こころの時代~宗教・人生~ シリーズ「問われる宗教と“カルト”」 前編[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

こころの時代~宗教・人生~ シリーズ「問われる宗教と“カルト”」 前編[字]

安倍元首相銃撃事件を機に問われる“カルト”そして宗教のありかた。宗教問題の現場・最前線で活動してきた研究者・宗教者6人が一堂に会し2回シリーズで徹底討論する。

詳細情報
番組内容
前編では、旧統一教会の問題を現場で調査研究してきた櫻井義秀氏、日本脱カルト協会顧問として学生の救済に尽力してきた川島堅二氏による現場報告を受け、“カルト”とは何か、宗教との境界はどこにあるのかを探る。カトリック信徒の批評家・若松英輔氏による問題提起を受け、「反体制」と「反社会」の違いを討論し、日本社会と世界の政治状況における現代宗教そのものがもつ“ゆがみ”について考えてゆく。進行は小原克博氏。
出演者
【出演】宗教学者…島薗進,北大大学院教授…櫻井義秀,批評家…若松英輔,牧師・同志社大教授…小原克博,僧侶・宗教学者…釈徹宗,日本脱カルト協会顧問…川島堅二

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
福祉 – 社会福祉

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(足音)

♬~

本日はですね あの

「問われる宗教と“カルト"」というテーマで
話し合いをしたいと思っております。

7月8日に 安倍元首相の殺害という
事件が起こりましてね

宗教に多くの人が 改めて関心を持つ
という事態になりました。

今日は 統一教会問題と
こういうふうにいいましょうか その

犯人が あの そういうことで
苦しんできた人だったということから

なぜ そういうことが
起こっているのかということ。

で それは そもそも宗教とは何か

日本人にとって宗教は何か
あるいは現代人にとって宗教は何かと。

あるいは また政治と宗教というのは
どういう関係なのかと。

まあ こういうことに
問いが広がってると思います。

まあ そういうことについて
話し合っていこうと

まあ そういうことでございます。

本日 前編ですね
司会進行させて頂きます

私 小原克博と申します。

では あの 櫻井さん
早速よろしくお願いいたします。 はい。

私がですね
統一教会に最初に触れたというのは

1987年 35年前に遡ります。

その時 札幌市にですね
社会病理研究会というのが ありまして

そこで私 霊感商法を担当したんですよね。

それで弁護士会とか
消費者センターに行きまして

そこで 1981年に北炭夕張でですね

大事故があるんですけども その時
ご主人を亡くされた女性がですね

あの
1, 000万円の弔慰金もらったんですが

それが 霊感商品を買ってですね

全て なくしてしまったというケース
初めて見ましてですね

それ以来 霊感商法 統一教会の問題
というのは やっております。

え~とですね 今 あの

私たちは
確かに 宗教とカルトという問題を

よく考えてみなきゃならないとこに
いるんだと思うんですけども

宗教とカルトが まさに こう
似て非なるものだってこと

やっぱ 僕
改めて考えたいなと思ってるんですね。

似て非なるものっていうのは

外見上 もしかしたら
同じように見えるかもしれないけども

その本質を異にするってことですよね。

私は今 少し残念に思っているのは あの
宗教者 あるいは信仰者たちがですね

自分たちの ありようということを
自分たちの言葉で もう少し語っていい。

語らなければならない むしろ。

で それは自分たちの本当の使命
というのが一体何で どういう形で

世の中と つながっていきたいのか
ということをですね

肉声で語るべき時に
来ているんじゃないかと思って

そんなことも ちょっと皆さんと今日
考えてみたいなというふうに思ってます。

最近 ここ5年ぐらいは 宗教2世
あるいは カルト2世の問題が

実は私 顧問を務めております
日本脱カルト協会でも

ずっと テーマになってきました。

それは ある必然性が多分あって

日本で カルトが
70年代 80年代 盛んに布教を始めていく。

そのころに大学生 若い人で信者になった
者たちが結婚して 子どもができて

その子どもたちの問題というのが
その20年の経過の中でですね

浮上してきたということだと
理解しています。

そういう観点で見ると
この度の事件というのは

その問題が一つの臨界点に達したと。

私が… 旧統一教会の問題について
詳しく知るようになったのは

皆さんに比べると 近年でして

6年ほど前に霊感商法対策弁護士連絡会と
ご縁ができて

いろいろ教えて頂くようなことに
なったんですが

もう その時から今回の痛ましい事件へと
つながるような

政治家と教会との関係っていうのは
随分 議論をされておりました。

これまでも オウム真理教事件や
9.11のテロ事件など

何度か宗教が バーッと
こう論じられる機会はあったんですが

いずれも スキャンダラスなトピックスに
終始してしまって

深く宗教を考える これからの社会と
宗教の在り方を考えるというところまで

いかなかったんじゃないかなと
思いますと

今回 宗教について
改めて しっかり考える機会になれば

そんなふうに考えています。

今日はですね これから早速 宗教と
カルトの問題に入っていくんですけども

同時に やっぱり
私が関心を持ってきたのは

宗教と政治とか
宗教と国家の問題なんですね。

で これは あの 私たちは
戦後社会に生きていますから

戦前のことは終わったというふうに
こう感じがちですけども

戦前の なんか政教一致 祭政一致体制から
戦後の政教分離へ みたいなですね

そういうことを論じがちなんですけども

私自身は それほど大きな断絶はないと
思ってます。

むしろ いろんなものが連続して
今に至ってるということを考えると

国家の中にある宗教性みたいなもの
今回で言えば 国葬などを通じてですね

深く考えることもできますので
いろんなテーマですね

皆さんと一緒に こう議論していきたい
というふうに思います。

では 最初ですけども。

出だしの議論といたしましては
カルトとは何なのかということについて

共に考えていきたいと思いますが。

そのために問題提起をですね

川島さんの方からして頂きたい
というふうに思っています。

私が大学に教員として

宗教学 キリスト教学担当の教員として
職を得た年が 1994年でした。

ご承知のように 1995年の3月から

オウム真理教の地下鉄サリン事件が起こり
非常に衝撃を受けまして。

特に それまではキリスト教思想の…

一応 自分の専門領域は近代における
キリスト教の思想でしたけれども

大学で 宗教学を教えていくかぎり

この問題は 避けて通れないだろう
ということで

当時 専門家 それからカルトの被害者
脱会者 等々で

オウムの問題を総合的 いろんな立場から
考えようということで結成された

日本脱カルト協会に
その時から参加をして

この問題を考えてきた
ということになります。

そういうカルトですけども 学生たちに
どういうしかたで アプローチするか。

それも いろいろ変わってきます。

初期の70年代 80年代は 統一教会が路上で
「手相を勉強している者ですが」と言って

手当たりしだいに 声をかけていく
というのが主でしたけれども。

コロナ禍以降は
SNSを非常に巧みに利用していますね。

いわゆる 大学生たちが利用する
非常に良質な出会い系の

そういうSNSがあります。

有料で そこで
いろんな外国人たちと知り合って

ネイティブの
英語なり 韓国語なり 中国語が こう

対話 使う機会を提供できるような
そういう

そういうところに
カルトの布教者たちが紛れ込んでいて

巧みに 自分たちの集まりに誘導する
というようなことです。

そういうのが一応
私が見てきたカルトですけども。

一応 ここでは カルトとは何かという

私なりの理解を提示しろ
ということですので。

カルトという言葉は
非常に広い意味があります。

一番 一般的な意味は 代表的な国語辞典
日本の国語辞典などが採っている

まず マイノリティーの集団である
ということと

熱狂的な崇拝行為などを
実践しているという

その2点で大体 定義してると思います。

しかし それイコール カルトだとすると
別に対策を取る必要もない。

大学などで カルト対策という時には
それにプラスアルファして

やはり そこに関わってしまうと
違法行為に巻き込まれる。

あるいは 人権侵害的な行為に知らずして
最初は被害者ですよね。

勧誘されるわけで 被害者ですけども。

時を置かずして 今度は
それに加担する側に変わっていくので

加害者になっていくと。

そういう意味で マイノリティー集団で
熱狂的な崇拝行為をするような団体で

しかし そこに関わってしまうと 違法行為
反社会的な行為に巻き込まれて

非常な不利益を 自分も被るし

また 社会や身近な人々に対しても
被らせてしまうような団体

それを一応 私の中では
カルトというふうに考えて

活動してきている
ということでございます。

では あの 特にですね 統一教会に関して
恐らく詳細な調査をされ

また その実態もご存じの
櫻井さんの方から

統一教会に関わる問題を中心に

カルトとは何なのかっていうことに
少し迫って頂けますか。 はい。

川島さんの方からですね
非常に社会問題性のある集団という形で

カルトの定義がなされたと
思うんですよね。

その中には
正体を隠した勧誘であるとか

あるいは
違法な商品販売とか献金強要とか

こういう問題が含まれる。

その点ではですね 統一教会のカルト性
というのは歴然としてるんですけども

この押さえ方だけではですね
私 統一教会を認識するには

ちょっと不足があるんじゃないかな
というふうに思ってるんですね。

統一教会の規模感から言いますと

日本だけで
5万人か6万人の信者があって

世界全体を含めればですね
相当数の信者さんが おられますし

教団自体がですね 一種の
コングロマリット的な経済団体であるとか

政治的なロビイングをする団体とかを
複合してまして

ちょっと その
カルトという収め方にですね

ストンと落ちないんじゃないのか
というふうに 私は思うんですね。

しかも その 政治に関わる
何ていうんですかね 動機づけが

他の カルト視される集団より
極めて強いわけでして

その政治家の庇護を得ながら
守られて成長したいと。

こういうことが歴然としてますし

しかも 70年くらいのですね
日本における定着の歴史があるので

これを捉えるためには
政治と宗教の関わりであるとかですね

こういった側面も含めて

見ていかなければいけないんじゃ
ないのかなというふうに思っております。

(島薗)あの… 宗教学とか宗教社会学を
研究している人

あるいは恐らく
法学の立場からもですね

カルトの定義は 非常に難しいと。

まあ あの… いうことなんで

学術用語としては ちょっと使えない
というのが 我々の考えですね。

何がカルトかということの定義は
非常に難しいんだけれども

しかし 今 社会が懸念していることに
関わって言えることは

非常に閉鎖的で
それから あの う~ん…

排外的 敵を見つける

敵への こう まあ あの…

対立感が非常に強くある。

そして あの ひきこもるんじゃなくて

攻撃的に外に向かって打って出る
という側面があると。

そういう団体はですね あの…
大体 コンフリクトを激しく起こすので

社会のさまざまな抑制が働く場合が多い。

統一教会の場合は
その点が非常に特殊ですね。

つまり 非常に攻撃的に
社会に関わったにもかかわらず

抑制がきかなかった。

これは政治的な庇護を受けたということが
非常に大きいですね。

カルトとは何かということをですね
今 問うてるんですけども

恐らく それは同時に
宗教とは何かということへの

問いへと かえっていくと思います。

若松さんに お尋ねしたいんですけど
最初の冒頭でのご発言の中で

宗教とカルトは 似て非なるものだ
ということをですね

おっしゃって下さいましたけど
その点について

もう少し説明して下さいますか。
あの 冒頭…

私は カトリックのクリスチャンで
あの もう あの

生まれて90日で 洗礼を受けてますので

母親のおなかにいる頃から教会に行ってた
って そういう人間なんですけどね。

私たちが今
考えてみなければならないのは

似て非なるものだということはですね

宗教というものは 一歩間違えれば
カルトになるってことですよね。

そのことは
よく考えてみなければならなくて

なぜ じゃあ そこに何が そこに
歯止めをするのかということと

絶対 超えてはならない壁って何なんだ
っていうことを考えなくちゃいけない。

ですんで 私はですね
大きく3つあると思ってるんですけど

一つは恐怖ですよね。 恐怖によって
人を縛りつけようとするもの。

これが まあ 世の中で これは

まっとうな宗教だ
というふうに思われている。

ところが
仮にですよ それをやったとしたら

僕は
それは カルトなんだと思うんですよ。

その看板は関係ないんですよね。

恐怖によって
人を縛りつけてしまったら

もう それは宗教と呼ぶに値しない。

あともう一つは 搾取ですよね。

搾取というのは
今 問題になってるのは

持たざる者から
その人が生活を破綻するまで

何かを搾取しようとする
ということですよね。

搾取というところには 本当の意味での
自由がないんだと思うんですよ。

あともう一つは
どう言ったらいいんでしょうかね。

言葉で言えば 拘束なんですけども

宗教が
本当に宗教であるということであれば

出はいりは自由だと思うんです。
出はいりが自由だと。

で そこに属している

属していない
ということが 本当に自由に行われる。

ですんで 人生の中で ある時期は

とても熱心に
ある宗教活動をしてたけど

しなくなる
ということが 何ら問題にならない。

で 宗教というのは
その扉に鍵がかかってないはずなんです。

もし 何らかの宗教が 内側から
鍵をしめるようなことがあったら

それは もう宗教と呼ぶに値しない。

だから その 私たちは今 この時代に
カルトとは何かということを

考えていくのは
とても大事な問題なんですけど

宗教が 知らず知らずのうちにですね
なんか その

恐怖と搾取と拘束と というのを
していないかってことも

やっぱり もう一度 考えてみたい。

私たちが なんか それの中の一つでも

もし自分の中に
触れるようなことがあったら

どんなに
歴史的な看板が そこにあったとしても

私たちは やっぱり一回 距離を
保つべきだというふうに思うんですよね。

あの まあ 今
カルトの問題を扱っていますけど

確かに伝統宗教も ややもすると
カルト化していくといいますか

恐怖を武器に 人を集めたり
お金を集めたりということっていうのは

やっぱり これまでも ありましたよね。

私は
プロテスタントの信者なんですけども

アメリカのプロテスタントの場合には
終末意識を非常に この

終末的な恐怖を駆り立てて
熱狂を生み出したりとか

お金を集めたりというようなこと
というのは

やっぱり 後を絶たないんですよね。

もっと緩い意味では 例えば
地獄の恐ろしさなんていうことを描いて

これは キリスト教もしますし
仏教もするかもしれませんけども

もし あなたたちが今 なになにしないと

こんなとこに行くんだよ
みたいなですね

やはり その 恐怖を利用してきた
という歴史もありますから

これ
程度問題もあるのかもしれませんけど

やっぱり そこに対して
私たち 慎重である必要がありますよね。

統一教会というのは かなり悪質で
大きな問題を抱えてるというふうに

言わざるをえないと思います。

また やはり各宗教集団

どれほど こう
対話可能かっていうところは

やっぱり大きいと思うんですよ。

宗教間対話 成り立つかどうか
っていうのだって

そもそも 一つの目安になりうると
思うんですよね。

絵画の手法で 近景 中景 遠景
っていうのが あるそうなんですよ。

近くのものを描く時は近景
で 遠くのものを描く時は遠景

その間の中景というような概念が
あるらしくて

それを少し 宗教の構図に
当てはめてみますと

私の問題とか 家族の問題っていうのは
近景。

で 遠景に聖なる領域というものを
設定するとする。

もちろん その
聖なるものと私とが直結するのが

宗教体験の問題になるんですが

構図で言いますと 遠景に聖なるもの。

その中景に 例えば文化であるとか
地域コミュニティーであるとか

さまざまなものが こう ある
そのバランスみたいなものは

宗教にとっては
すごく考えなきゃいけない

大事なとこだと思うんですよ。

カルトとか原理主義というのは
こう すごく中景が痩せてて

私と聖なる領域というか 究極の問題
究極の言説とが もう直結してしまう。

日常が すごく軽視されて

中景が痩せてるみたいなところが
あるんじゃないかと思うんですが

中景 ある程度 分厚くないとね
宗教間対話って成り立たないんですよね。

それぞれが
自分の究極のところだけ 主張したら

決して折り合わないのが
宗教というところが ありますので

その辺りも一つ 被害者の会があるか
たくさんの訴訟を抱えてるか以外に

宗教間対話が可能かどうか

中景が… を大切にしてるかどうか
その辺りも一つ

問題のあるカルト集団の
こう見極め方っていうんでしょうか

見どころじゃないか
というふうに思います。

そうですね。 今の釈さん 言われたように
カルトということと

比較的 隣接する言葉としては

原理主義という言葉が
やっぱり あると思うんですよね。

そして それは自分たちの教義を
半ば 絶対化して

他を もう
あんまり見なくなってしまう。

つまり 中景を
どんどん欠いていくわけですよね。

ですから それは恐らく 多くの この

もう本当に宗教の 何ていうか
伝統にかかわらずですね

あちこちに見ることができるとは
思います。

(川島)若松さんが言われたことを
ちょっと取っかかりとして

ちょっと考えるところが あるんで
よろしいでしょうかね。

今 やっぱり 宗教とカルトの違いとか
カルトとは何かということなので

若松さん いくつか 3つぐらい
論点 挙げて

そのうち 最後に
拘束ということを挙げられましたね。

本来の宗教とは 自由があると。

しかし これ なかなか宗教の側からも
自由って結構 あの

カトリックの信者さんであるということで
あの その辺り

体感的に分かって頂けると思うんで。

私も 4代目のプロテスタントの
キリスト教徒でありまして

毎週日曜日には礼拝に行くと。

そうすると 自由といっても あの

やっぱり他の教会行くっていうのは
すごく難しい雰囲気があるんですよ。

やっぱり この教会に帰属したら それに
そこで忠実に一生 信仰生活をすべきだと。

その 通常の教会でも かなり そういう

拘束っていうんでしょうかね
あると思うし

それが結局 強度的に強くなっていくと
やっぱり閉鎖的なカルトになると。

やはり 今 本当に
宗教が変わらなければならない。

カルト化しないために 大きく変わる
時期が来ていると思っていて

そこが まさに その点

つまり帰属を もう ここだけ
というふうにするのではなくて

いや 今週は ここだけども
こっちもとかね

そういう自由さっていうのは
そういう意味とは

ちょっと違う感じでしょうか。
若松さんの おっしゃる…。

今の そういうことも現象的には
起こるのかもしれないんですけども

人というのは信仰を守り続ける 一生
守り続けるというのは なかなか難しい。

ですんで あの
いや ちょっと自分は今 信仰生活

あるいは 宗教というものから
離れてみたいと思うことがあっても

いいんだと思うんですよね。

その時に宗教側から いや そういうことを
してはならないというふうに

もう一回 引っ張り返すようなことを
やはり すべきではない。

で あの 何ていうんでしょうか
その人が離れていたとしても

その人のために祈るというのが
宗教だと思うんですよ。

ですんで あなたが離れようとしてるのは
それは良くないことだから

あなたは ここに とどまりなさい
ということを やはり してはならない。

やっぱり歴史的には
そういうことを やってきたというのは

もちろん 僕は
理解してるつもりなんですけども

あの 人は信じる自由だけじゃなくて

やっぱり
迷う自由があると思うんですよね。

で その人の迷いってものまで
奪ってしまうというのが

僕は やっぱり とっても恐ろしい。

だから 人は立ち止まり 迷い そして
何かを それを探求するってことが

信じることによって
失われていくんだとしたら

僕は なんか
残念なような気がするんですよね。

(川島)あれでしょうかね。 そういう
「ちょっと休みたいんだけど」とか

「いや それはサタンの声だよ」というと
もうカルトですか。

僕は そうだと思います。 というのは
その人に宗教の側というのは

どれだけの恐怖というものを
相手に与えるのかを考えることなく

発言するべきではないんだと
思うんですよ。

相手の心に 刃を突きつけるようなことは
絶対にしてはならない。

むしろ
その人が離れたいと思ってることに

寄り添わなきゃ駄目なんだと
思うんですよ。

そこに判断をするのではなくて

なぜ その人が今
離れなければならないのかってことを

共に考えるってことなくですよ。

そこにある判断が
とても強い判断があったとしたら

それは やっぱり その人にとっては
恐怖しか残らないように

私には思えますけどね。

かなり本質的なところまで
議論が及んだと思うんですけど

迷う機会が ちゃんと与えられてるか
どうかということは

一つ やっぱり
基準になると思うんですよね。

ですから 信じることと迷うこと
信じることと疑うこと

こういったことが やっぱりバランスよく
保たれてるかどうかというのが

大事かなとは思うんですね。

ただ その
迷うチャンスも与えられない。

そして 自由も与えられない。

あるいは そういったことを疑ったり
迷ったりすると 先ほど言われたように

まさに それはサタンのささやきだ
みたいなね。

これ まさに統一教会で
あらわれていたことだと思います。

もともと コントロールを目的に
もう近づいてくるわけですから

ある意味
宗教の力を利用してるといいますか。

宗教って大変 力が強いので 日常なんか
あっさり潰されてしまいますよね。

それを利用して コントロールするのが
目的っていうような

そういうことになってきますよね。

本来 宗教というのは そういう
こう 毒とか棘を持ってるんですが

社会と せめぎ合いながら こう

教義とか教学によって さまざまな
リミッターやストッパーを設定しながら

成熟してくるんですけども

そういうものを意図的に設定せずに

聖なる力を利用して 日常を潰す
っていうことの残虐さといいますか

悪質さみたいなものを感じますよね。

そうですね。
社会との せめぎ合いというのはね

人間が この 理解を深めたり
成熟していくうえでは

非常に やっぱり大事だと思うんですけど。
(釈)そうですよね。

そこの点をですね
ちょっと角度を変えて

次に深めていきたいと思うんですが

社会体制と宗教の関係についてですね

若松さんの方から
少し問題提起を頂きたいと思います。

反体制という言葉が
あの 宗教を近年 考える時に

いろいろ 発言 いろんな角度で
発言されると思うんですけど。

宗教が 反体制的であるということは
もしかしたら その根源からして

あるいは 私はキリスト者なので

イエスはですね 必ずしも
あの というか

大変 反体制だったと言っても
いいぐらいです。

ただ 反体制ということと
反社会ということは

全然違うんだということです。

むしろ 今回の問題は 宗教が体制側に
入り込んだとこに

大きな問題があるわけですね。

ですんで
宗教が反体制的であるということは

その宗教の真偽を問う時に 私たちは
とても慎重に判断しなければならない。

例えば 宗教と政治というのが結び付いて
反体制的な運動を起こした

最も近年で大きな出来事
それはインドの独立だと思うんですよ。

インドの独立 マハトマ・ガンディーが
人々を率いた 大変反体制的な動きだった。

だけども ああいうふうに開かれた
非暴力によって

インドの独立を実現する
ということが あった。

だから 私たちは反体制ということが

必ずしも 非人間的とか非社会的である
ということとは違うんだってことを

論議の前提にしないと 体制的なものが
良いことだというふうになってしまうと

とても恐ろしいことになる。

ですんで 例えば
1933年以降のナチス・ドイツの蛮行

ああいうものは
あれが体制だったわけですよね。

あそこに非体制的であるということは
とても重要なことだった。

そこに もちろん立ち上がった
ボンヘッファーのような人もいた。

ですんで 私たちは非体制イコール悪だ
というのではなくて

そこに もっと繊細な視座と考え
というのが

やっぱり
なくてはならないんだと思うんですね。

で 反体制と言う時に じゃあ

その人たちは何を守っているのか
ということだと思うんです。

そして 宗教が自分たちの利益を守る
ということになってしまうと

少し問題が やはり出てくる。

で やはり その
人間の尊さ あるいは人間のつながり

人間が存在する意味というものを
どうしても守りたいということであれば

宗教が反体制的になって
立ち上がるということはある。

だけども 自分たちの考え 自分たちの利益
というものを獲得するために

何か闘おうとするということとは
全く別なんだと思うんですね。

あの その点で言うとですね

キリスト教は 恐らく反体制的な
状況の中から生まれてきましたし

イエスは それゆえに十字架にかけられた
というところが やっぱり ありますよね。

まさに
社会とかの せめぎ合いなんですけども。

どうですか 釈さん 先ほどの発言から

今のような議論も
生まれてきたんですけども。

反体制と反社会の区別っていうのは
なるほど 必要だと思います。

またですね 宗教には そもそも
社会とは別の価値体系があって

だからこそ 人は救われるっていう面が
あります。

宗教には
今 泣いてるものこそが幸せである。

今 苦しんでるものこそ幸せである。
悪人こそが救われる。

死ぬ際には
死ぬがよろしく候というような

やっぱり世間的な価値とは
別のものを提示できるからこそ

宗教の存在意義があるわけで
あるんですが。

それは言ってみれば あの

脱社会というか 非社会という
そういう方向性のことですよね。

しかも 究極のところで
先ほどの話で言うと

遠景の部分 究極のところがあるんですが
それと まあ こう

反社会っていうのも これ 区別すべき
ところかなというふうに思います。

まあ
社会とは別の価値を持ってるからこそ

宗教には さまざまな棘も毒もある。

伝統教団というのは そうやって
社会と せめぎ合っているので もう

棘が取れちゃって あの 社会と共に
存在してる状態ではあるんですが。

ただ 社会と この棘との接点のところに
文化も生まれ アートも生まれ

音楽も生まれるっていう そういう面が
あるというふうに思うんですよね。

伝統教団からね 棘が取れてるというのは
面白い表現だと思うんですけども

ちょっと取れすぎて
それで伝統教団に物足りなさを感じて

若い人は もっと刺激のあるカルトに。
(釈)そういうことだと思います。

本来の… 宗教 本来が持ってる魅力
っていうものが やっぱり減ってきて

さっきの図式で言えば
こう 遠景が もう かすんじゃって

中景ばかりが分厚くなってるっていう
そういうところも あるかと思います。

(島薗)いや あの… オウム真理教も
そうなんですがね 統一教会も

この ある種 鮮烈なイメージを持って
出てきたというか。

なので 高学歴層が惹かれたんですね。

統一教会も初期は
高学歴層をターゲットにしてたんですね。

それは ある種 反体制と
すごく結び付いていたと思いますね。

なので
今の既成宗教にはないもの あの…

日常のさっきの中景的なものでしょうかね
…に なじんでいない。

しっかり とんがってるものは
とんがってると こういうところが あの

ある種の人たちには
非常に魅力的に感じられたと。

そのことは ちょっと
忘れていけないことだと思いますね。

実際 その統一教会 旧統一教会が
してきたことというのは その

単に社会というより
社会一般というよりかはですね

政治体制 既存の政治体制の中に深く
こう食い込んできたっていうことが

今や問題になっています。

そこには 恐らく価値を共有する
という部分があったから

そうなったと思うんですけども

その政治体制への食い込み方という点で
櫻井さん。

あの 統一教会はですね 1950年代に
韓国で生まれてるわけなんですけども

朴正煕政権の下でですね
反共運動をやるという

先兵 フロント団体としてですね

庇護を受けながら成長できてきた
ってことなんですね。

当時 その韓国では いろんな スキャンダラスな
事件なども あったりしてですね

キリスト教系新宗教としては鳴かず飛ばず
そういう団体だったんです。

ところが その政権の庇護を受けてですね
一定程度 勢力を拡張して

それから日本に来てですね
あの まあ これは その

岸 信介さんとか
笹川良一さんとかですね

そういった方々との関係も
利用しつつですね

自民党政権 清和会など
こういった その中にですね

深く沈潜してきたわけなんですね。

ですから その意味では

反共運動 国際勝共連合なんかが
担っていたとこはですね

非常に体制内運動なんです。

しかし その反体制的なところが
なかったのかというと

1960年代はですね
キャンパスにはですね

新左翼であるとか
マルクス主義的な考え方 これがあって

この2つがですね 体制だったわけです。

それに対して 統一教会はですね
キリスト教を統一する。

神主権という新しい思想をですね
これを主張してたわけなんですね。

それで一部の学生たちが入っていった
政治運動であり 思想運動だったんです。

だから そういう意味では
統一教会っていうのは

体制に沈潜する側面もあり
反体制的な面も示し

そして また
さまざまな面を持ちながらですね

現在に至ってるという。

その意味でですね 簡単に捉えることの
できない宗教団体だなっていうふうに

私は思ってるんですね。

(釈)例えば 保守政治家の人たちなんかは
旧統一教会がやってるという

反日的な教義っていうのは
どういうふうに考えてるんですか。

そこは見てないと思います。

あの まあ 勝共連合の方もですね

女性連合とか平和連合
いろいろ ありますけども

自民党の保守的な考え方ですね
家族が大事であるとか

あるいは 青少年の健全育成であるとか
そこだけを見てですね

いわば その 考え方がですね
重なってるというふうに思うわけですよ。

しかし その先は
青少年の健全育成といっても

結婚するまでは 婚前交渉含めてですね
恋愛も禁止するとかですね

非常に極端な主張をしてるんですけども
そこを見てない。

これは私 非常に おかしいんじゃないか
というふうに思ってます。

もともとはですね
政治体制の食い込みというのは

勝共連合を中心とする反共というところで
一致する点があったからですよね。

ところが あの 冷戦の終焉
ソ連の解体ということを経て

日本社会の中では
反共という勢いというのは

だいぶ こう収まってきたと思うんですよ。

その つまり冷戦以降の日本社会の中で
特に その保守派の議員が

なお 統一教会との関係を
非常に魅力的に考えた理由というのは

どこ ありますか。
他に反共だけではなくって。

まあ 国際勝共連合のですね
政治家への働きかけっていうのは

もう これは 70年代 80年代
ず~っと一貫してるわけですね。

しかし 政治家にとって統一教会がですね
非常に魅力的になったというのは

一つは選挙での協力 無償のボランティアを
派遣するであるとかですね

いろんなビラ配りとか電話かけとかですね
やってくれる人を確保できるとか。

あるいは
組織票の問題もあるんですけども

結局 2000年代に入って
日本の政治がですね

どんどん 安定した社会を求めていって
それぞれの政党が組織票を重視しますね。

そういった中で 統一教会というのは
5万人か6万人なんですけども

これは その地方議会においてはですね
結構 大きな意味を持ってます。

そんな形でですね 地方の議会 自治体
あるいは国政にですね

食い込める余地が出てきたんじゃないかと
思うんですね。

その意味で 統一教会と政治との関係
っていうのはですね

やはり この20年代の
日本の政治の動きと関連させて

見なければいけないんじゃないかな
というふうに 私は思っております。

現代の日本社会の問題だけじゃなくって

先ほど 棘が抜けてしまった
伝統宗教の話もいたしましたけども

現代の宗教そのものが ひょっとしたら
歪んでいるかもしれない

そのように捉えることもできます。

島薗さんの方から 現代宗教の歪みと
日本ということですね。

特に宗教右派なども絡めながら まず
問題提起して頂きたいと思います。 はい。

まあ あの 統一教会で あの

こんなに ひどいことが行われていたか
ということが見えてきて

みんな驚いていると。

もう この2か月間 そういうニュースを
たくさん見てきたと思うんですが。

その一つに 嘘というかですね
さっきの恐怖 脅し 搾取とともにですね

嘘というのが あると思うんですね。

これは例えば 壺を売るというのもね

途方もない値段をつけたら
これが効果があったということで。

これ 宗教ですか。
あの まあ 本当に嘘ですよね。

しかし 考えてみるとですね
なんで そんな

そういう宗教は かつて あったでしょうか
ということなんですけども

これは ある意味で
現代社会の病理を映し出しているような

相手が気付かないなら あの…

こちらの利益を通してしまっていい
というような

そういう発想が
宗教の中に入ってしまった。

これは現代社会の病理を こう

組み込んでしまっているというふうに
言えるかもしれません。

もう一つはですね
先ほどの保守的なモラル

これは反共産主義も そうですね。

伝統的な家族同士の愛 近隣社会の隣人愛。

そういうものが尊ばれる社会が
どんどん崩れていく。

それに対して
何とか モラルを回復すると。

まあ トランプ大統領もですね あの

統一教会に この
温かいメッセージを送ったんですかね。

どのぐらいのお金が動いてるんだろう
というふうに我々 見てしまうんですが。

しかし あの
トランプを支持してるグループ

まあ その 議会に突っ込んだりする
人たちも いましたが

あの中には かなりのキリスト教の右派
宗教右翼と言ったりしますけども

そういうグループが関わってる。

トランプ支持のグループの
かなりの要素は 宗教右派ですね。

この人たちは あの…

今の社会体制そのものに
反対しながらですね

選挙の時には また非常に強いと。

まあ それは また
権威主義的であるといいますかね

あの 民主主義的な社会体制そのものに
あまり こう 好意を持ってない

そういう人たちを あの そういう
専制的な手法を持つ政治家ですね。

そういう政治家が あの こう近寄せると。

こういうことが世界的に起こってるんじゃ
ないかなという気がするんですね。

プーチン大統領も
宗教を非常に利用してるんですね。

そういうことが あの
大いに気になります。

そういう側面から 統一教会を捉える。

これは まあ カルトというと

日本が すごく変わってるんじゃないか
ということなんですけども

同じようなことが世界にも起こっていて

そういう視野からですね 統一教会問題

これは 政治と宗教の好ましくない関係
ということにも なるんですが

そういうところから見ることも
できるかもしれないと思います。

あの アメリカとの
アメリカのですね 統一教会とのつながり。

これも日本で
時々 報道されていますけども

共和党との関係というのは
非常に強いってことが言われています。

歴代の大統領との関係であるとかですね。

そして そこでも当然 接点がありまして

一つは やはりアメリカの中で
どんどん失われていってるような

伝統的な このモラル

特に この家族観ですよね。

そういったことを
一緒に立て直してくれるような

頼もしき仲間としてですね

統一教会が 特に共和党の議員に
受け入れられてきたという

経緯があるかと思います。

ですから そういう この価値が
大きく変わってくる時代の中で その

伝統的な価値観を守り抜きたい
というような気持ちというのは

恐らく どの世界にも多分
起こりうるということですよね。

ですから その動機づけ自体は 私は決して
間違ってないと思うんですけども

それが こう やり方を間違った時に
まさに この病理がですね

現象化していってるのではないか
というふうに思いました。

え~と 釈さん どうでしょうか。

今も そのグローバルな視点でですね
宗教それぞれが 何らかの

危うさを抱えてるというような話を
してきたんですけど

釈さんの視点から
何か ご発言できることあれば。

日本の場合で言うと

一つは 戦後の宗教への認識の歪み
みたいなものが 一つあるかなと思います。

GHQの主導で とにかく国家神道対策
っていうのが 強力に進められた結果

政治や教育の場から かなり徹底して
宗教的なものを排除すると。

で 本来 政教分離は あの

ガバメント・アンド・チャーチですので
政治と教会の問題だったんですが

宗教全般を こう よける
っていうようなことになって。

これは当時 担当していたウッダードも

いくらなんでも無茶じゃないか
っていうような意見を

当時 発言したのを
残しているぐらいなんですが

かなり 無理に宗教的なものを徹底して
こう アレルギー的に排除した結果

そのカウンターとして

右派の 宗教右派の人たちが声をあげた
っていうのが あると思いますね。

いずれにしても とにかく
宗教というのは 本当に取扱注意案件で

畏敬の念を持って
あの おつきあいしなければいけない。

人間から生まれ… 宗教は人間から
生まれたものであるにもかかわらず

人間の手を離れて 自目的に動きだすと
もう コントロール不能といいますか。

例えば 宗教の暴力装置や差別装置が
稼働し始めると

もう止まらないんですよね。

人間の力で どうにもならないっていう
そういう危なさが ありますので

だからこそ こう飽くなき
こう 教義 教学の議論を重ねて

宗教が内包している暴力性や
この 差別性を

稼働させないようなリミッターを
設定し続けなきゃいけないわけですね。

そういう意味では
あの 信仰の持つ加害者性。

信仰は そもそも加害者性を持ってる
っていう そこに立たねばならない。

信仰は常に 人を傷つける可能性がある。

信仰というのは
他のストーリーに生きてる人に対して

大変 無頓着になったり
無自覚になりがちですので

そこに常に立つ。

はい。 ご指摘のとおり
戦後の日本社会というのは

戦前への反省から やっぱり
出発してるという点がありますから。

戦前ですね
国家が宗教と過度に こう関係して

まさに その宗教国家として
最後 戦争に入っていったと。

ですから 戦後教育の中からは

宗教教育が徹底して
排除されたわけですよね。

その点で言うと 宗教リテラシー
というものを 戦後世代というのは

ほぼ ほぼ全世代 欠いてるわけですよ。

もう何にも基本が分かってない。

なので カルトにですね 甘い誘惑の声を
かけられても

簡単に そこに引きずり込まれてしまうと。

同時に今 私たちはですね
日本の国内の問題としてだけでなく

グローバルな課題として このことを
やっぱ考えようとしてるんですが。

若松さんに
ちょっと お尋ねしたいんですけど。

カトリックというのはですね もう

グローバル宗教の典型的なものだと
思います。

先ほど
暴力装置ってことも出ましたけどね

カトリック教会が そのような役割を
果たした時代もありましたし。

しかし そのことを反省して

今のカトリックがあるってことを
考えると

いろんなことを学べる
気がするんですけど

何か その視点から ご発言頂けますか。

ウクライナの戦争が起こってから

今の教皇フランシスコは
発言を とても強くしてるんですけど

その中で とても注目すべきだなと
思ったのは

宗教が政治に利用されてはならない
ってことを言うわけですよね。

で 僕は これ なんか
とても重要なことを言っていて

宗教が どこか政治に利用されることを
待っていたんじゃないかっていうのは

僕 ちょっと やっぱ
考えてみなきゃならない

とっても重要な問題として
あるんだと思うんですね。

この近代日本の歴史においても その
政治と波長を同じくすることが

自分たちにとっての利益なんじゃないか。

ですんで これからの宗教というのが
本当に宗教であるためには

いかに利用されないかってことを

やっぱり宗教側としては
真剣に考えていく必要がある。

あともう一つは 大事だと思ったのは

あの 今の その 島薗先生や
釈先生のお話から見ますとね

やっぱり その 利己的であることを
是認するんだと思うんです 宗教が。

利己的であることを是認してしまったら
それは自分だけが救われて

自分だけが救われるのに お金が必要だ
ということに なってくるわけですね。

宗教が利己ということを もう一度 深く
捉え直して そこに どうやって我々が

たたかっていくことが できるのか
ということを やっぱり考えないと

この問題 解決しないんだと
思うんですよね。

あともう一つは 救いは決して
お金で買えないということを

宗教は 本当に強く語るべきなんですよ。
救いは絶対に お金じゃ買えない。

なぜなら神は お金は要らないんですよ。

神は お金が要らないから
宗教者が1円でも多く払った人が

救いに近づくみたいなこと
雰囲気がですよ

もし既存の宗教が持ってるんだとしたら

それは やっぱ改めなきゃ駄目なんだと
思うんですね。

そういう社会が 私たちが今 こういう
不幸な出来事を生んでるんだってことを

やっぱ既存の宗教側も
考えなきゃいけない。

ですんで 神はお金は要らないんです。

で このことを やっぱり
責任ある宗教者たちが今 この時期に

僕は 強く語るべきだというふうには
思っているんですけどね。

そうですね。 その点は非常に大事ですし
特にキリスト教の場合には

聖書の中でね 神と富に仕えることは
できないという言葉があるように

それを峻別するってことの大事さが
語られていながら しかし残念ながら

後のキリスト教の歴史では なかなか
そうもいかなかったということで

非常に難しい課題であるとは
思うんですよね。

結局 宗教というものが 救いを売買する
って形になるわけですよね。

そんなことは ありえない。
そうですね。

救いというものは
売ってないわけなんですよ。

売ったり買ったりできないもんだ
ということを

とっても基本的なことなんですけど

そういうことを やっぱり
宗教は どこか語らずにきた。

で 例えば宗教施設に お金がかかるって。
これは当たり前のことなんです。

ですけども そのことと その人個人の救い
ということは全く関係ないです。

だから 100万円 出したら
救いに近づくんじゃなくて

100万円を出す余裕がある人は

それは もしかしたら
出してもいいのかもしれない。

だけども 1円も出すことのできない
人から お金を搾り取るかとかって

絶対にならないですね それは。

そのいわば 反対の例を示してきたのが
統一教会だと思うんですよね。

で 櫻井さんにお聞きしたいんですけども
信仰とお金の関係。

旧統一教会の中では
どういうふうな論理が育まれて

そのお金を際限なく追求していくという
ような論理が正当化されてきたのか。

青年信者の場合はですね
あの いろんな活動をしながら

最終的には 合同結婚式に参加して
祝福を受けて 子どもを受けるという

こういう救いが
予定されてるわけですよね。

既に もう結婚しちゃった人 子どもがいる
人は もう一回って できないわけです。

最近できるようにはなってるんですけども
お金のためにですね。

この人たちは その 神様に対して
自分の心ですね

忠誠を示す やり方として
もう献金しかないと

こういうふうに
言われてるわけなんですね。

ですから そこで その信仰が
お金に転換されているわけなんですよ。

その若松さんの その言葉を借りれば

一種 その対価的なサービスに
変わってるんですね 宗教的な行為が。

それを もう積極的に進めてるのが
一つ 統一教会なんですけども

しかし これ
統一教会だけの問題じゃなくですね

いろんな諸宗教に やはりあるし
それを見てですね

いろんな学者の方もですね こういった
宗教被害 これを防ぐためにはですね

その消費者法の枠の中で 宗教行為を
対価的サービスというふうに認識すれば

いわば その価格の相当性ということが
判断できるんじゃないのかという

こういう議論をですね
今 構築しようとされてるんですね。

しかし 献金とかお布施というのはですね
対価的なサービスにではなくて

贈与的な側面が
やっぱり あると思うんですね。

それは あの 自分に対して

何かしてくれた人に
直接 お返しするのではなくて

かなり回り回った形で 一般的にお返しを
したいという気持ちを表すという

そういう贈与的な側面が
あるんですけども。

やっぱり この対価とですね
その贈与の違いということを

その 宗教者自身がですね あまり
説明してきてないということがですね

いろんな混乱を生み出してる
原因じゃないかと。

その意味で その宗教リテラシーという
言葉なんですけど

これは 市民の側だけの問題じゃなくて
宗教者の側にもですね

私は あるんじゃないのかな
というふうに思います。

そのとおりですね。
今の献金… はい 川島さん どうぞ。

(川島)
いいですか ひと言。 え~っと まさに
つながるところだと思うんですけど

今 お話を伺っていて
そういう宗教の持つ負の面というのは

その経典そのものにね
ある程度 こう ルーツがある。

それを解釈する宗教指導者の まさに
宗教リテラシーの問題なんだけれども。

例えば お金のことで言えば

聖書で 罪という言葉が
借金を表す言葉と 原語では同義ですよね。

ですから その罪の償いに お金で
っていうのは

非常に もう経典レベルで
こう裏付けることができる。

そこを直接
つなげちゃいけないんだけれども

統一教会は それを巧みに利用しています。

それから 島薗さんが最初に
嘘の問題を挙げましたよね。

で まさに統一教会では
ついていい嘘と 悪い嘘があるけれども

だましてでも献金をさせるのは
これは ついていい嘘なんだと

その人は その時
だまされたと思うかもしれないけど

やがて裁きの日に それが功徳となって
最悪の地獄に行くところだったのが

少し いい地獄に入れるみたいな
そういうロジックですよね。

それは ですから
彼らに嘘ついちゃ駄目だよと言っても

いや これは もう救いのためには
許される嘘なんだって

もう教え込まれてるから
通じないわけですよね。

その問題を私 ずっと こう考えてた時に

実は あの
これ 釈さんのご専門かもしれない

「法華経」の中に
そういう教えが あるんですよね。

大きな館に たくさんの人が住んでいて
ところが もう相当 古びた館で

もう いつ崩れるか分からないどころか
もう火の手が… 実は上がって

もう間もなく館が。

ところが そこに住み着いてる人たちは
居心地がいいものだから

もう危ないよ 危ないよと言っても
全然 動こうとしないと。

そこで その館から引き出すために
その人たちが関心を持つような

なんか珍しいおもちゃとか あげるから
さあ 出ておいでと言って

館から出すみたいな
そういう例えが 人を救う時の例えが。

ですから
本当のことを言っても通じない場合には

そういうことで というのがある
ということを考えると

根が深いっていいますかね。

だから そこで やはり要求されるのは
宗教家の倫理性 まさにリテラシーと

そういう問題だと思うんですけども。

ちょっと そんなこと考えています。

あの 嘘でも それを こう正しいものだ
というふうに信じ込まされた人が

その状況から脱するって
非常に難しいですよね。

外部の人が あなた だまされてるんだよ
というふうに言ってもね。

一旦 入ってしまった論理から こう

外に脱出させるための苦労
みたいなものが

もし あれば
ちょっと教えてほしいんですけど。

ありすぎというか…。
多分 そうだと思いますけども。

もう そこの世界に入り込んでる人には

第三者が いくら言っても難しい
っていうのが実感ですね。

ですので やはり その人が本当に そこに
わ~ 火が本当に迫ってるんだっていう

熱さなり そういうものを感じるような
状況に こう直面しないと。

あと… でも今の時代ね あの それこそ

無理やり引き出して
っていうのは もう できない

倫理性から言っても
できない時代ですからね。

そこは やはり脱カルト支援の
一番 今 難しいところかなと。

まあ 脱カルトの取り組みの中で
3か月と1年っていう

私から 経験値から出した数字が
あるんですけども

ファーストコンタクトから
3か月までであれば ほぼ100%。

あの いろんな裏事情とか 情報を
提供することで脱出させることができる。

その方法でできたマックスが1年。

1年度は ギリですね。

もう それ過ぎてしまうと
本当に コントロールが深まってしまい

なかなか耳を傾けてもらえない。

(島薗)あのオウム事件もね 最大の時に
どのぐらいの人が出家をしたか

1万人ぐらい いたかもしれませんがね。

そのおおかたは今は
普通の生活に戻ってる。

だけど あれは やはり あの
事件が起こって

社会の中の 物の見方が変わった
ということが かなり影響してます。

これは多分 今 統一教会についての
さまざまな報道がなされたことがですね

メンバーの人たちに
相当 実は大きな影響を与えている。

だから あの 一人一人を説得する
ということと ともにですね

やはり社会が適切に そういう問題のある
集団についての認識をですね

共有していく。

マスコミにも そういう役割があるし

研究者にも
そういう役割があるんだけど

それは とても大きな意味があると
思いますね。

もう一つだけ いいですか。
はい どうぞ お願いします。

疑いってことをですね…
宗教と疑いって問題なんですけども。

どうしても宗教は 既存の宗教がですね

疑いないことが
いい状態だというようなとこに

導いてきたように
私には思えるんですけども。

そうではなくて
信仰が深まってくということは

やっぱ疑いが深まってく
ってことなんだろうと思うんですよ。

深く疑うことができるということが
とっても大事なことなんだって。

人は 疑うことの中でしか発見できない
問いというものもあるし

疑いの中でこそ 人と つながるってことが
あるんだろうと思うんですよ。

それが 確信こそ良い状態だと

確信しなければ駄目なんだっていうとこに
何か宗教が線を引いてきたんじゃないか。

そうだとすると 疑いなき状態が
人間のゴールだというふうに思って

当たり前なんだと思うんですね。

宗教というのが
本当に働くべき時というのは

疑いも また何かの意味である
っていうことが

やっぱり宗教が今
もう一度 語りたいっていうか

語って頂きたいなって感じは
強くありますね。 そうですね。

これぞ 疑いなき道だというふうに
カルトも示すし

原理主義も多分 示すけども

それが やっぱり人間の自由とか可能性を
非常に こう制限するわけですよね。

これまでの議論の中で カルトとは
一体何なのかというとこからですね

私たち 議論を始めまして
それが今 まさに話したように

一人一人の個人の心の在り方
信仰と疑いの関係であったり

そして 一旦
疑いなき道を行った人がですね

どのようにすれば
それを相対化できるのかとかですね

いろんな課題がありますので。

私たちは 視点を
さまざまに変えながら

このカルトということから
見えてくる問題をですね

やっぱり多様に見ていく必要が
あるのではないかということをですね

今 議論しながら感じました。

ですから 私たち カルト問題

これは ごく一部の人たちだけの問題だ
というふうには考えないで

そのことを通じて 照らし出されている
日本社会の病巣であるとか

政治と宗教の関係であるとか

そういったこともですね
今日は考えてくることができましたし

また引き続きですね 議論していくことが
できればというふうに思います。

どうも ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。

♬~

<2回シリーズ
「問われる宗教と“カルト"」。

次回 後編は
宗教の在り方に焦点を当てます>

人間の存在というものは 限りなく尊い。

それは あなただけではなくて
横にいる人も。

その人が幸福になるためには

周囲の人も幸福でなきゃいけないんだ
という 当たり前のことをですね。

その人が尊んでるものを
自分自身も尊ぶことができますと。

<今 宗教と どう向き合うべきか

徹底討論していきます>