英雄たちの選択 鎌倉殿暗殺!源実朝 禁断の政治構想[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

英雄たちの選択 鎌倉殿暗殺!源実朝 禁断の政治構想[字]

右大臣就任の式典で殺された鎌倉三代将軍源実朝。北条氏に実権を奪われた歌人将軍といわれてきたが近年の研究から、したたかな戦略で平和な世を築こうとした姿が明らかに。

詳細情報
番組内容
血なまぐさい権力闘争が繰り広げられる鎌倉幕府で三代目鎌倉殿となった源実朝。北条氏に実権を奪われ和歌に逃避した柔弱な人物とされてきたが、近年の研究で全く違う姿が明らかになってきた。和歌で都の後鳥羽上皇との信頼関係を築き、朝廷の権威で御家人たちを統制、幕府の武力が朝廷を支えることで平和な世を築こうとしたのだ。その究極の選択となったのが後継者選びだった。頼朝の血筋にこだわるか、朝廷との融合を進めるか。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】創価大学文学部教授(日本史)…坂井孝一,脳科学者・医学博士…中野信子,【語り】松重豊

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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暗い山道を抜けると
一気に明るい海が開けていた。

その感動を
伸びやかに歌い上げた和歌。

作者は 鎌倉幕府 三代将軍
源 実朝である。

実朝の生前の姿を伝えるという
木像がある。

朝廷貴族の正装を
身に着けているが

その表情は
憂いをたたえているようにも見える。

有力御家人の北条氏に実権を奪われ

歌を詠むことで
現実逃避していた将軍。

そんな姿を
伝えているのだろうか?

しかし 近年の研究によって
これまでの実朝像は覆されつつある。

政治家としての手腕が
再評価されているのだ。

鎌倉殿の座にあった15年余りの間に
実朝は和歌を通じて

朝廷の最高権力者
後鳥羽上皇との

信頼関係を
築き上げた。

その権威を後ろ盾にして

血まみれの抗争を繰り返す
御家人たちを抑え

争いのない世を目指したという。

だが 右大臣に任命され

新たな政治体制を
推し進めようとしたやさき…

実朝は 暗殺されてしまう。

一体 なぜ…。

気鋭の論客たちが真相に迫る。

これは やっぱり 起こした…

鎌倉殿 源 実朝 暗殺。

それは いかに歴史を動かしたのか?

最新研究をもとに検証する!

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

その時 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。

今回の主人公は
鎌倉幕府 三代将軍 源 実朝です。

歴史好きの間では 将軍というより
歌人というイメージが強いんですよね

磯田さん。
そうですね。 私 子どもの頃は

和歌ばっかり詠んでる公家風の人で
軟弱みたいな。

その上 北条氏に操られてて

操り人形みたいで 暗殺されても当然
みたいな 大体 そういうイメージだった。

ただ 最近 研究が進んで

そんな ただ操られてるような
弱い将軍であろうかということも

当時の常識を考えた研究を
踏まえるとですね

また違う実朝暗殺の事件の背景や

事件も見えてくるというような感じに
なってきたわけですね。

だから 今日は
ちょっと新しい実朝暗殺像というのが

見えてくるはずですね。
う~ん なるほど。

それでは 若き将軍 実朝が
鎌倉殿として独り立ちしていくまでを

見ていきましょう。

鎌倉幕府 三代将軍 源 実朝。

その治世は 初めから
血にまみれたものだった。

建仁3年 二代目鎌倉殿である

兄 頼家が病に倒れ 危篤に陥った。

後継者に指名されたのは 頼家の子 一幡。

母親は
頼家の後見役を務める

有力御家人
比企能員の娘である。

比企氏の思うがままになる
時代が来ようとしていた。

この時 動いたのが

実朝の祖父で
後見役を務める北条時政だった。

時政は 比企能員を呼び出して
だまし討ちにする。

更に 御家人たちを動かして
比企の館を攻め 一族を皆殺しにする。

脱出した一幡も捜し出して殺させた。

いわゆる 比企の乱である。

クーデターを成功させた時政は
自らの屋敷で実朝に鎌倉殿を継承させた。

この時 実朝は 12歳。

政治の実権は時政が掌握し

御家人たちへの命令書には
時政一人が署名した。

その後 時政は 病から奇跡的に回復した…

翌年には 刺客を送って殺させている。

その殺害の手口が

首をひもで絞めるものだったことは
都にまで伝わった。

頼家殺害の翌年
時政は更なる暴挙を企てる。

鎌倉幕府が編纂した歴史書「吾妻鏡」は
こう記す。

実の孫を将軍から引きずり下ろし

妻 牧の方が寵愛する娘婿を
その座に就けようと たくらんだのだ。

牧氏事件である。

この企てに断固として反対したのが

実朝の母 政子と叔父の義時だった。

政子の命を受けた御家人たちは
時政の屋敷を襲撃し 実朝の身柄を確保。

義時の屋敷へ移した。

実朝を奪われ
御家人たちの支持も失った…

ようやく平穏を取り戻した鎌倉。

とはいえ 実朝は いまだ14歳。

政治の実権は 政子と義時の手中にあった。

そんな中で 実朝が始めたことがある。

和歌の修業だ。

「吾妻鏡」には この年 実朝が

十二首の和歌を詠んだことが
記録されている。

和歌を始めたのは
ある人物との関係からだった。

その人物とは 朝廷の最高権力者
後鳥羽上皇である。

上皇は宮廷文化に秀で…

実朝が元服する際には
名付け親となり

自分のいとこにあたる女性を

実朝の妻 御台所として
鎌倉に下向させていた。

御台所から 都での上皇を中心とした
和歌の盛り上がりを聞いた実朝は…

鎌倉幕府草創期を研究する
坂井孝一さんは

そこに 実朝の政治家としての成長を
読み取っている。

そのトップの人間が
朝廷とやり取りをしなければ

成り立たない世の中なので。

そのためには…

…するというのは
幕府を率いていく公の存在

そして 朝廷と渡り合う公の存在
それが将軍なんだと。

それを自覚しつつ
成長し始めていたというふうに考えます。

承元3年。

18歳となり 朝廷から
従三位の位を与えられた実朝は

自らが政治を行う将軍家政所を開設。

新たな政策を打ち出してゆく。

各地の土地の面積や
所有関係を記した

大田文を作成。

土地から上がる
収益を把握し

御家人支配の
基礎を固める。

東海道に
新たに宿場を設け

都と鎌倉をつなぐ
交通の大動脈の

安全と利便性を
高める。

都で 内裏や
上皇御所の警護などに
当たる大番役を

御家人たちが
確実に務めるよう
罰則を設ける。

実朝は
朝廷と幕府が力を合わせて国を治める

新たな統治の形を目指したのである。

やがて 実朝は
最大の実力者 北条義時にも

自分の意見を
はっきり主張するようになってゆく。

「吾妻鏡」は 義時と実朝の
ある日のやり取りを記録している。

「私の年来の家来のうち
功労のあった者を

御家人に準じる身分として扱うよう

鎌倉殿から
命じてもらえないでしょうか?」。

特別扱いを要求する義時に
実朝は こう応じた。

「何度言われても
今後も許すことはない」。

実朝は 鎌倉殿として
着実に独り立ちしつつあった。

実朝が鎌倉殿として
自ら政治をとり始めるまでを

ご覧いただきました。

坂井さん
将軍になる時も なってからも

この実朝の周りでは
抗争が絶えなかったんですね。

実朝が将軍になった時
っていうのは

まだ彼は 数え年で
12歳という幼さです。

まあ もちろん いろいろ
血が流れましたから

やはり それなりに
ショックを受ける
というところは

十分あったと思います。

ですから…

それが重要であるということは
権力闘争で血が流れたことを見て

繊細な年頃の男の子であった実朝も

やはり 感じていたんじゃないか
というふうに思います。

頼りがいのあるはずの
セキュアベースっていう言い方しますけれども

心の安全基地って日本語で言う
学術用語があるんですけども

心の安全基地であるべきはずの人が

自分の地位を
脅かすようなことを
したというのが

大きかったんじゃ
ないですかね。

そうすると…

自分も
まだ自覚的に

戦略的に
振る舞えるほどの
状態ではない

その発達段階にないということを
自覚してたでしょうから

どうしようかっていう

存在をゆるがせにされるようなことが
あったと思います。

そんな多感な時期に
実朝は 和歌を通じて

後鳥羽上皇に
接近しようとしていますが

磯田さん これについては
どのように思いますか?

これね
平安 鎌倉の政治っていうのは

ちょっと 徳川の政治とか
秀吉や信長の政治と違うところがある。

歌う政治の面がある。

…ぐらいの信仰が
当時の人たち 中世の人ですから 何せ。

それがあるっていうことを見ながら
歴史は見ないといけない。

あの 実朝は 「金槐和歌集」という
自作をまとめた歌集なんですね。

その中には…

…という歌で。

これ 現代人が聞いても
ちょっと感動しますよね。

これ 「親の子を思ふ」って

どの支配者だろうが
普通の庶民だろうが

全部に共通するものじゃないですか。

その心情までも取り込んで
歌にしている。

それが 非常に為政者としても優れた
資質を持っていたっていうことが

この和歌によって分かるんじゃないかと
そういうふうに私は考えています。

すごく 反語のようにも思えますよね。

「けものすらだに」もそうなのに
自分の場合はどうか…

…みたいなことを どこかに
匂わせてるような歌にも思えます。

非常に切ないといえば切ないですが。

でも もし どうも 後鳥羽上皇という人は
歌が得意なようだということを知って

和歌の修業をしたんだとしたら…

本当であれば 例えば
偉大な父親である頼朝が

後ろ盾になるはずなんですよ。
ところが その…

それは 北条氏や
そのほかの東国武士たちに対しても

有無を言わせぬ権力と地位を持っている
そういう権威を持っている人でないと

駄目なんですね。
あ~。

ですから 京都の
朝廷の最高権力者である後鳥羽上皇

これを後ろ盾にするということは

非常に強力な
自分の存在を支えてくれる

そういう強力なものに
なってくるんですね。

まあ ある種…

やっぱり 後鳥羽上皇としても 実朝が
和歌で接近してきたっていうことだと

共通のコミュニケーションツールを
持っているということで

恐らく 京都としては
安心感が非常にあると。

安心感。 それほど
歌詠みの信用力っていうのは強いですね。

そんなになんですね。
ええ。

(雷鳴)

実朝が将軍となって10年
鎌倉に激震が走った。

北条義時に不満を持つ
御家人たちが

前将軍 頼家の遺児を擁立して

義時を討とうとする
謀反の計画が発覚したのだ。

謀反をたくらんだ者の中には

北条氏と並ぶ有力御家人
和田義盛の一族が名を連ねていた。

義盛は 軍事を取りしきる侍所の長官。

頼朝と同年代で武勇に優れ
実朝の信頼も厚かった。

義盛は 実朝に一族の赦免を願い出る。

だが
謀反の首謀者である甥の胤長の赦免は

標的とされた義時が断固拒否。

そればかりか 胤長を縄で縛り上げ

嘆願に来た
和田一族の目の前を引き回し

義盛を辱めた。

実朝は なんとか両者の間をとりなそうと
義盛に使者を送った。

しかし もはや手遅れだった。

「鎌倉殿には恨みはございませんが

義時の傍若無人に
一族の若者は暴発しようとしています。

もはや抑えることはできません」。

義盛は兵を挙げ
義時の屋敷と将軍御所へ攻めかかった。

和田合戦の勃発である。

この合戦について研究する山本みなみさん
次のように分析する。

これは
和田合戦の様子を描いた屏風である。

和田軍の精鋭が 将軍御所の南の門を
打ち破る様子が描かれている。

義盛の作戦は次のようなものだった。

まず 御所の
東西南北の門を
押さえた上で

主力部隊が
南門から攻め込み

実朝の身柄を押さえる。

将軍を 和田方で
確保することで
自分たちの正当性を

ほかの御家人たちに
アピールする
計画だった。

山本さんによれば この作戦で 義盛が
最も重視していた場所があったという。

…ということで 頼んでいたわけですね。

義盛は いとこでもある
有力御家人 三浦義村に

起請文まで出させて
北門の封鎖を任せた。

ところが… ここに最大の誤算があった。

なんと その義村が
北条義時と内通していたのだ。

義村は
義時に和田方の作戦を通報した上で

実朝を脱出させ
身柄を北条方に渡してしまう。

義盛のシナリオは 完全に崩れた。

しかし
巻き返しの可能性は まだ残されていた。

戦いが2日目に入ると

近郊各地の御家人の軍勢が
続々と鎌倉に集まってきたのだ。

彼らが どちらにつくかで
戦況は大きく変わる。

勝敗を決したのは
御所の真北にある頼朝の墓所

法華堂に避難していた実朝の行動だった。

実朝は 鎌倉に到着した御家人たちに

北条方に立って参戦するよう
命令書を送ったのだ。

戦いは 北条方の圧勝に終わった。

和田方は 義盛以下 おもだった武将が
ことごとく討ち死に。

さらされた首は 234に及んだ。

しかし 事件は それで終わらなかった。

戦の終結から20日後
鎌倉に驚くべき報告が届いた。

「都では
和田の残党が京を襲うという

流言飛語が飛び交っている。

後鳥羽上皇は
御所警護の武士が鎌倉へ帰るのを

急きょ差し止め
不測の事態に備えさせた」。

御家人の分裂と反乱を阻止できなかった
実朝の手腕に

上皇の信頼が大きく揺らいだのだ。

時を同じくして 更なる試練が訪れる。

家々は倒れ 山が崩れ 地は裂けた。

天災は 為政者の不徳を天が責めると
考えられていた時代だ。

将軍失格の烙印を押されたと感じた実朝は
一首の和歌を都の上皇に送ったという。

山が裂け
海が干上がるような世であっても

決して上皇様に背く心はありません。

上皇の信頼を後ろ盾と頼む
実朝の悲痛な弁明だった。

どうしたら鎌倉を安定させ
上皇の信頼を取り戻せるか。

たどりついた答えは 善政。

御家人たちが納得する政治を
行うことだった。

実朝は 御家人たちを御所に呼び集め
彼らの陳情に直接耳を傾けた。

再び和田合戦の悲劇が起こらぬよう

御家人たちの不満が大きくならぬうちに
解消することを目指したのだ。

朝廷に対しても手を打った。

これは 実朝が下した幕府の命令書。

責任者として署名する別当が
従来の5人から9人に増員されている。

新たに加わった
源 仲章 源 頼茂 大内維信の3人は

都で後鳥羽上皇に仕える側近である。

実朝は
彼らの名を命令書に加えることで

朝廷の権威が幕府政治に
反映されていることを示したのだ。

実朝の思いは 上皇にも確実に届いていた。

和田合戦から3年後の建保4年
実朝は権中納言に昇進

ふたつき後には左中将に任じられている。

上皇は 実朝への信頼回復を
官職の上昇という形で示したのだ。

懸案を解決した実朝は その年の11月
新たな大事業に乗り出した。

唐船の建造である。

最先端の造船技術を持つ
中国の技術者に命じて

外洋航海に耐える
頑丈な船を造ろうというのだ。

鎌倉では
誰も見たこともない巨大船の建造には

人手も資金も膨大にかかる。

執権の義時と文官の大江広元は反対したが
実朝は計画を強行した。

鎌倉の海の玄関口 由比ヶ浜に
唐船は次第にその威容を現していった。

争いのない鎌倉をつくろうと
政治に取り組んでいた実朝でしたけれど

そこに起きたのが 和田合戦でした。

坂井さん この和田合戦は 実朝にとって
どれほど大変な事件だったんでしょうか?

実際に戦ったトップが
和田義盛 和田合戦ですから

和田義盛と北条義時なんですね。

和田義盛は侍所の別当です。

それから 義時の場合は
政所の筆頭の別当

執権という地位に就いています。

直接対決を行うということになりますと

実朝が率いている幕府という政治組織
そのものが分裂して衰退していく

そういう可能性 危険性が
非常に高くなるわけです。

従って 実朝にとっては
これ 一大事なんですね。

和田を攻めろというふうに
せざるをえなかったんですね。

かなり悲痛だとは思いますね。
そうですよね。

私ね でもね ちょっと思うんですよ。

なぜ 実朝… 北条行ったんだろう
和田に行かなかったんだろう。

すごい疑問です。
これね 和田氏ってね

もう ザ・東国武士っていう
イメージがある。

すごい いいやつなんですよ和田義盛って。
私は大好きなの この人。

親分子分っていうか
家子郎党を すっごい かわいがって

それで もう直情的なんですよ。

でも 実朝は 心の底から和田一族とか

特に ああいう和田テイストな
東国武士の文化が

好きだったかっていうと
同床異夢だったような気もするんですよ。

このあと 和田さんたちと一緒につくる
鎌倉幕府の世界に対する

「大丈夫か?」と。
ねえ。

この東国テイスト 都から離れた
別の東国武士の論理の中でね

そういう不安 なかっただろうかと
思うんですね。
確かに。

でも 幕府が真っ二つに分かれて

いわば ある種 失敗ですよね
実朝にとっては。

そこからの対応のしかたっていうのは
政治家っていう感じがしましたけれど。

かなり大きな つまずきではあったと
思うんですけども

そのあとの対処は
とても的確に見えますし 冷静ですよね。

御家人の話をよく聞くようにするとか

後鳥羽の手の人を
ちゃんと政所に入れますとか

非常に的確だし 若いのによくやるな
という印象ですけれども。

失敗した時に ちゃんと
リカバリーできるかどうかというのを

心理的レジリエンスといいますけれども

失敗した時に 挫折して
もう自暴自棄になってしまうか

それか 失敗を どのようにしたら
失敗でなくすことができるかってことを

冷静に判断して手を打てるかというのに
大きな差があるわけですね。

非常に心理的に安定した人格を
感じさせるもので。

とてもレジリエンスの高い
パーソナリティーですよね。

実朝は その失地回復をやり遂げて

その後 唐船建造計画という
一大プロジェクトに乗り出しますけれど

この計画は なぜ
実朝は考えたんでしょうか? 坂井さん。

ちょうど その唐船の建造を
計画し始めた年っていうのが

建保4年という 1216年なんですね。

この時に 権中納言とか左中将とか

後鳥羽が かなりテコ入れを
実朝にしてるんですよ 官位という面で。

そういうふうに高まった将軍権力
将軍の権威を使って

じゃあ 何をするかっていうことに
なりますよね。

鎌倉は 目の前が海ですよね。

船を使って交易をするっていうのが
一番効果的な使い方ですよね。

実際…

ですから そういう話は もう
当然知ってるわけで 実朝は。

それによって…

それが 自分には もう
できるんじゃないかっていうふうに

恐らく考えたんだと思います。

これまでは何か
大きな船を造って 宋に渡って

現実の政治から逃れたいと
思ったんじゃないか

なんていうふうに昔は言われてました。

しかし そんな…

後鳥羽の後ろ盾も
確信してるわけですから。

ですから もっとプラス思考の方を
実朝は企画したんじゃないか。

本当に そのとおりだと思っていて。
官位を認められて…

その戦略というのは
これが非常に鋭いというか

この人は頭のいい人で
ただ者じゃないなっていうことは

これは 自分は感じるエピソードだと
思うんですよね。 うんうん うんうん。

さあ 前代未聞の唐船計画の結果から
実朝は選択を迫られることになります。

建保5年4月
鎌倉 由比ヶ浜に巨大な唐船が姿を現した。

鎌倉殿 実朝の強大な権力は
僅か5か月で唐船建造を実現した。

しかし
完成した船が海に浮かぶことはなかった。

由比ヶ浜の地形が遠浅であることを
計算に入れていなかったのだ。

数百人の人夫に船を引かせても
船を進水させることはできなかった。

唐船は 砂浜で
むなしく朽ち果てていった。

反対を押し切って強行した計画の失敗。

ようやく取り戻した
御家人たちの信頼が失われかねない。

一体 どうすればよいのか。

この時
実朝の脳裏にひらめいたものこそ

かねてからの課題
後継者問題の解決であった。

実朝は この時 26歳。

都から御台所を迎えて13年たったものの
いまだに子に恵まれなかった。

跡継ぎ不在のまま
実朝の権威が失墜すれば

不満を抱く御家人が
源氏の血を引く者を押し立てて

謀反を起こす可能性もある。

ここで後継者を決めることは
幕府を安定させ

御家人たちの信頼を取り戻す
切り札となるはず。

では 誰を後継者にすべきだろうか。

実朝の心の内に分け入ってみよう。

どうやら
御台所との間では 子はできぬようだ。

上皇様のいとこである御台所と
私の子ならば

誰から見ても
高貴な跡継ぎとなるはずだったが…。

ここは従来どおり 御家人たちが尊ぶ
父 頼朝の血を引く者の中から

候補を選ぶのがよいのではないか…。

幸いにも 先の将軍 我が兄
頼家の忘れ形見 公暁が

僧侶となって存命している。

公暁は
比企の乱で殺害された
一幡の腹違いの弟。

母は 源氏の英雄
源 為朝の孫である。

実朝の母 政子も 頼家を廃した
罪滅ぼしの意味もあってか

公暁への支援を続けていた。

頼家暗殺の2年後 政子は

公暁を
実朝の子どもとして扱うことを決定。

公暁が18歳になると鎌倉に呼び寄せ

鶴岡八幡宮の長官
別当に就任させていた。

公暁ならば 跡継ぎとして ふさわしい。

血筋の上では 源氏の中の源氏。

私の時もそうだったが
父 頼朝の血を引く者を

鎌倉殿として仰ぐことは
御家人の誰もが納得するだろう。

だが 大きな壁がある。

御家人の中で最も力のある叔父上
北条義時だ。

公暁の父 頼家と その子 一幡を
手にかけたのは北条氏。

自らの地位を危うくする
公暁の鎌倉殿には猛反対するだろう。

仮に公暁を将軍の座に就けたとしても

その排斥を掲げ 反乱すら起こしかねない。

叔父上も ほかの御家人も納得する
鎌倉殿か…。

例えば 都から候補者を下向させてもらう
という手もあるが…。

我が源氏は武門の頂点で
官位も摂関家と ほぼ同じ。

単なる貴族の子弟では
御家人たちも納得するまい。

そうだ! いっそ 上皇様にお願いして
皇子を頂くわけにはいかないだろうか?

朝廷の最高権力者である
上皇様の皇子ならば

御家人たちはもちろん
義時叔父も反対はするまい。

東国のやり方には不慣れではあろうが
そこは私が後見すればよい。

問題は 上皇様がご了解くださるかだ。

4年前の和田合戦は
まだ記憶に新しい。

一歩間違えば
戦乱のちまたになりかねぬ鎌倉に

ご自分の皇子を遣わすなど
受け入れてくださるだろうか…。

果たして 誰を後継者として選べば
鎌倉を安定させられるのか?

実朝に選択の時が迫っていた。

さて 実朝は選択に直面しました。

前将軍 頼家の息子
公暁にするのか。

それとも 都の後鳥羽上皇から
皇子を迎えるのか。

皆さんが実朝なら
どちらを選ぶでしょうか。

中野さんは
どちらを選びますか?

選択2の後鳥羽上皇の皇子を頂く
という選択を選びます。

この人をもう一回っていうのは ちょっと
難しいんじゃないだろうかという

政治的な判断が働くかなと思うんですね。

翻って自分のことを考えるに…

…という自覚がある状態だと。

これは
次の時代の政権を盤石にするには…

…っていう気持ちになるんじゃないかなと
思うんですよね。

後鳥羽上皇の皇子ということですね。
坂井さんは どちらを選択しますか?

私も2番の
後鳥羽上皇の皇子を選択いたします。

これは
当時の身分制度のことを考えますと

奇想天外と言ってもいいぐらい
驚天動地というか もう本当に…

しかも 自分自身が…

定石は当時 源氏の血筋 頼朝の血筋で
継いでいくっていうのが

もう かなり定着してますから
頼家の残された子どもを

将軍に据えるということが
定石なんでしょうが。

公暁の異母兄
お母さんの違う兄である一幡も

北条義時に殺されてるんですよね。
その義時が執権でいる その状況の中で

難しいかなっていうふうに
私は思いますね。

ということで お二人は
上皇の皇子を迎え入れるということを

選びましたけれど
磯田さんは どちらを選びますか?

僕もね 本心は2なんですけど
この番組上 1にしてみます。

うまくいかないかもしれませんけど
公暁を将軍にという案

ちょっとチャレンジしてみましょう。

どうしたら うまくいきますかね それは。
ひと言で言うと 公暁の北条化。

公暁の北条化?
公暁の北条べったり化。

これ やっぱりね この時期は
北条氏が納得しない形での

将軍の継承というのは
やっぱ ありえないんでね。

で どうするかっていうと
公暁を将軍にする。 だけど…

それでね もし子どもが生まれたら…

それでいいなと。 「俺たちが
これまで何してきたか分かるよな」と。

「お前の兄貴だって殺したし
お前も殺されるか あるいは

北条べったりになるか
2つしかないんだよ」。

やだ~。
これですよ。 それで

「分かりました。 私は親しい人たちを
裏切って 将軍になります」

って言うかどうかっちゅうことですな。
そうですね 公暁がね

それを納得するかどうかは問題ですね。
そういうことです。

なかなか あの 無理くりな論理。

無理くり? 結構 はっきり言いましたね。
無理くりですよ そりゃ。

かつては 実朝が北条氏の傀儡である
というふうに いわれてきましたよね。

ですから 公暁を今度は
北条氏の傀儡にするという

そういう選択だというふうに
私は解釈しました。

これも ありえないことではないとは
思います。

あとは どのくらい 公暁が 結局

感情的に それを受け入れるかどうか
っていうところですね。

自分の親族 殺されてるわけですから。

さあ 実朝の選択は どちらだったのか
ご覧ください。

唐船失敗の翌年 建保6年
鎌倉から都へ向かう行列があった。

実朝の母 北条政子である。

表向きの目的は 熊野三山への参詣。

しかし 政子には
もう一つの使命が課せられていた。

後鳥羽上皇の乳母である…

その内容を後鳥羽上皇に近い天台座主
慈円は こう記している。

「院の宮の中で
しかるべき者を

鎌倉に下向させ
将軍とする」。

実朝の選択は 後鳥羽上皇の皇子を
将軍として迎えることだった。

この案は
上皇にとっても歓迎すべきものだった。

朝廷の最高権力者といっても
自前の軍事力は持っていない。

息子を鎌倉殿として送り込み
信頼する実朝が後見する体制になれば

強大な武力を持つ幕府を
思うままに動かせるのだ。

上皇の承諾の証しとも言えるのが
実朝の官位の上昇だ。

実朝は この年の3月
左近衛大将に任じられたのを皮切りに

10月には内大臣に。

12月には右大臣に昇進している。

武家では想像もつかない高い地位には

上皇の 実朝に 我が子の後見人に
ふさわしい官位を与えるという

思いが込められていた。

だが この決定に
心をざわつかせる人物がいた。

頼家の遺児 公暁である。

「吾妻鏡」によれば
鶴岡八幡宮別当に就任した その日から

公暁は全ての仕事を投げ出し
1, 000日に及ぶ祈とうを開始していた。

一説には
将軍 実朝を呪い殺し

取って代わる
腹積もりだったという。

だが 上皇の皇子が
鎌倉殿となったあとでは

その可能性はなくなる。

公暁は決断した。

(数珠が落ちて飛び散る音)

鎌倉 鶴岡八幡宮。

実朝の右大臣就任をことほぐ
拝賀の式典が行われた。

実朝が神仏への拝礼を終え

公家たちが立ち並ぶ中を
会釈しながら通り過ぎようとした その時。

石段の際に身を潜めていた
公暁が襲いかかり

「親の敵は かく討つぞ!」と叫びながら
実朝の首を打ち落とした。

享年 28。

あまりにも突然な死だった。

公暁は 実朝の首を手に 乳母夫である
三浦義村のもとに走ったものの

義村の手の者に殺害された。

鎌倉は 将軍不在の異常事態となった。

このままでは 幕府の存立さえ危うくなる。

北条政子と 執権 義時は
改めて後鳥羽上皇に使者を送り

皇子を鎌倉に下向させてくれるよう
懇願した。

だが 実朝を死なせた鎌倉幕府に対する
上皇の信頼は失われていた。

上皇は 皇子の下向を拒絶。

これを機に 朝幕の関係は悪化してゆく。

実朝の死から2年
両者は ついに激突した。

承久の乱である。

実朝が目指した朝廷と幕府の融和は
ここに ついえたのである。

実朝の選択は
後鳥羽上皇にお願いして

皇子を鎌倉に
派遣してもらうことでした。

坂井さん まず この選択は
どのようにご覧になりますか?

朝廷という 非常に
身分制度のトップに位置している

そういう存在があって その上で更に
最高権力者のお子様をですね

頂くことができれば それこそ…

ただ その選択をしますと
源氏の血筋は途絶えるんですね。

…と私は思っています。

そのことによって 源氏ではなくて
それよりも上の天皇家

当時は王家といいましたが
その王家の血筋を

幕府のトップに据えることによって…

そちらの
いわば理想的なビジョンを描いて

自分に子どもが生まれない以上
源氏の血筋はここで断絶させるっていう

積極的な考え方を持っていたように
私は思っています。

中野さん でも なかなか
世襲させないっていう判断って

現代でも 大抵 世襲じゃないですか。

こだわりの強い人は結構いますよね。

ただ 実朝という人の場合は
彼が見誤ったのではないかなと思うのは

自分が血脈に対する
こだわりがないということを

基準に考えてしまうと。

鎌倉武士たちは
めちゃくちゃあったと思うんですね

こだわりが。 そこのギャップが
ちょっとあったのかなとは思います。

…という部分もあったんじゃないかな。
両面ありますよね。

要するに…

所領をもらうと 普通
所領経営っていうのをやるんですよ

関東武士は。
それは何をやるのかっていうと

所領へ入ってって
農業労働力を集めて

「お前ら種まきやれ」とか
「今だ 肥料をやれ」とか言って。

だから 血筋が絶えると もう
地獄に落とされるぐらいの不安になる。

それとは違うんですね。 要するに…

さあ こうして
実朝は暗殺されてしまったんですけど

これ でも
公暁は何で ここまでしたんでしょうか?

あの 公暁っていうのは
源 為朝という

鎮西八郎為朝っていわれる
英雄的な豪傑の孫娘を

母親に持ってるんですよ。

まあ この当時
まだ 頼家 若いですから

頼朝が頼家の妻を
選んだと考えられます。

その間に生まれた公暁こそ

頼家の跡を
継ぐはずだったんですよ。

それが そこに気が付いてしまう。
気が付いてしまうと

居ても立ってもいられない
っていうことになります。

実朝の首を取るっていうのは
すごい象徴的なように思えるんですね。

自分が どんな目に遭っても
奪ってやろうっていう構図になっていて。

これは まさに 有名な心理実験の

最後通牒ゲームっていうのが
あるんですけど 心理課題の。

自分が持っているものをゼロにしてでも

相手の持っているものを
ゼロにしてやりたいっていう

心理の表れなんですね これは。

自分にとって
取り分が ちょっとでもあるんだったら

そういう行動はとらずにいましょう
っていうのが

最も合理的な戦略なんですが…

坂井さん もし じゃあ
実朝が暗殺されていなかったら

その後の歴史
どのようになったと考えますか?

これは 我々が知っている歴史と

まるっきり違うものに
なっていたはずだと考えます。

親王を下してもらって
後鳥羽の皇子を補佐しながら

天皇家の血統で幕府のトップが
代々続いていくようになる。

こうなりますと 京都の方から見ても

東国にも自分の親戚がいますねっていう
形になりますよね。

それで だから…

それから
一般の馬に乗ってる御家人たち

あるいは それを 御家人トップとして
取りまとめている義時たち

そのところから見てもですね

京都に通じる太いパイプを得た
ということになるんですよ。

ということで いろんな意味で…

…というふうに考えています。

磯田さん どんなことを感じましたか?

やっぱり 実朝が 自分で政治力を
しっかり持ってるっていうことが

やっぱり この暗殺の対象になるっていう
ことでもあったと思うんですけど

これは やっぱり 起こした
後世の日本史の影響っていうのは

大きすぎますね これは。

もしね これ そのまま
都でやってる朝廷のアートな政治ね

美しいかどうかって 和歌の政治。
これが東まで及んできてる可能性がある。

このあと
我々が 割と東日本を中心に始めるのは

強いか弱いかのパワーな政治ですよ。

だから アートな政治じゃなくて
パワーな政治の方へ

大きく 結局 日本史は
かじを切っていくことになりますよね。

そうですね。 いやいや あの

ただ和歌を詠んでるだけじゃない
っていう一面が

だいぶ見えたんじゃないでしょうか。
皆さん 今日は ありがとうございました。

ありがとうございました。
ありがとうございました。