英雄たちの選択 日本の宝を守れ!町田久成・博物館創設への挑戦[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

英雄たちの選択 日本の宝を守れ!町田久成・博物館創設への挑戦[字]

今年は東京国立博物館、創立150年。明治のはじめ、新しい国をめざして時代が大きく揺れるなか、日本初の博物館はどのように誕生したのか?その知られざるドラマに迫る!

詳細情報
番組内容
日本で最も長い歴史を持つ東京・上野の博物館。その誕生の裏には、明治元勲たちを巻き込んだ知られざるドラマがあった!明治のはじめ、何よりも優先された富国強兵。そして西南戦争による混乱と財政危機。これらの逆境に立ち向かい、日本初の博物館創設に挑んだ官僚、町田久成。ところが、建設工事は中断に追い込まれてしまう…。文化財という概念すらまだなかった時代、町田はどのようにしてその保護と博物館創設を実現したのか。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦有紀,【出演】フランス文学者…鹿島茂,東洋大学文学部教授…岩下哲典,脳科学者・医学博士…中野信子,【語り】松重豊

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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今年 創設150年の節目を迎える
上野の東京国立博物館。

日本で 最も長い歴史を持つ この博物館の
名品を集めた特別展が開催中だ。

古墳時代の埴輪として
初めて国宝になった「挂甲の武人」。

日本画と西洋画の技法が融合した傑作
「鷹見泉石像」。

見る者を圧倒する 巨木が印象的な
狩野永徳の「檜図風」など

国宝89点全てを公開する。

その東京国立博物館の一角に
ある人物の功績をたたえ

井上 馨らが建てた石碑がある。

この君が 指す人物…。

それこそが…。

日本の文化財保護の立て役者にして

博物館の初代館長 町田久成。

文化財という概念すら
まだなかった明治初頭

政府の官僚だった町田は いち早く
日本各地の文化財保護の必要性を訴えた。

日本で初めての博物館の誕生を目指し
その原型となる博覧会を開催。

15万人もの来場者が訪れる
大盛況となった。

ところが 町田の計画は
次々と苦難に襲われる。

明治政府の財政に大打撃を与えた
西南戦争の勃発。

更に 博物館建設の
大きな後ろ盾となっていた人物の暗殺。

ついに博物館の建設工事は
中断に追い込まれてしまう。

この難局に町田がとった選択が 博物館

そして この国の文化財保護を取り巻く
環境を大きく変えていく。

スタジオには
さまざまな分野の論客が集結。

博物館創設を目指す町田が直面した
逆境に迫っていく。

富国強兵じゃなくて
町田がやろうとしたことはね

僕 楽民富国じゃないかと思ってて…。

新しい国を目指し
さまざまな思惑が交錯した明治初頭。

日本初の博物館は
どのように生まれたのか?

その知られざるドラマに迫る!

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択

今回取り上げるのは この人です。

現在の東京国立博物館の誕生に
欠かせない人物 町田久成です。

この町田久成について知っている方は
あまり多くないかと思うんですけれど

磯田さんは もちろんご存じでした?
うん もちろん知ってました。

まあ 近代的文化財保護ですね。

それほど影響のある人物なんですね。

そんな町田久成のどんなところに
今回は 注目しますか?

はい。
町田久成が生きた時代っていうのは

明治ですから
富国強兵 殖産興業の時代ですよね。

実利と無縁とされがちな
博物館や美術館ですが

実は そうではないというところに
触れていきたいですね。

それと同時に 町田の時代は

前時代のものは 捨てられるものが
多くあったんですけれども

それを町田は なぜ どのようにして
守ることができたのか

守ろうとしたのかっていう
話をしないといけませんね。

文化財とは また何なのか
っていう問題があります。

町田の葛藤と挑戦から この問題について
考えてみたいと思います。

では 町田久成は なぜ日本に
博物館を作ろうと決心したのか

まずは こちらをご覧ください。

鹿児島中央駅の目の前に

いくつもの銅像を配した
堂々たる記念碑が立っている。

西洋の知識を学び
薩摩藩の近代化を担うことを期待され

幕末にイギリスへと留学した若者たちを
たたえている。

後に外務となった寺島宗則や

大阪経済界の重鎮となった五代友厚など

そうそうたる顔ぶれが並んでいる。

そんな彼らを従えて最上段に立つのが
町田久成だ。

藩主 島津家に近い名門に生まれた町田。

学問に秀で
藩内の秀才が集う開成所の学頭を

26歳の若さで務めた。

この留学で町田は
留学生たちの引率役を務めていた。

慶応元年5月 薩摩の若者たちは
イギリス・ロンドンに到着した。

ロンドン大学で学びながら

町田は イギリス社会の
進んだ技術や文化を吸収しようとする。

鹿児島の資料館には
留学中の町田が

国元へと送った書簡が
大切に保管されている。

この中で 町田は

特に 近代国家
イギリスの

教育システムについて
事細かに報告している。

寄宿学校や
小学校の制度などを

日本にも導入しようと考えていた。

更に町田に強烈な印象を残したのが

通っている大学のそばにあった
大英博物館。

博物館には 歴史的な遺産が並び かつ
膨大な蔵書を有する図書館も併設。

歴史と文化に触れることができる
一大施設だった。

日本の美術史を研究する佐藤道信さんは

大英博物館が町田に与えた影響を
このように推察している。

慶応3年6月 およそ
2年半の留学を終えて帰国した町田。

その年の12月には
王政復古の大号令が発せられ

時代は目まぐるしく変化していた。

明治新政府で 町田は大久保利通

西郷隆盛らと共に参与の一人に抜てき。

日本の近代化を目指していく。

外交の分野で
活躍していた町田だったが 後に

不本意な配置転換を余儀なくされ
文部省の前身

大学南校に身を置くこととなった。

ここで町田の運命が大きく変わる。

明治6年に開催予定の
ウィーン万国博覧会の担当官として

日本からの出品を
任されることになったのだ。

万国博覧会には 世界各国から 産業や
科学技術の粋が出品されると同時に

その国の歴史や
文化についての展示も行われた。

国としての総合力が試される場だった。

このウィーン万国博覧会参加を機に
町田が 日本にも

博物館を作る構想を抱いていたのではと
佐藤道信さんは言う。

町田が博物館の構想を抱いた
ちょうど そんな折

日本の伝統文化は
大きな危機に直面していた。

それこそが
明治初頭の日本に吹き荒れた

廃仏毀釈の嵐だった。

それまでは
混然と 隔てなく信仰された仏教と神道。

しかし 明治政府は
神道の国教化に かじを切り

神社から仏教的な要素を排除するため
神仏分離令を出した。

この神仏分離令が
引き金となり 民衆が暴走。

全国各地で
寺院や仏像が次々と破壊されていたのだ。

これによって廃寺同然となる寺が続出。

建物や宝物が二束三文で売り払われる
事態も起きていた。

もはや一刻の猶予も許されない。

町田は 政府に対して
寺社の宝物を保護するように

意見書を提出している。

文化財という言葉すらなかった時代

町田は その保護の重要性に
いち早く 目をつけたのだった。

明治4年5月 町田の意見書を受けて
日本初の文化財保護法である

古器旧物保存方が布告された。

各地の寺社は 所有する
宝物の目録を作るよう定められ

文化財の散逸に少しずつ
歯止めがかかっていく。

このころ 町田のもとには 共に
博物館創設を目指す仲間も増えていった。

その中には古美術に精通する蜷川式胤や

自然科学の知識にたけ

博物館誕生に欠かせない存在となる

田中芳男などもいた。

東京・湯島聖堂で 町田たちは

ウィーン万国博覧会の準備も兼ねて

明治政府による日本初の博覧会を
開催している。

こちらは
その博覧会の様子を描いた錦絵。

各所から集めた 600点余りを
一堂に展示している。

その中には 人体の骨格標本や
さまざまな動物の剥製。

そして
豊臣秀吉の書や 織田信長の陣羽織まで

ありとあらゆるものが展示された。

中でも注目を集めたのが

高さ およそ2.5メートルの
名古屋城の金のシャチホコだった。

それらを一目見ようと
会場は 連日 大盛況を極めた。

当初 20日の会期は
なんと50日まで延長され

15万人もの来場者を集めたという。

この博覧会の成功を足掛かりに

町田は博物館建設への第一歩を
踏み出したのだった。

町田が文化財保護の必要に気付き

博覧会を開催するまでを
ご覧いただきました。

磯田さん 町田の活躍 見て
いかがですか。

一見
大活躍で大喜びかとは思うんですけど

町田本人は ちょっと じくじたる思いも
あったかもしれませんね。

実はね 家柄がいい人が損なんですよ。

家柄がよすぎたというところがある。
やっぱりね この人

薩摩藩の重臣というか
もう ミニ殿様的存在ですよ。

それで 大久保にとっては お父さんを
そろばん係でこき使ってるような

あるいは 後に
外務大臣になる寺島宗則からすると

ヨーロッパへ行く時の上司ですよ。

それで それを大久保なんかも
よく分かってるので

それで エリート街道 外しておいて
博覧会とか そういう仕事の方が

いいだろうというふうに
持ってかれちゃう。

だから ささいなことで 責任
取らされちゃったりとかばっかりですよ

この人。 まあ だけど
これ 幸運だったわけです

この国の文化財保護にとっては。

え~ 今回も多彩なゲストの皆さんに
お越しいただいています。

よろしくお願いいたします。
(一同)よろしくお願いします。

まずは
町田を輩出した薩摩藩をはじめ

幕末雄藩の情報活動史について
研究されている岩下哲典さんです。

よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。

岩下さんから見て この町田久成とは
どういう人物でしょうか。

そうですね
私は 実は大学での
仕事としては

博物館学芸員の
養成課程の
担当教員で

博物館概論とか
実習とか
担当してますので

やはり日本における
近代博物館の
れい明期の

最重要人物として町田久成というのは
よく出てくるんですけれども

やはり VTRにあった
薩摩藩の使節団というか

留学生の写真ですよね。

真ん中に座ってるというところを見ても
自他ともに認めるリーダーでありまして

この薩摩藩の留学生グループはですね

チーム町田というふうに言っても
いいんじゃないでしょうかね。

続いて 脳科学者の中野信子さんです。
よろしくお願いいたします。

この町田以前というのは
博物館というものが ないわけですよね。

なので 文物は
全て文庫の中にある。

公共財では
ないんですよね。

その秘蔵の宝物を
パブリックなものとして

どう生かすかというのが町田の
闘いになっていくわけですけれども

パブリックという意識が 恐らく
まだ明治には根づいていないんで

その中で どういうふうにしていこうか
というところが見ものというか

彼の人生の面白いところだと
思うんですね。

そして フランス文学の研究者である
鹿島 茂さんです。

よろしくお願いします。

この町田という人はですね
例えば 五代友厚とか

それから
岩下方平ですか

などと比べると

あまり政治性というか党派性が
ない人だったんじゃないかな

という気がしますね。

もとから学究肌だったのかなあ。
学問好きの殿様という感じですね。

ああ 学問好きの殿様。

町田と この同じ時代
フランスをはじめ 欧米の各国には

文化財を保護するという
制度とか概念というものは

あったんでしょうか?
そうそう それ聞きたい。

この時代には
もう もちろんあったんですけれども

じゃあ いつぐらいに その歴史性とか
過去というようなね ものに

興味を持ちだしたかというと

これがね ブルジョワという階級がね
台頭してきてからなんですね。

そういう人が現れると
逆に そういう人たちは

けしからんというですね
例えば 没落貴族だとか

こういう存在が出てくるわけですね。

そうすると…

それまでは 中世なんか ただの古い
嫌なものという意識しかなかったのが…

だから 歴史を発見するということは
自分たちの国というものを強く意識する。

町田も まさに そうじゃないですか。
没落上級武士でしょう。

日本の伝統とは 何なんだろうとか
日本らしさは 何だろうとか

まあ 日本らしさ 古いものっていうのは
置いときたいって思うでしょうね。

ええ。 なるほど。

それで
改めて こちらをご覧いただきましょう。

先ほど紹介した 東京湯島で開かれた
博覧会の様子を描いた

錦絵なんですけれど。

秀吉の手紙の横に孔雀の剥製ですから。
そうそう。

あと 人骨標本があったりとか
何か まあ 言ったら バラバラな。

人間が作ったものと
天産… 天が作った産物が

ごちゃ混ぜになってるというのが
この初めの頃の

こういう展示の特徴なんですけど。
ああ~。

整然と並んでいるんじゃなくて。
雑然の面白さという。

これ もうまさに
博物館学で やるんですけど

ヴンダーカンマー そのまんまですよね。

ちょっと見せ物的要素がある
いろいろなものを 珍しいものを集めて

一堂に会させて 自慢するというか
そのための部屋。

好奇心の部屋ですよね。

そういう博物館の原型として
紹介されることがあるんですけども

それを日本も 意識的なのかどうか
分からないですけども

なぜか こういう形で
踏襲することになってるのが

面白いと思いますけどね。

これ あのね 博覧会って
なぜ始まったかというと

ルソン ド ショーズっていうのが
あるんですよ。

物による教育っていうね。

これは
博覧会が始まった時からの理念で

物を見せることによって
人間は学ぶんだという。

だから それ 一応
物に… 見せてるんですけれども

ただ もう一つの博覧会の
重要な点である体系性っていうものが

全然ないんですよね。

博覧会をやるって側 いかに その 物に
体系をつけるかということでね

苦心するんですけれども
それが全然ない。

やっぱり…

まあ やっぱり
ともかく打ち上げ花火ですよね。

もうイベント 人寄せして 博覧会

あるいは
その延長としての博物館というもので

新政府の権威を示そうと。

とにかく 博覧会 開くんだ
という意気込みが

このたくさんの品物から
私は 感じ取るんですけどね。

世界 国内にあるような…

そして 博物館創設を目指す町田ですが
日本の文化財を守ろうと立ち上がります。

湯島聖堂での博覧会を成功に導いた町田。

その先に見据えた ウィーン万博への出品。

そして 日本初の博物館のため
政府に働きかけた。

町田が訴えたのは

各地に どんな文化財が眠るのか
その詳細な調査から始めることだった。

明治5年 明治政府による
初めての文化財調査となる

いわゆる 壬申検査が実施される。

町田は この指揮を任されることになった。

調査団は 町田を筆頭に

文物を鑑定する学者や

文化財のスケッチを作成する画家

記録をとるための写真家らが集められた。

その中には 「鮭」の絵でも
知られることになる

西洋画家 高橋由一もいた。

町田たち調査団一行は

東京から西へと向かった。

伊勢神宮や京都御所
奈良の法隆寺などに足を運び

保管されている文化財の調査を実施した。

およそ120日間にわたって
彼らが調査した寺社は

大小合わせて 100か所以上にも及んだ。

8月には 東大寺の管理下に置かれ
長く封印されていた

正倉院の宝物も調査した。

調査団の一員で 町田と共に
博物館作りに力を注いだ蜷川式胤は

正倉院の宝物を見た時の感動を
手記に記している。

1, 000年以上前の古いものなので

ともすると装飾は
あまりよくないと思っていたが

琵琶は 一目見ただけで
今まで見た何よりも優れていた。

我々は まるで市場のように
声を上げ 驚き ざわめいていた。

彼らは 訪れた寺社が保有する
文化財一つ一つを目録に記載し

正面や横から
詳細なスケッチや写しをとっている。

こちらは 熱田神宮に所蔵されていた
舞楽に用いる仮面。

よく見ると
朱色や金色といった各部位の色や…。

破損していたと見られる状況まで
記録している。

更に 最新技術だった
写真による記録も試みている。

当時の写真機は 分厚いガラスの板を
記録媒体としていた。

機材も重く 撮影自体にも
長い時間を要するものだった。

…にもかかわらず
彼らは 600枚近い記録写真を撮影。

当時の様子を克明に残そうとしている。

今は 私たち 簡単に言いますけど…

…を 彼ら やってたわけですので

それには やはり よほど強い使命感とか
モチベーションがないと

ちょっと できなかったろうなという
気がしますね。

町田たち調査団が残した記録写真には

ある興味深い特徴がある。

その多くに
周囲の人々が写り込んでいるのだ。

東京国立博物館の特任研究員
田良島 哲さんは

これらの人々は
偶然写り込んだわけではないと語る。

それが まあ 生きた建物である
ということを示すために

お祈りをする人であるとか

あるいは 京都御所の写真ですと

わざわざ 束帯姿の人というのを用意して
その人を写し込んでいると。

こういった建物というのはですね
ある意味…

これを皮切りに
その後 明治政府は数回にわたって

全国規模の文化財調査を実施。

その重要性も少しずつ認識されていく。

明治の日本が近代化によって
失いかけていた

過去からの膨大な遺産。

町田たちが残そうとしたのは

それと共に生き続けてきた
日本人の姿だったのかもしれない。

町田たちが挑んだ文化財調査
壬申検査ですが

まさに日本の宝物総点検という
意気込みでしたけれど

中野さん ご覧になっていかがですか。

想像するだけで気の遠くなるような
作業だなと思うんですね。 そうですね。

時々 博物館の中にあるはずなのに

「発見された」っていう
ニュースが出てくると思うんです。

中にあるのに 所蔵品なのに。
はい ありますね。

そう つまり整理整頓されて もう 常に

これこれと言えば さっと出てくるという
状態かと思いきや

意外と 謎の資料だったりするんですね。

一つの博物館ですら そうですので
これは もう

日本の それまでの文物を 総ざらい
していくようなものでしょうから…

写真は ガラスも
もちろん重いんですけれども…

ポータブル暗室なんです。
はあ~。

そこで まあ 現像しないと
できないのが

あのガラス原板の
コロジオン湿板という手法なので。

とにかく 並大抵のことではないな
というふうに思いますよね。

いずれにしても 日本の文化を
記録するっていうですね 意気込みと…

台帳 それをこう 作ろうというですね

国宝とか 今は重文という
そういったものの

基礎調査になってますから

本当に いい仕事しましたねっていう
感じですよね。 フフフ…。

町田の
なみなみならぬ思いも感じますし

何か こう 物…
その宝物自体の記録だけじゃない

何か いろんな意味がありそうですね。

まず 自分たちの物が
どんな… 物を持ってるかって

それぞれ
今までの藩しか知らないでしょう。

国は 日本国なんていう意識 あまりなくて
それぞれの藩だったんですから。

それで初めて
日本というですね 概念が出てきて

それを改めて もう一回 見ようというね
そういう意識も…

だから 国家意識というのかな
それも あったんじゃないかな。

冒頭でおっしゃっていたナショナリズム。
そうですね。

町田個人の熱意っていうのも
影響してると思いますけど

それだけじゃないと思うんですね。
というのが あの~ この…

さあ そして文化財保護と
日本初の博物館創設を目指す町田ですが

ある選択が迫られることになります。

万国博覧会に
日本からの展示品が無事に送られた。

これと並行して町田たちは
日本での博物館の開設にこぎ着ける。

場所は 東京・内山下町。

現在の内幸町だ。

まだまだ小さな この博物館の門に

町田は自ら揮毫した額を掲げ
その意欲を示している。

そして 町田は この博物館を

将来的に 大英博物館を
手本として 大きく発展させるべきだと

政府に意見書を提出した。

その意見書の中で 町田は

上野の寛永寺跡の
広大な敷地こそ

新設する大博物館に
一番ふさわしいと政府に訴えている。

実は町田には
大きな後ろ盾となる存在がいた。

同じ薩摩藩出身で8歳年上の…

明治政府で最も力を持つ人物の一人だ。

当時 大久保は
欧米歴訪から帰国したばかり。

大英博物館を自らも訪れ

自国の文化を国内外にけんでんする
文化戦略として

近代博物館の重要性を認識していた。

明治6年11月
新設された内務省のトップに

大久保が就任すると

町田たちの博物館も
組み込まれることになった。

明治8年 大久保は

日本における博物館設置の
必要性について説き

その機運を
盛り上げようとしている。

以後 内務省は本格的に
新たな博物館建設へと動き出す。

明治10年には
上野に博物館建設が

正式に許可された。

およそ3万坪の広大な敷地と

その建設費用として10万円

現在の貨幣価値で
およそ20億円もの

建設予算を獲得。

明治12年 秋の完成を目指し

工事が着々と進められた。

ところが 順調に見えた
町田たちの計画を悲劇が襲う。

明治11年5月 大久保利通が
突如 暗殺されてしまったのだ。

更に
博物館建設の予算にも問題が発生する。

きっかけは前年に起きた西南戦争。

ばく大な戦費を賄うため
政府は紙幣を乱発していた。

それが深刻なインフレを招き
建築資材が高騰。

建設費が
当初の予定を大きく上回っていった。

ついに予算が底をつき 工事は中断。

完成予定日を過ぎても
博物館の建設工事は止まったままだった。

国の財政立て直しを図る大蔵省からは
計画の見直しを求める声まで上がった。

いかにこの難局を打開すべきか…。

選択に迫られた
町田の心の内に分け入ってみよう。

このままでは 工事の一時中断から
博物館計画そのものが

中止へと追い込まれてしまう…。

大久保亡き今 工事の再開のための
追加予算を獲得するのは難しいだろう。

それならば

今すぐにでも 可能な規模で

博物館の開設を
急ぐべきではないだろうか?

この状況では やむをえないだろう。

しかし ここで計画を縮小しては

私が目指した大博物館は
永遠に実現できなくなってしまう。

日本全国から文化財を集め 保存し

我が国の文化力を
国内外にけんでんするためには

イギリスのような大博物館が
何としても必要なのだ!

だが 時間がかかればかかるほど

状況は悪くなるばかり…。

そんなことなど できるのだろうか?

町田に選択の時が迫っていた。

町田は
上野に大博物館の建設を目指しますが

それをバックアップしていたのが
あの大久保利通でした。

岩下さん
大久保にとっても博物館建設は

目標だったんですね。
そうですね。

大久保はやっぱり
「百聞は一見にしかず」と言って

即物教育というか…

故に博物館建設には

予算のぶんどりですから
藩閥政治のしがらみが

執ように絡み合っていた
というふうに思われます。

富国強兵 殖産興業を
推し進めたい人々にとっては

まあ 博物館建設は いずれやるべきもの
だろうというふうには

ある程度 分かって
分かりつつあったとは思います。

国民国家というものの
創出の上ではですね。

ところが やっぱり ない袖は振れない
今はやるべきではないと

そういう状況の中で さてどうするか
ということなんでしょうね。

そうですね。
それでは 選択にまいりましょう。

大久保利通の暗殺と
西南戦争によるインフレで

計画が暗礁に乗り上げた町田。

計画を縮小するか あくまで
当初の目標を目指すか

皆さんなら
どちらを選びますか。

まずは 中野さん
どちらを選びますか。

選択1の 計画を縮小して

博物館を とりあえず
作ってしまおうという方を

自分なら選ぶだろうと思います。

文化財の流出を防ぐということが
目的なのであれば

まずはそういう機能を持った
場所を作らなければ

話にならないというふうに
考えるだろうと思います。

いわゆる…

私も選択1で 規模を縮小し
博物館を早期に開設する

ということを選びますね。

やはり 同じ町田の立場だったらですね…

やっぱり ないよりもあった方が
いいわけですので

当初の規模よりも
予算が小さくなったとしても

まあ
①ということになるのかなと思います。

鹿島さんは どちらにしましょうか?
僕は選択2の方ね。

つまり 建物を建てるとかね
そのための敷地を確保するっていうのは

最初に ドカンとやった方が勝つんですよ。

これは…

無駄じゃないかとか。
税金の無駄遣いだって さんざん…。

まあ 王だったから
そうは言われないんだけど。

僕ね 鹿島さんより だいぶ ちょっと
年が下の方で

もう 社会出た時 バブルが壊れてたんで

あんまり豪華な計画って怖くてできない
正直 言うと。

それでね 確かに大きすぎて潰せない
っていうつくり方 ありだし

観光資源になるんですよ。

でも ベルサイユ宮殿つくった王政
倒れちゃったしね。

ちょっと怖い気もしてね。

え~っと もう1
計画を縮小し 博物館を早期に作ると。

まあ 最初の一箱 マッチ箱みたいなのを
一つ 作るという

自分で言ってて
もう本当に しみったれた

貧乏ったらしい計画に
なっちゃうんだけど。

あんまり小さくし過ぎると
本当に使えないもんになっちゃうのも

よく分かるんですよ。
後世にも 確かに残らないですしね。

でも まずは 作るっていうことが大事?
はい。 まあ ちっちゃいのを 作って

箱を 横に… インフレ率が何倍かだったら
何分の1かにしといて

増設 増設みたいな。 何か…。

温泉宿になる。

さあ それでは
町田の選択をご覧ください。

博物館の建設中断へと追い込まれた
町田の選択。

それは 理想の大博物館の創設を
めざし続けることだった。

一体 どのようにして
それを実現しようとしたのか。

喫緊の課題は 予算が不足し
中断してしまった建設工事の再開だった。

そこで 町田たちが追加予算獲得の
名目として 目をつけたのが…

内国勧業博覧会とは
産業の発展や育成を目的として

政府が数年に一度開いた博覧会。

町田が目指した博物館と理念は異なるが

これを利用することにした。

上野に建設中の建物は

明治14年に開催予定の内国勧業博覧会の
施設に使うからという名目で

追加予算の承認を取り付けた。

こうして建設工事は再開し
建物は完成のめどが立った。

だが このままでは 建物は
内国勧業博覧会の施設になってしまう。

町田たちの博物館にするためには

展示品を運び込み
強引にでも 主導権を握る必要があった。

確かな記録は残されていないが
この時 事態打開のため

町田は
旧知の間柄の外務 井上 馨に接近。

一計を講じたという話が伝わる。

当時 井上は 外国からの来賓を招く
鹿鳴館の建設場所を探していた。

そこで 町田は
内山下町の敷地を譲るのと引き換えに

外務省から
上野への移転費用を得たという。

町田たちの行動は早かった。

前日に完成したばかりの上野の建物に

内山下町にあった膨大な展示品
およそ9, 000点を

外務省の予算を使って
一気に運び込んだのだった。

建物の2階は
町田たちの展示品で占拠された。

突然の出来事に内国勧業博覧会側は

2階を使用することを
諦めざるをえなかったという。

その年の6月に
博覧会の会議が終わると

町田は 博物館の準備を 更に推し進めた。

そして…

ついに 上野の博物館が開館。

10万点以上の膨大な所蔵品に加えて
動物園や図書館も併設した

一大博物館になった。

町田は晴れて 初代館長に就任。

当初の計画どおり

日本に大博物館を作る
という念願を達成したのだった。

ところが 町田は就任から
僅か7か月で館長の職を辞している。

原因は明らかではないが

博物館の方針を巡る
対立によるものだと考えられている。

博物館を去った町田は その後 出家。
仏門に入っている。

晩年を 滋賀県大津市にある
三井寺の僧として過ごした。

近年 町田ゆかりの品が
この三井寺で多数見つかった。

その中には 彼が文化財について

変わらぬ心を持ち続けていたことを
うかがわせる物がある。

説相箱とは 僧侶が用いる仏具で

法会や法要で読み上げる文書などを
入れておくもの。

正倉院の宝物をモデルに
町田が復元させた。

伝統的な技術や装飾に

多くの人々が触れられるように
したかったからだという。

このほかにも 荒廃した寺院の復興のため
寄付金を集め歩くなど 力を尽くしていた。

日本文化と深くつながった
仏教の世界に身を置きながら

残りの生涯 町田は
文化財の保護に取り組み続けた。

明治維新という時代の激変期に

日本初の大博物館の創設に
生涯をかけた町田。

彼の存在がなければ 博物館や
文化財を取り巻く この国の環境は

大きく変わっていたに違いない。

というわけで 町田久成は あくまで
理想の博物館建設の道を選びました。

完成までの道のりを見ますと こう…

うまくやったなっていう感じも
しましたけれど 岩下さん いかがですか。

やはり あの 明治政府の中での こう…

…という思いだったかなっていうふうに
思います。

やっぱり 大英博物館がね

彼の原体験だったんだろうなと思いますね
ロンドンに留学してね。

はいはい。

だから パリに行ってたらね
あるいは お~ すげえなって

そういうものになったか分かんない。
大英博物館だからね。

あれは やっぱり
ブルジョワが作り上げたものですから

それの この… 何て言うかな

それを全部集めて 展示するというですね
この原体験っていうかな

それが彼の中で とても
強かったんじゃないかなと思いますね。

行った国がイギリスだった
ロンドンだったからっていうのは

結構 影響ありますね。

中野さんは どうですか?
この選択を見て。

う~ん…

美術側の人間は いいものさえ作ってれば
売れるっていう信仰が

どこかにあるんですね。 受け入れて
もらえるはずだと思っているので

ロビー活動っていうのは 結構おろそかに
なりがちだという側面があります。

だけれども その

やっぱり 声を上げていくべきじゃないか
っていう ひな型が

町田久成の活動にはあったけれども

そこのタクティクスの部分だけを使うと

非常に このかい離が
より大きくなってしまうというか…。

ある意味ですね…

その前に 下野してしまった。

つまり 学芸員職っていうのが出るのは

あの~ 昭和26年の博物館法以降で

それ以前には 学芸員というのは
ないんですよ 日本には。

博物館作ることは
非常に大事なんですけど

それを支える人 専門職 学芸員
これをですね

まあ やっぱり
海外を知っている町田だからこそ

もうちょっと こう
頑張ってほしかったなっていうのが

私の まあ 正直なところですね。

物は集めたけど
そこで運用する人の体制

育てる前に辞めちゃってるわけですよね。

日本にね 一番ないのはね
キュレーターじゃなくて

僕ね コレキュレーターっていってる。

ああ 集める…。
キュレーターは

集めるということを もっと考えないと

大したミュージアムも
美術館もできないっていう意味でね。

ものすごくゴミみたいなものを集めても
傑作のミュージアムは作れるんですよ。

はい。
うん。

その時に 一番ね いいことは
私は 500年後の未来社会から

現代に ねっ 送られた

ターミネーターみたいな
タイムトラベラーだと考える。

ほう。
そうすると ねっ 今のものでですね

もう
がんがん捨てられちゃってるものは

これは重要なんだよ
取っとこうよっていうね。

そういう発想が来るわけね。

500年 未来からやって来るっていうのは
もう本当に共感ですね。

町田の取り組みは もう まさにそうで
後の時代になって効いてくるっていう。

僕が思うのは その…

まず民が楽しむようなことを作ったら

そこにお客が集まったり 価値が生じて
いい発想もできて

国が結果的にですよ 豊かになるという
富国が実現されるという。

お話聞いてて思ったのは 結構 その…

なかなか 今 価値があるように
見えないものに価値を見いだすって

難しいと思うんです。
それを信じる気持ちが。

これは絶対に将来
私が死んだあとかもしれないけど

価値が出るから いいものだって
自信を持って推せる力みたいなのって

何か なかなか育まれにくいなって…
お話聞いてて思ったんですよね。

だから 意外と 自分の感性なり
直感なり 印象なりをね

信じるってことは重要だと思いますよ。

あとは歴史を学ぶことじゃないですか。
うん。 それもありますね。

こういうものは必ず何年後に
評価されるようになってるっていう

例に満ちてるので。

歴史を学ぶって
めちゃくちゃ大事だと思います。

価値判断。

不易と流行って…
まあ 俳句の用語なってるけど

こう 変わらないものと

変わっちゃって
流れていくもんっていうのがあって。

流されてしまう弊害っていうのを
すごい町田たちは言ってて。

流弊っていうんですけど。
すぐ流されるんですよね 僕らの社会。

そこが日本人のいいところで
例えば 西洋化とかいったら

そっちへ流されちゃうから
うまくいくっていう面もあります。

だけど しばらくすると あっ しまった

あの時 あれ 残しとけば よかった
っていうのもあるわけで

取り返しがつかないことにならないうちに
守るっていうのを

やっぱり ちょっと引いた目で
冷静に町田さんが見てくれてる。

それで
そういうものの種をね まいてくれてる。

所詮 生命体としての個人は死んじゃうと。

死んじゃうんだけど
もっと永久なるものの価値を

次世代につなげて みんなを
楽しくするには どうしたらいいか。

町田の満足感ってね
晩年 大きかったんじゃないかと

思ってます。 ええ。

いや~ 面白かった…。
本当に こう 日本が置かれている

その文化の保護っていうことに関しての
課題も見えてきましたし

町田が成し遂げたことの偉大さ
みたいなものも分かった気がします。

皆さん ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。