国の宇陀松山城。

ここを難攻不落の城郭に
大改修したのが

秀長だった。

この城の東には 伊賀や伊勢国。

南には 紀伊国があった。

そこには 家康と
気脈を通じる勢力が
根を張っていた。

伊賀は 伊賀流忍術で知られる伊賀衆。

紀伊は 鉄砲の扱いにたけた
雑賀衆や根来衆といった

手ごわい
地侍集団の本拠地だった。

彼らは 小牧長久手の戦いでは
家康と連携して 秀吉軍を苦しめた。

もし 再び彼らが家康と結託し
攻め寄せる事態になれば

秀吉は 二方面から
攻撃を受けることになる。

その脅威を阻むには
宇陀松山城で

伊賀や紀伊の在地勢力を
抑え込むことが

なんとしても必要だった。

そのために 秀長は
この宇陀松山城の防御能力を

飛躍的に高めようとしたのだ。

城郭考古学者の千田嘉博さんと
城跡を訪ねた。

お~ すごい すごい!
いや~ これは見事ですね。

いや~…。

もう 見事な これ 横堀です。

横堀とは 敵の侵入を阻むため

輪のように掘られた堀のこと。

この城には
ジグザグに屈曲した横堀が築かれていた。

屈曲をさせておくことで…

…っていうですね
そういうことが よく分かります。

城の中心となる本丸には
更なる守りの工夫がされている。

いや~ 来ましたねえ。

そして 土手の上 当時は石垣ですけども

この石垣の上には ず~っとですね

多聞櫓が巡らされていたということが
分かっています。

この道を登っていくと…

まさに 側面のですね
この左側の石垣の上にあった…

そういう すごいとこであると。

これは 発掘調査の結果から復元された
宇陀松山城の当時の姿。

高い石垣と その上に築かれた
長い多聞櫓によって守られた

当時としては
最新の要塞であったことが分かる。

東海より東に領土が広がる 徳川家康。

西に広がる秀吉。

両者が ぶつかり合う地点を

秀長は 堅固な城で守り通すのに成功した。

秀長は 秀吉の陰の存在として
兄の天下取りを支え続けていたのである。

今回も
さまざまな分野の専門家の皆さんに

お越しいただいています。
よろしくお願いいたします。

さあ 今回の主人公 豊臣秀長ですけれど
小和田さん

どうして この秀吉は いつも秀長に
厳しい状況を任せるんでしょうか。

まあ やっぱり 部下というか
一番の頼りになる弟なんで

単なる部下よりも信頼していた
ということでしょうね やっぱりね。

彼に任せりゃ大丈夫だっていうね。

そういう思いが強かったんで
ほかの家臣には任せないで

秀長に大変なところを
任せるみたいな

そういう側面があったと
思います。

あと秀吉はね
かわいそうなとこもあるんですよ。

あれ 畿内で天下取りするためには
周りに敵を抱えるようになるんですね。

周りに包囲された状態で
戦わなきゃいけないから

誰かが一人 秀長ですよ
ストッパーになってて

秀吉は その戦線を離れて どこかで
ほかの人と戦い続けなきゃいけない。

っていうのは 非常によかったと思います。

大抵 戦国時代の兄弟って

仲悪いどころか
しばしば殺し合いになるじゃ
ないですか。

その一方で
農民の兄弟っていうのは

助け合って生きていかないと
生きてけないわけですよね。

そういったところで 兄弟の在り方
っていうのが違ったのかなと。

確かに…

いつ寝首 かかれるか分かんないんで
その前に殺しちゃおうっていうんで

信長も弟をやってますしね。

また逆にやらなかったので
例の上杉謙信なんかは

要するに…

兄弟のそれが ちっちゃい頃から
そういうふうに育ったのが

大きかったかもしれないですね。

まあ それと まあ まさに
頼朝と義経の関係と

対照的だと思うんですよね。

やはり 武士ではなくて 農民だった
ということも ありますけど…。

多分 二十歳まで
農民やってたってことは

武士としての教育
全然できてないですよね。

ですから
本当に家臣のような扱いを受けて

それに もちろん秀長も
甘んじてたっていうことで。

そういったところがですね
やはり兄弟の関係

よくしてたんではないかなと思います。

あと秀吉の場合って
早くから家出てますよね。

これ母親がよく見てたと思う…。

だから 追い出す 追い出すんだけど
そこで お前ら 出世したいんなら

欲が強いんなら 武者修行なり何なり
武家奉公でもやって

一旗揚げてくれっていうふうに
ちゃんと そっちへ やってる。

それで 常識的な秀長は 父親もいるし

お母さんと一緒に 家を守っていったと。

何か 性格の違いで やはり その先が
変わっていくところもあるんですね。

そうですね。 例えば 秀吉の場合ですと…

秀長の場合は 特にそれはない
っていうのもあって

そこは 秀吉としては使いやすい。

そして 秀長自身も もっともっと上へ上へ
っていうよりは…

なんて 話していると
何だか徳川家康の話をしてるような

気分になってしまうんですけれども…。

そういった着実性を
持った人だったのかなと。

さあ そんな豊臣秀長ですけれど

秀吉の天下取りを左右する重要な戦いで
総大将を務めることになります。

そこで迫られた 秀長の選択とは?

秀吉の天下取りを陰で支え続けた秀長。

46歳になった時 武将としての
真価が問われる機会が訪れた。

小牧長久手の戦い以降

秀吉は 徳川家康と手を組む
勢力への対応に 苦慮していた。

中でも
秀吉に強く反抗し続けていた人物がいる。

土佐の豪族から身を立て
一代で四国全土を制覇した戦国大名だ。

小牧長久手の戦いの際には

徳川家康の重臣 本多正信が
元親に

畿内への出兵を
依頼していたことが
記録に残っている。

その後 四国支配を
もくろむようになった秀吉には

服従しない姿勢を貫いていた。

業を煮やした秀吉は
ついに自らが総大将になって

四国攻めに出ることを決断。

準備に取りかかった。

しかし 直前になって
秀吉は体調を崩したため

急きょ 総大将は
秀長に任されることになった。

これまで 陰の存在に徹してきた秀長は
予期せず表舞台に立つこととなった。

徳島県北東の港町 土佐泊。

天正13年6月 秀長が率いる6万の軍が
ここに上陸した。

秀長は 長宗我部方の前線の城を
次々と攻略。

そして 行き着いたのが…

四国山地の入り口に位置する この城は

長宗我部の本拠である
土佐への侵入を防ぐ 防衛拠点だった。

ここを突破すれば 四国攻めは一気に

秀長側に形勢が傾くと考えられていた。

5, 000の長宗我部軍は
阿波一宮城に籠城。

秀長は 川を挟んだ辰ヶ山に本陣を置き
およそ5万の兵で 城を包囲した。

城攻めを進めていた秀長。

そこに 大坂から思わぬ知らせが届く。

病の癒えた秀吉が
四国に出陣してくるというのだ。

秀吉からの申し出は
秀長に大きな選択を迫った。

判断に迷う
その心の内に分け入ってみよう。

ここは 指示に従い
兄者の到着を待つべきだろう。

もし兄者が参戦すれば 士気も上がる。

賤ヶ岳の戦いの折も
兄者を待って勝利したではないか。

四国攻めは 天下統一にとって重要な戦だ。

やはり総大将は 兄者がふさわしかろう。

実は この時 秀長は 阿波一宮城に
連日 攻撃を仕掛けたものの

守りを突破できず
苦戦を強いられていた。

阿波一宮城は 古くから

四国きっての難攻不落の山城と
うたわれた 名城だった。

何層もの曲輪と
それを囲む堀。

山城の下から上まで
水も漏らさぬ防御の工夫が施されていた。

ちょうど この辺りが堀切。

城内でも…

向かって右手側に明神丸
で 左手に才蔵丸。

で それぞれの尾根を分断するような形で
堀切を設けています。

どうしても ここは
通らざるをえないエリアになります。

更に 山の斜面に築かれていたのが
竪堀である。

これは 攻め登ってくる
敵兵の横移動を制限し

真上から 敵を攻撃しやすくした
防御施設だ。

…ということが
城内歩くと よく分かります。

鉄壁の防御を誇る阿波一宮城。

ここを攻め落とすには
秀吉の着陣を待つべきだというのが

1つ目の選択である。

だが待て 今 兄者が 大坂を離れても
いいものであろうか。

その隙をついて
徳川勢が動き出すやもしれぬ。

やはり ここは 兄者の出陣を断り

大坂で 徳川に
にらみを利かしてもらうべきではないか。

この四国攻めは 総大将のわしが

兄者の力を借りず
やり遂げなければならぬ。

四国攻めを行っていた当時 秀吉は
別方面にも 手ごわい敵を抱えていた。

家康に くみしていた佐々成政が
北陸で敵対行動を起こしていたのだ。

佐々討伐のために
秀吉が発給した命令書が残されている。

記されているのは
前田利家や池田輝政など

名だたる武将への出兵要請である。

兵の総勢は 5万7, 300人。

北陸で 四国攻めと同等の
大きな戦が始まらんとしていたのだ。

もし ここで
秀吉が四国攻めに出陣すれば

佐々成政や その背後にいる家康に

自由に動き回る機会を
与えることになってしまう。

秀吉の出陣を待つべきか
それとも 出陣を断り

自らの力で四国攻めを決着させるか
秀長に選択の時が訪れた。

天下取りを左右する大事な四国攻めで
総大将を任された秀長でしたが

秀吉が自ら出陣するとの知らせが
届きます。

指示どおり 秀吉の出陣を待つか。

それとも 秀吉の出陣を断り
自らの力で四国攻めを決着させるのか。

皆さんが秀長の立場だったら
どちらを選択するでしょうか。

まずは 伊東さん どちらを選択しますか?

私は 「秀吉の出陣を断る」を選択します。

やはり秀長というのは
非常に責任感が強い男ですし

ここはどうしても 自分だけの力で

なんとか乗り切らなければいけない
というふうに考えると思うんですね。

秀吉が もし 四国に渡海してきて
長期戦の… その一宮城の

包囲陣に加わるとなるとですね…

秀吉をわざわざ四国に呼ぶことは
ないんではないのかなというふうに

僕はですね 考えます。
はい。 では 飯田さん どうでしょうか?

私は 一の秀吉の出陣を待つ方で。

で 理由はですね こういう
困った上司って えてして いるもんで

大事な仕事は 自分でやりたいんですよね。

特に やっぱり 秀吉って
ずっとハイテンションで

ず~っと 俺が俺がっていう性格なので
それを弟としても分かってるからこそ

どういう形になるにせよ 秀吉に
何かやらせてやらないと

ちょっと
収まらないんじゃないのかなという。

戦術的な意味ではなくて
どちらかというと

組織内の平穏を保つために
秀吉の出陣を待つ ですかね。

はい。 一ですね。
小和田さん いかがでしょうか?

私も 一の秀吉の出陣を待つ方ですね。

といいますのは
阿波一宮城っていうのは

すごいお城なんですよ。 私も
一度だけですけど 登ったことがあって。

いや これは
5, 000の兵がそこに入っていたら

5万… 10倍で攻めても
ちょっとや そっとでは

簡単には落とせないぞという
思いがあるので むしろ

秀吉様の出陣を待った方がいいのかな
という そんな思いがありますね。

…と もう一つは 秀吉がいるから
いろいろ今まで勝ってきたわけですから。

そういったことで秀吉の出陣を待って
自分も一緒になって

四国攻め
長宗我部攻めを完成させたいというね

そういう思いが
あったんじゃないかなと思いますね。

皆さんの意見 出そろいましたけれど
磯田さんは どちらを選択しますか?

僕はね 二!
秀吉の出陣を断ります!

なぜか?
秀吉 海を渡らせて 本土を空っぽにして

四国に入れちゃった場合の
リスクというのを考えなきゃいけなくて。

とりわけ怖いのが 東の家康ですよね。

それで 小牧長久手の戦いで
結構 家康 大勝利しちゃってて

元気になってるんですよ。
それで 家康は

もう何回も
あんなこと できるわけないから

秀吉と外交交渉をしようという
気持ちなんですよ。

ところがね 一の家老の
酒井忠次はね

今 やっとかなきゃ
無理ですよって

さんざん言ってる
最中なんですよ。

酒井さんが おい 秀吉は
今 留守ですから

四国へ行ってて
瀬戸大橋 今 ありません。

そんなことを言うわけはない。
今のうちです

みたいなことになっちゃうとですね

恐らく
長浜辺りに殺到してくると
思うんですよね。

あるいは もしくは
伊勢の北部に入ってきて

それ考えると 秀長は
5万を超える軍勢で押してますから

僕は兵力は足りていると見るんですよ。

だから 秀長さん ごめんなさいね
かなりな素人とか言っちゃって。

ちょっと
理屈っぽくなって すみませんけれど。

そもそも
なぜ 秀吉は秀長に総大将を任せたのか。

これは伊東さん どのように考えますか?
まあ ここはですね やはり

これから豊臣政権…
豊臣家の将来を見据えた時にですね

秀長に かなり功を
とらせておかなきゃならなかった。

この時代の武将っていうのは
全て実績主義ですから

あくまで実績がない人のところには
誰もついていかないんですよ。

そのために ここ四国は
秀長が抑えたんだということで

功をとらせておく。
このあと非常に政治的にですね

秀長の地位が大きくなって
自分の代わりが務まるという

そういう読みが
あったんではないでしょうかね。

やっぱり 軍事集団なんで
戦争で勝たないことには

どうも… やっぱり あいつは
信用できないみたいな。

それを存分に利用した2つの家が
徳川と真田ですね。

徳川っていうのは
もう野戦でね 長久手の戦いとかで

もう さんざんにやってますから。
真田っていうのも

徳川軍を
何回も引き付けては やっつけていると。

だから 強さに対する信用度が
メチャクチャ強いわけですよ。

だから 勝たなきゃ信用が出ないという。

なるほど。 打ってるとか
ちゃんと三振取ってるとか

そこが辛いとこですよ
やっぱり 戦国武将っていうのは。

秀吉が四国攻めに参戦するとの
知らせを受けた秀長は

思案の末 兄に書状を送った。

その内容が 当時の記録に残されている。

秀長は秀吉の
出陣を断り

自ら四国攻めを
やり遂げることを
選択した。

これまで
戦場では 兄から命じられた役割を

忠実にこなしてきた秀長が

自らの考えで行動することを決断した
瞬間であった。

鉄壁の阿波一宮城を
いかに攻略すべきか。

秀長は 一つの策を思いついた。

こういうような形で 水を確保して

貯水池として利用したと
考えられています。

この貯水池を干上がらせるため

秀長は 城の背後から
兵を侵入させ 水路を破壊した。

水の手を奪われたことで
城の敵兵たちは
慌てふためいたという。

このタイミングで
秀長は 長宗我部元親に和議を提案した。

秀長は どちらかが
滅ぶまで戦うよりも

和議によって
収める道を探ったのだ。

阿波一宮城が落城すれば
本領 土佐への侵攻は

避けられないと考えた元親は
提案を受け入れ降伏。

阿波 讃岐 伊予の三国は
秀吉方に接収されたが

秀長の計らいで
土佐は安堵された。

一方 四国に来なかった秀吉は
北陸を攻め 佐々成政を降伏させた。

各地の味方を相次いで失った徳川家康。

ここで秀吉は
思い切った懐柔策に打って出ようとする。

妹の朝日姫を家康に嫁がせ

母の大政所も 家康のもとに
送ろうとしたのだ。

家族を事実上の
人質として差し出そうという兄に

秀長は猛反対。 考え直すよう
強く意見したといわれる。

このころを機に 秀長は 秀吉から
言われるがままに動くだけでなく

はっきり反対意見も言う存在に
変わっていった。

天正13年 秀長は
大和 紀伊 和泉3か国の
大名となった。

秀長が領国経営の拠点としたのが
大和郡山城である。

近年の発掘調査によって
この城について

新たな事実が明らかになった。

いや~ きれいですね。

今ですね
大和郡山城の天守台の所まで

やって来ました。
立派な天守台でありますけれども

これは秀長の時代に
もともと つくられたものというふうに

考えられます。 ご覧いただきますと
奥に 一段高いところがあって

あの上にですね 発掘の成果によって

天守が実際に立っていたということが
今 分かっています。

2014年に行われた発掘調査で
礎石が発見され

大和郡山城に天守があったことが判明。

更に 大坂城と同種の
金箔瓦が出土したことから

豪華絢爛な天守であったことも
明らかとなった。

秀長が
きらびやかな天守を築いたことには

ある ねらいがあったと千田さんは言う。

いや~
天守台の上 上がってまいりました。

もう… 大和の歴史的な景色一望です。

まずですね 一番北の方に
朱色の塔が見えてるんですけど

あれが薬師寺ですよね。

そして ぐるっと こう見ていきますと
東大寺の大仏殿が見えています。

あれほど
きれいに くっきり見えるということは…

大和国は もともと
寺院や神社の力が強い地域だった。

寺社勢力は 広大な荘園領地から成る
経済基盤を持つだけでなく

独自に兵を組織し 武力も備えていた。

武士には なびかないやっかいな相手に
天守を見せることで

秀長は領主としての権威を
示そうとしたと
千田さんは考えている。

いかにですね…

ということで 意図して豪華にしたんだ
というふうに考えています。

秀長は 寺社勢力と渡り合うため
ほかにも知恵を絞っていた。

興福寺の僧が記した多聞院日記には
秀長の行った政策が細かく記されている。

秀長は 強大な兵力を備えていた
多武峰寺をはじめとする寺社から

武具や防具を全て没収し
武装解除させたのだ。

これは秀吉が
全国で刀狩を発令する3年も前のこと。

秀長は 戦乱の世を終わらせる方策を
いち早く考え始めていたのである。

秀長が行った政策について
こうも記されている。

秀長は所領の面積や
米の収穫量を
所有者に申告させる

差出と呼ばれる
検地を行った。

申告内容は
細かく確認され

寺の土地は
ことごとく
押し取られたという

ケースも記録される。

実際
興福寺は 2度にわたる検地により

領地を5分の1にまで減らされたという。

秀吉は大和国の検地を
更に改良した太閤検地を

全国の大名に実施させ
長く続いてきた

荘園制に基づく
土地所有の在り方を
一新させた。

秀長は
後に豊臣政権の屋台骨となる政策を

先駆けとなって編み出していたのである。

秀長は 秀吉の出陣を断り
自らが総大将として

四国攻めを成功に導きました。
そうですね。

ただ やはり
これで秀吉が出馬していたら

やはり 長宗我部を滅ぼさないことには
ちょっと

収まりがつかなかったんじゃないかと
思うんですよね。

で そうしてしまうとですね
この長宗我部は

絶対に滅ぼしてはいけないんです。
なぜかというと

土佐って ものすごく治めにくい土地です。

土着意識が強いですし そして
やはりですね 交通の便が悪いんですよ。

仮に長宗我部を滅ぼして
土佐を直接統治とか または

譜代の家臣を置かなければならない
っていったら とんでもないロスになる。

治めにくいんだから
そこを治めたがってる長宗我部と

業務提携の道っていうのを
残す選択ができたのは

秀長だからだと思うんですよね。

四国攻めの後 秀長は
大和国を統治することになりますけれど

小和田さん。 この秀長が
秀吉から任された大和国というのは

そもそも どういう場所なんでしょうか。
大和は大変な国なんですよ。

というのは
室町幕府も守護が置けないぐらいで。

要するに 東大寺だとか
興福寺だとか春日大社だとか

そういう寺社勢力が もう強くて。

あえて そこに
弟 秀長を入れることによって

いわゆる武士の国につくり変えていく。

大和郡山城を造ったり
そういう武士に対する

領民の信頼を勝ち取る上では
非常に大きかったと思いますね。

これも
兄弟で違うなあと思うんですけれど

秀吉っていうのは 遊牧民のように
外へ向かってね

領地を広げていって あれすることに
血道を上げるんですけど

ここが 秀長は農民的で
今 手に入れた そこを掘り下げて

深く支配するという
支配の内容を深めるっていう

そういう発想なんですよ。
耕してっていう感じですね。

このあと 秀吉が 実際
全国的に展開する有名な刀狩 検地。

そういったものを
試行錯誤的にやったっていうところが

お兄さん 俺が
先にやってみるから うまくやったら

これを全国的に展開しようよっていう。

秀吉 秀長兄弟がやったことを 結構
そのあと 家康がまねしてるんですよね。

武家諸法度を制定したりして
もう 戦いをやめさせるみたいなね。

その原点と言うか
まあ そのルーツみたいなのが

このころあったのかなあという気は
しますね。

だから 領内から
武装解除をやるとかいうことになると

ものすごい熱意を持っているんですよ
秀長は。

で これが ひょっとすると
武器を持ったりしない近世日本という

平和な世の中っていうことに
すごい熱い気持ちを

陰で持ってたかなあとかいうような
気もしなくはない。

秀長って もう江戸とは言わないね。
近世ね。

近世社会のショールームをね 僕
大和盆地の国中地方に

見せたと思うんです。
ものすごいお城がバ~ンと建っててね

で きらびやかで それで直接入ってきて
刀狩をやったり 武装解除してきたり。

圧倒的な武力を集中した武家対

年貢を納める農民という関係に
分けていくっていうものを

恐らく まだ みんな見たことがない
それは社会の姿で

大和国でプレ公開っていうのかな。

ショールーム化したっていう
点じゃないかと思うんですよね。

伊東さんはどう思いますか。
この秀長の…。

いや 本当にね
そういった意味で言うと

大和国の統治を
うまくやったということは

非常に秀長の長所が生かせた。
ただ このころから

多少なりとも秀長にもですね
影の部分というか

ちょっと傲慢な部分が出てきて。
ちょっと問題が出てくるんですよね。

いろいろ 例えば 兵糧をですね
一緒にいる武将たちに

高く売ったりとか
それで恨まれたりとかですね

こういった影の部分も出てきている
ということは言えると思いますね。

もうけたくなったんですかね。
もうけたくなったんです 多分ね。

いや 僕はね お兄ちゃんがね
これから朝鮮まで攻め込むとか

言いだすじゃないですか。
大変な物入りになること 分かってて

これに耐えるためには 今 仲間から
高値で 物を売りつけてでも

俺 金 持っとかなきゃ駄目だって 多分
恐らく思ったに違いないですね。

この蓄える性質… 農民 よく持っている
蓄える性質っていう。

天正15年 九州攻めでは
秀吉が肥後方面軍の総大将

秀長は
日向方面軍の総大将となり
2方面から島津氏を攻略。

九州平定により 東海より西は
ほぼ秀吉の支配するところとなり

天下統一は目前となった。

秀長は この年
48歳にして従二位大納言に叙された。

豊臣政権内では
秀吉に次いで高い官位である。

このころになると
秀長は 戦場よりも政治の場で

重要な役割を担うようになっていた。

秀吉に謁見するため
上洛する各地の大名たち。

血の気の多い戦国武将たちをもてなすのも
秀長の仕事になった。

秀長の居城 大和郡山城に招かれた
毛利輝元の言葉が残されている。

九州の有力大名であった大友宗麟は

秀長から言われた言葉を書き残している。

大友宗麟は
豊臣ファミリーを こう評している。

今や権力者となった秀吉に
物が言える数少ない存在となった秀長。

最も強く反対したのが
朝鮮出兵の構想についてだった。

決して実行すべきではないと
歯止めをかけ続けたという。

天正18年の北条攻め。

秀吉の天下取りも最終段階になった
この戦に秀長の姿はなかった。

病を患った秀長は 52歳でこの世を去る。

秀長の葬儀には
20万もの領民が集まり

野山を埋め尽くしたと
記録されている。

秀長に領地を減らされた
興福寺の僧でさえ こう記す。

「これから
この国はどうなるのか
心細いかぎりである」。

その心配は
程なくして現実のものとなる。

秀長の死のひとつき後
政権を内から支えていた 千 利休が

秀吉に命じられ切腹。

更に翌年
秀長が かたくなに反対していた

朝鮮出兵が断行された。

秀長なき秀吉政権は
崩壊へと進んでいったのである。

秀吉を支え続けてきた秀長は
52歳にして その生涯を終えました。

小和田さん この秀長の死は 豊臣政権に
どんな影響を与えたと考えますか?

そうですね。
やっぱり もう秀吉の暴走を止めて

それなりに いい豊臣政権という形で
走っていたわけですけども

今 VTRにありましたように
やっぱ 千 利休事件 朝鮮出兵

更には 養子に迎え 関白まで譲った
おいの秀次 これを切腹させるまで。

だから そういった意味では それまで
スイスイスイと うまくいっていたのが

全部駄目になるということは

やっぱり いかに
それだけ 秀長のナビゲーター役

ブレーキ役としての
役割が大きかったかということを

もう あからさまに示してますね。
そうですよね。

「権力者の孤独」って言いますけれども

権力者って 上り詰めれば
上り詰めるほど

敵か部下しか いないんですよね。

まあ 要は 友達みたいな存在って

どんどん いなくなってくっていう時に

自身にとって 決してライバルにならない
そして 弟。

この存在があると 秀吉自身も
時々 フッと力を抜けたんじゃないかと。

で 力 抜けない

常に トップギアが入っている
天才になってしまうと

もう どこ 飛んでくか
分からないんですよね。

磯田さんは この秀長の死について…。

これは 生きていれば
ひょっとすると…

まず アラームとブレーキを失っちゃった
乗り物になったわけですよ 豊臣政権が。

そうすると 対外戦争と あとは内紛が
やって来るわけですよ。

人を苦しめ 死人が増えていく
っていう事態になって

そこに このまま 一大名で終わるのかな
と思ってた家康が

いけるぞ これは
って思い始めるわけですよ。

「どうする家康」なんです そこがね。
ええ そうですね。

先ほどもね おっしゃっていましたけど…

特に 秀吉は
大老の筆頭に 家康を据えますから

みんなが
そこでガス抜きを行っていくうちに

親しくなっていっちゃう。
特に大きかったのが藤堂高虎ですね。

藤堂高虎って 秀長に…
本当に尊敬して

一番の子分みたいな
立場だったんですけど

それが秀長 いなくなっちゃうと
家康に くっついちゃうわけですよね。

そうすると ほかの大名たちも
一気に雪崩のようにですね

家康の方に くっついていっちゃう
という

流れが 出来ちゃったんではないかなと。
そうだ。 本当に そうだ。

官位も同じ大納言みたいな。

もし じゃあ 秀長が
秀吉より長く生きていたなら

どうなっていたと思うか?

これは 私は やっぱり
豊臣政権 もう少し続いたと思います。

秀次が殺されてなければ
豊臣政権って形では

一度 秀次をいれて
その次 秀頼というふうに

そのまま関白としての政権は
続いた可能性ありますので。

歴史に「もしも」は
あまり言えないんだけれども

ここで 秀長が亡くなってなければ
もう少し豊臣政権は続いて

先ほど 磯田さん 言われたように

家康が出てくる幕はなかった
可能性はあります。

で そのうち…

もう 僕 江戸の大名で いいよと。
絶対なったと思うんですよ。

じゃあ 江戸幕府は遅れる

もしくは ない可能性もってことですか?
ない ない。 ない可能性の方が高い。

ない可能性の方が高い。
結構 大きいですね! ハハハ…。

東京が首都でもない。
ああ! あらまあ。 フフフ…。

すごいですね。 何か こう

あまり主人公に なりにくい人物かな
って思うんですけれど…。

まあ 表と裏でもあるし。

年表でね 1行で 何々 何々 やりました
っていうことだと

どうしても
秀吉の名前しか出ないわけですよ。

もう秀吉一人が 全部やったようなに
なっちゃうんだけども

歴史の中に 意外と
バイプレーヤーって言いますかね

脇役が 本当は
いろんなことを やってたっていうのは

もっともっと いっぱいあったと思います。

最後に磯田さん 今回 豊臣秀長を主人公に
話をしてきましたけれど

どんなことを感じましたか。
いや これ 兄弟に限らず

性質の違う人が うまくやってることの
強さっていうのは 思いましたよね。

やっぱり 違うところで補い合って

うまいこと やってるんで
いってるわけでね。

それで
みんなが おんなじとこ目指して

相手側を否定しながら やり始めると

これは もう争いなんで
兄弟げんかなんで。

兄弟げんかの悪いのは
やっぱり 一緒だと思ってるから

けんかが始まるので。
やっぱり 違うものだと思って

違うから 俺たちは うまくいくんだ
っていう考えを持つことが

兄弟に限らず
やっぱり 大事なのかなと思いましたね。

だから 相手の長所を認め合ってる
っていうことが

非常に 何かの力を発揮するというか
平和にもなる

ということなのかなと思ったんですね。

皆さん 今日は ありがとうございました。
ありがとうございました。