こころの時代~宗教・人生~ オモニの島 わたしの故郷~映画監督・ヤンヨンヒ~[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

こころの時代~宗教・人生~ オモニの島 わたしの故郷~映画監督・ヤンヨンヒ~[字]

映画監督ヤンヨンヒさんは朝鮮半島と日本の歴史のうねりの中を生きる自分の家族を描いてきた。母親にカメラを向けた最新作「スープとイデオロギー」に込めた思いを聞く。

詳細情報
番組内容
ヤンさんの母親は南北分断が進む1948年に韓国済州島での大虐殺「4・3事件」を生き延びて日本に来た。北朝鮮の理想を頑なに信じ、ヤンさんの兄たちも”帰国事業”で北に渡った。ヤンさんのカメラがそこに秘められた思いを明らかにしてゆく。「私は北朝鮮も総連もタブーにしない。私は”腫れ物”じゃないことを人生をかけて伝えてきた」と語るヤンさんの過去の映画作品もたどりながら、家族と国家に向き合い続ける姿を描く。
出演者
【出演】映画監督…ヤン・ヨンヒ

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
福祉 – 社会福祉

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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

   ごあんない

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でも アボジが
オモニのこと好きになってんやろ?

アボジが
プロポーズしたんやんな?

映画監督 ヤン ヨンヒさん。

大阪生まれの在日コリアン2世です。

<こうして 2人は結婚した>

最強キャラだな。

北朝鮮と日本 今から半世紀前
国家によって一家は引き裂かれました。

北に渡る3人の兄を見送った時
ヨンヒさんは まだ6歳でした。

最近 大きな変化に気付いたんです。

ブルー 青色がOKになったんですよ。
ずっとブルーが苦手だったんですけど。

特に 日本海側の海だと

この海の向こうに お兄ちゃんいるって
いうので ぼ~っとなったり。

それが 最近ね 青OKになりました。

ハハハハハ… 何だろう
何か逆に 青の服が着たくなるぐらいに。

何か 一つ
ハードル越えた感じがしますね。

♬~

今年6月から公開が始まった
最新作「スープとイデオロギー」。

母親の壮絶な体験に向き合った
ドキュメンタリー映画です。

週末になると この映画の
プロデューサーでもある夫と

全国各地の映画館をまわる日々が
続いていました。

30歳で 初めてカメラを手にしてから

ヨンヒさんは 映画を通じて 家族に
そして自分自身に向き合ってきました。

26年かけて 自分の家族についての
ドキュメンタリーを 3つ作るっていう

アホなことをしたわけですけれども。

今から17年前 2005年に発表した
長編第1作「ディア・ピョンヤン」。

両親と 北に渡った兄たちを通して

それまで知られることのなかった
北朝鮮の姿が描かれています。

カメラを持つ ヨンヒさん。

両親と3人の兄 家族全員がそろうのは
30年ぶりのことでした。

あの真ん中のな 2番目の一番端に

真ん中あたりに 鉄格子あったろ。
あれが 俺んとこの炊事場や。

部屋は 向こう向きになる。

部屋のベランダは 向こう向きになる。

これだ!

♬~

I am happy! はははは…。

朝鮮総連の幹部だった父親の
70歳の誕生日を祝うパーティーです。

(拍手)

映画は 映像とともに ヨンヒさん自身の
ナレーションで つづられています。

<「まだ忠誠心を尽くし足りない」という
父の言葉に 私は混乱した。

自分の子供や孫たちを革命家に育てるのが
残された仕事だと 彼が言った時

その場から逃げ出したくなった>

どんな人が ええの?
どんなんでもええわ。

お前が好きなやつは。
ほんと?

アボジ 今のビデオで撮ったで。
証拠やで。 絶対?

どんな人でも
何にも言うたらあかんで。 よっしゃ~!

それ 「どんな人でもええ」にならへん。
フランス人やったら ええの?

フランス人やったらええの?
いや もう それは別や。

注文あんねやんか いっぱい。
うん。 一応は とにかくは。

ず~っと考えてきたのは
どうやったら この家族から解放され

在日ということ 女ということ
うちの両親の娘ということ

うちの
私の兄貴たちの妹であるということ。

その全てから どうやったら
解放されるんだろうって

ず~っと悩んできた。

その答えが 隠したり ごまかしたり
遠ざけてては 全然解放されないと。

もう向き合うしかない。

結局 自分についての 私の問いが
ず~っと続いてるんですよね。

だから 映像で見せてるのは
親だったり家族だったりしますけど

一貫しての本当の主人公というのは 私で
私が私を知りたくて

ずっと映像作品を作ってるって
いうふうにも言えると思います。

1964年 大阪・生野区。

かつて 猪飼野と呼ばれた町で
ヨンヒさんは生まれました。

1910年から始まった 日本の植民地支配。

戦前から この町には 今の韓国の南にある
済州島の人が 多く暮らしていました。

大阪への定期航路が開かれ

「君が代丸」と 名付けられた船で

島の人たちが
続々と 大阪に やって来たのです。

ヨンヒさんの父も その一人です。

1945年 終戦。

その後 朝鮮半島は 38度線を挟み
南北に分断。

南には
アメリカの後ろ盾を得た大韓民国。

北には ソ連が支援する
朝鮮民主主義人民共和国が誕生。

国内でも北を支持する 朝鮮総連。

南を支持する 民団が誕生。

在日社会にも 38度線が生まれます。

ヨンヒさんの父親は
民族学校の設立など

在日コリアンの権利を守るために
積極的に活動していた総連を選びます。

キム イルソンの教えのもと
身を粉にして組織の活動に励みました。

そして 同じ済州島にルーツを持つ
日本生まれの母親と結婚。

3人の兄と ヨンヒさんをもうけました。

すごく民族差別がきつい
日本社会の中ではあるけれども

それに対する反骨精神も含めて

伸び伸びと生きていたと思うんです。
私の両親は。

堂々と 朝鮮人として生きたいっていう
思いが 強烈にある人たちなので

恥じるな いじめる人が もしいたら
そんなの相手にするなとか

そんなんと
友達にならなくていいとか

もしくは アボジに言え
オモニに言いなさい みたいな

私たちが戦ってあげるみたいな
ぐらいの親だったので。

それは すごく
ベースになってると思います。

自己肯定という意味では
これは もう一生 私のベースになってる。

働き者の母親は
レストランを切り盛りしながら

活動家の夫と
家族の暮らしを支えました。

ヨンヒさんは 両親の愛情を存分に受け
兄たちとともに育ちました。

兄3人いますけど
下の兄は 庶民的な兄貴なんですよ。

たこ焼き食べに行って
お好み食べに行って 吉本新喜劇を見て

そういう兄貴たちだったんですけど

長男のコノ兄は クラシックと

本当に おいしい豆のコーヒーさえあれば
生きていけるみたいな人で

何で ああいう人が あの鶴橋の家で

キム イルソンの肖像画の下で育ったのか
ちょっと よく分かんないんですけど。

5~6歳の私にも いつも このでっかい
ヘッドホンを ワッて つけてくれて

ワーッと ベートーベンとか
鳴ってるわけですよ。 ショパンとか。

とにかく いい音楽を たくさん聴くと
心が きれいになるんだよとか

いい映画を たくさん見ると
頭が良くなるんだよっていうのを

呪文のように 妹に言う兄貴だったので。

そんな幸せな家族の日々が
突然 終わりを告げます。

1959年から始まった帰国事業。

当時 北朝鮮は「地上の楽園」と呼ばれ

9万3, 000人余りの在日コリアンと
その家族が 北に渡りました。

1971年 次男と三男が
自分から希望して帰国します。

その数か月後 朝鮮総連から
思いもよらぬ知らせが届きました。

「長男も帰国させよ」という指示でした。

長兄は 自分で 北朝鮮に行くと決心して
行ったわけではないので

キム イルソンの
60歳の還暦の誕生日祝いということで

朝鮮大学校の学生をささげるみたいな

私は 人間プレゼントと
呼んでますけれども

そのプロジェクトのために
200人ぐらい 指名されるんですね。

赤紙かっつう話なんですけど

指名されて 君は いわゆる
帰国をしなさいと 片道切符で。

やっぱ寂しいとか 北朝鮮に行ってほしく
なかったとかを言えなかったですし

「栄光の帰国」みたいな
とても肯定的な帰国事業に対する

フレーズに 囲まれて育ったので

帰国事業によって
お兄ちゃんと離れ離れになることが

私は 嫌だっていうふうに言えなくて。

「お兄ちゃんたち偉いな」って
言われたら 「はい」とか。

「ヨンヒも お兄ちゃんたちみたいに
なりな」とか言われたら

「はあ はあ」みたいな。

どういう壊れ方をしたのか
幼い私がとか 私の家族がとか

やっぱり
よく分からなかったんだと思います。

もっと分かりたかったんだと思います。

帰国事業によって 兄と離れ離れになった
悲しみを押し殺したまま

ヨンヒさんは 民族学校に通います。

優等生として ふるまっていましたが
心の中では 葛藤を抱えたままでした。

あなたは 愛国的な家庭で育ち
朝鮮総連の親の下で

お兄さんたちも みんな ささげた家庭の
一人だけ残った娘だから

だから 立派な朝鮮総連の
働き手になりなさい みたいな。

そこに 私のチョイスは ないって
言われたんですよ。

そっからですね
私の苦悩が始まったのが。

学校の外での
文化の影響だとは思います。

やっぱり 日本の特に欧米の映画を
毎週 映画館 通いまくって見てましたし

演劇を見てましたし

結局 学校で教える全体主義と

学校の外で自分が得る
個人主義の衝突だと思うんです。

あと反発とも言えると思う。

親は自分で選んだわけだし
お兄ちゃんたちは もう行ってしまって

あの制度の中
北朝鮮に もう入ってしまったので

でも 私は日本にいるので
日本で暮らしてる 私に

何で人生を自分で選ぶ 選択する権利が
ないんだっていうのは納得できなかった。

しかし 総連幹部の娘として
ヨンヒさんは 朝鮮大学校に進学。

卒業後も 組織に従い
朝鮮学校の国語の教師になります。

当時 家族の中で 父親以上に
複雑な感情を抱いていたのが母親でした。

長男が 北朝鮮に渡ったあとは
仕事も辞め 総連の活動に専念。

北への仕送りが 生きがいでした。

何が 一番喜ぶ?
(笑い声)

商売できるんちゃうの?
オモニ これ持っていって。

<母の愛情に支えられて
息子 孫たちは 元気に暮らしている。

でも 母は 人から聞かれると

「祖国のおかげ 将軍様のおかげで
子供たちは元気です」と いつも答える>

母が荷造りをしてる姿を見るのが
すごい嫌だったんですね。

心の中では 偉い母親だな すごいな
母の愛情って すごいなって

もう ほんとに こんなお母ちゃん いない
っていうぐらい思ってましたけど

私が荷造りしてますから 大丈夫ですって
言えばいいのにって ほんとに。

それを 一度も聞いたことがないんですよ。

私が ちゃんと送ってますからって
言えばいいのにって。

でも 祖国のおかげ 主席様のおかげ
うそつけって思うんですよ。

何が 主席様のおかげだって
お母ちゃんのおかげやんかって。

お母ちゃん一人で
何人 食わせてるんだって。

母は かたくなに 北朝鮮に対する批判を
受け入れない人だったんですね。

だから 私が もっと反発心もあって

だから すごく大事に育ててもらった
部分への感謝と

北朝鮮に対しては かたくなに
愚痴も許さないというような支持と

あと 韓国に対する生理的なアレルギー
というほどの 絶対的な拒絶みたいな

否定みたいなのが 母は
すっごい はっきりしてたんですよ。

父を見てると ある程度 こう

ああ 一度 人生の生き方として
選択をしてしまったから

全部 ひっくり返すわけにもいかないし

自分の過去 人生
否定するわけにもいかないし

この人 ずっと こうやって
生きてきたんだから

こうやって 生きていくんだなっていう
ぐらいでは 何となく分かったけど

母の あのかたくなさ
徹底したところに関しては

私は やっぱり ちょっと
ついていけないなって思ってたんですが。

あとは まあ そうしないと
もたなかったのかなと。

同じ頃 長男のコノさんも
苦しんでいました。

母親からの仕送りのノートに
書き記した文集。

大阪で通い続けていた
音楽喫茶の思い出。

クラシック音楽への憧れが

繊細な日本語の文字で
書かれていました。

当時 北朝鮮では クラシックなどの
西洋音楽は禁じられていました。

コノさんは 持ち込んだ
日本のレコードや機材が摘発。

資本主義的だと
厳しい自己批判を強いられ

監視の対象となります。

コノさんは 精神を病んでいきました。

当時 日本でね うつ病っていう言葉が
取り沙汰され始めた頃だったんですよね。

雑誌とか いろんなところで
特集が あったりとかして。

ああ こういう病気があるんだとか
抗うつ剤というものがあるんだとか

そういう本も いっぱい買ってきて
母と一緒に読んだり

あと 母と一緒に そういう
日本の精神科の先生のところに行って

何とか 薬をね 北朝鮮に送る薬を
もらえないかとか。

何か そういう相談をしに
母と一緒に行ったりとかはしてましたね。

3人の兄の人生を描いた
ノンフィクション「兄 かぞくのくに」。

帰国してから ちょうど20年がたった
1992年 ピョンヤンのレストランで

コノさんの姿を見た時の衝撃が
記されています。

立ち上がって ワーッて大声で
交響曲を歌い始めたんですよ。

で 私は びっくりして

最初 冗談かなと思ったけど
すごい本気なんですよ 本人は。

結局 お兄ちゃん 目がギラギラしてるし

お兄ちゃんの目の前には
もう 交響楽団が見えてるし

すんごい音響で 音が この人の耳には
今 響いてんだなっていうのが

私には 分かったので。

この人の人生は
何だったんだろうって すごい思って

自分の中から
一切の今後の人生において

何かのために 誰かのためにっていうのは
持ちたくないと思いましたね。

会社のために 組織のために 国のために。

その3年後 ある出来事がきっかけで
人生が動きだします。

当時 朝鮮学校の教師を辞め

大学時代から続けてきた演劇に
取り組んでいたヨンヒさん。

知り合いのビデオジャーナリストから

自分でカメラを回し 映像で
表現してみないかと勧められたのです。

ずっと10代 20代の
自分の中での鬱積した疑問とか

やっぱり 私は こう思ってんのに

何でそれを言っちゃいけないんだっていう
押さえつけられる何かが

それに対する
私の抵抗みたいなのもあったし…。

表現方法を探してたんだと思います。

ヨンヒさんは
買ったばかりのカメラを手に

すぐ 北朝鮮に向かいました。

ピョンヤンに着いて 最初に撮影したのが
初めて会う 姪のソナでした。

以来 何度も北朝鮮に通い
撮影を続けました。

当局の検閲は 家族のホームビデオ
ということで押し通しました。

撮りためた映像を
どうやって作品に仕上げてゆくのか。

ヨンヒさんは 決心をします。

父親の大反対を
押し切って アメリカに留学。

ニューヨークで
6年間 映像について学びました。

ニューヨークでの経験は
新たな視点を与えてくれました。

自分の家族だとか
自分のバックグラウンドだと思うと

もう ただただ重いし
悩みの種みたいになるのが

ちょっと突き放すと
ネタとして面白いというか

ユニークな家庭だと 家族だと。

ネタって言葉がね
よくないかもしれないですけど

いろんなイシューが溶け込んでいて

一つの対象として見ると
うちの家族の上に

ダーッて 日本と半島の地図が見えて

分断が見えたり
歴史が わ~っと 歴史の年表が見えて

うちの家でも
2階の親の部屋は 東ドイツで

3階の私の部屋は
西ドイツだって言って

廊下をね ベルリンの壁だって
私は呼んでましたけど

そういうふうに
1軒の家の中にも 38度線があって

ベルリンの壁があって みたいな
そういうモザイクが わ~って

私の家族の写真の上に 見えた時に
何か もう オーマイガーみたいな

これ 作らない手はないなと思って

で 同時に 家族を見つめるっていうのは
結局 自分を見つめることだと。

どういう作品にしたいかっていうのを
考えた時に

やっぱり
何とか残る作品を作りたいと思って

この1本 作るためだけにでも
ニューヨークに留学をしたいと思いましたね。

その1本で
映画 作り終わるかもしれないし

この1本から
始まるかもしれないけれども

それぐらいの1本を作りたいと
思いました。

「もう あとがない」。

覚悟して作った
「ディア・ピョンヤン」は 国内外で絶賛。

しかし その一方で ヨンヒさんは
北朝鮮から 入国禁止を言い渡されます。

総連からは 謝罪文を要求されましたが
拒否しました。

自分のバックグラウンドや 家族を
ダイレクトに扱って

ましてや ドキュメンタリーで
家族の名前も顔も 全部出しながら

それを晒すっていうことですから
作品にして。

世界中に ばらまくというか。

自分が選んでやってるので もちろん
これは愚痴でもないんですけれども

しんどかったのは 事実ですね。

被写体になってる人がいる北朝鮮で

私の作品のために
罰則を受けるかもしれない。

人生 影響されるかもっていう
そのプレッシャーとか 罪悪感みたいなものは

すんごい しんどくて

それでも やりたいのか
それでも やるのかの自問自答を

20年以上
やってきたっていうことですし

すごい極端な言い方をすると

じゃあ 私が作品を作り続けてたら
お兄ちゃんたちが収容所に入れられると。

どうしますかって言われたら
じゃあ 私 どうするんだろうみたいな。

(スタッフ)どうするんですか?

これね じゃあ やめますとは
言いたくないんですよね。

それで ずっと今まで
口封じしてきたんじゃないか

みたいなところがあるんですよ。

家族が 北朝鮮にいるからっていうので
本当のことを言えないとか

知ってる たくさんのことを
言えないとか

もう そういうの ほんとに
終わりにしたいなっていうのがあって。

正義感とかじゃなくてですよ。

私が言うこと 私が表現することが
気に入らないんだったら

私に文句を言えばいいわけだし。

もちろん たかが映画ですから 気に入る
気に入らないは あって当たり前で

そんなの いちいち こっちが
責任とれるわけじゃないんですけど。

じゃあ 収容所に入れられても

「あなた 映画作るんですか」って
言われたら 「作りますよ」とは

明るくは言えないですけど
でも 「だったら やめます」とは

言いたくないっていうのは
すごくありますね。

と ここまで言えるようになったんです。
ずっと自問自答して。

すごい 残酷なことです。

でも すごい残酷な
それぐらいの決心がないと

こういう作品は 作れないですね。

北の兄に 会えなくなっても

ヨンヒさんは 映像を通じて
家族を描くことを諦めませんでした。

2011年 初めての劇映画に挑戦します。

脚本は ヨンヒさんの実体験をもとに
自ら書きました。

三男に 腫瘍が見つかり
両親の5年越しの訴えが実って

日本で
治療が受けられることになりました。

1999年のことです。

ニューヨーク留学中だった ヨンヒさんは
撮影機材一式を持って帰国しました。

しかし…。

やっぱりビデオカメラ回すわけにはいかず
それは とても邪魔なわけですよ。

このビデオカメラが。

何かもう この兄の滞在すべてを
破壊してしまうなと思ったし

結局は せっかく日本に来れたのに
この日本に来てまで 緊張させたりね。

言ってはいけないこととかって

いろいろ いつも
神経とがらせさせるっていうのが

やっぱ
これは やっちゃいかんなと思って

もうビデオカメラは 兄の滞在期間中は
一切持たないって決めて

この私の目をカメラだと思って
記録しておいて

まあ いつかは
いつか劇映画にできるかなあ ぐらいに

できればいいなあ ぐらいに
思っていたんですね。

映画「かぞくのくに」は

病気治療のために 25年ぶりに
日本の地を踏んだ兄と家族の物語。

ヨンヒさん自身を投影した妹
リエを演じるのは 安藤サクラ。

重要な役である
北朝鮮から同行した 監視人を

韓国の俳優
ヤン イクチュンが演じました。

ヨンヒさんは これまで
ドキュメンタリーでは描けなかった

重い事実に踏み込みました。

今後 例えば 例えばな。
うん。

指定された誰かに会って
話した内容を報告するとか

そういう仕事する気あるか?

仕事?

オッパに そんなこと言わせた
上の人に言っといて。

「妹は 我々とは相反する思想を持った
敵です」って はっきり言っといて。

きょうだいで 何で こんな会話をしなきゃ
いけないんだっていう

この… どこに ぶつけていいか
分かんない怒りというか

何ちゅう会話をさせるんだっていう。

本当 クソみたいな 国なのか制度なのか
組織なのか 何か分かんないけど

それを また ぬけぬけ言う
お兄ちゃんも情けねぇなと思いながら

でも ほんと お兄ちゃん
かわいそうだなと思って

でも ここで 私は自分の人生を
守らなきゃと思って

絶対に そんな仕事はしない。
二度と そんな話は聞きたくないし

妹は 思想的には敵です。
そういう妹ですって

きっぱり言っといてって言って。

それにもめげず お兄ちゃんが
私を説得しようとしたら

どうしようかなって思って
怖かったんです。

ほんと 心臓バクバク バクバクして
頼むから説得しないでくれって。

そしたら お兄ちゃんが 「お前
かっこいいな」って 言ったんですよね。

「自分の考え はっきり言えて
かっこいいよ」って言ったんです。

私が 「ごめんな。 お兄ちゃんの役に
立てなくて ごめんな」って言って。

でも 私が 1回 断った時に

それで すんなり「分かった。
もう この話はしない」って

「お前 かっこいいな」まで言ってくれた
お兄ちゃんには

すごい感謝をしましたし

お兄ちゃんが 何か罰せられたり
批判されたりしないことを望みつつ

残酷な妹だなということも自覚しつつ

でも これで 私は こうするしかないって
いうふうにも思いましたし。

あなたも あの国も大っ嫌い!

「あなたも あの国も大っ嫌い!」っていう
安藤サクラさんの あのシーンも

この映画を作る理由の一つで
あのセリフを言いたいっていう。

もう一つは
あのセリフ以上に言いたいのが

「でも そこで 僕ら死ぬまで
生きるんだよ そこで」っていうね

「その国で 僕もあんたの兄貴も
生きるんだよ」っていう

現実を突きつけられた時の
あの勝てなさ感というか。

だから 安藤サクラさんの
あの純粋さっていうのは 子供なんですよ。

子供だから 正直に
ダイレクトに ぶつけるっていう

それは もろ私なんです。

ほんと ガキなんですよ。

だから 腹を立てるし
地団駄 踏むしみたいな

言うことによって
はね返ってくるっていうか

それが もろ私じゃないですか。

やりたいこと やってるとかって
言ってるけど 笑いながら

でも やりたいことやるおかげで
家族にも会えないしとか

毎晩 うなされるし みたいな
はね返ってくるわけですよ。

それは 私の現実でもあるし

あの 地団駄 踏んでる
サクラさんを見た時に

「ああ 今 映画を作ってる私が
これなんだな」と思いました。

私の映画は
地団駄なんだなと思いました。

何も現実も変えられないしね。
ジタバタしてるだけなんです。

誰も痛くも かゆくもないし
一人で ジタバタしてるだけなんだけど。

すごく深い 静かだけど すごい深い怒りが
根底にあります あの作品には。

明日 戻ることになったよ。

日本に来て1週間
3か月の滞在のはずが

突然 帰国の命令が
本国から届きます。

何 言ってるの?

これも 実際にあった話でした。

母親は 毎日 小銭をためていた
貯金箱を開け

監視人への贈り物を用意します。

個人って どう あがこうが

そういう社会のシステムとか
国家体制とかには 勝てないですよ。

一人で あらがえないというか。

ここが 全体主義の国じゃないから 私は
こういう生き方が できてるんであって

私が いくら全体主義が嫌だっつっても
全体主義の国に もし生きてたら

従うか 死ぬしかない。 もしくは
逃げるかっていうことなんでしょうけど。

でも 映画の中では
全体主義に 勝たせたくないんですよね。

やはり ヤン イクチュンの演じた
監視人に対して

母親が スーツとか用意した
その母親の賄賂なのか 真心なのか

微妙な愛情と したたかさがこもった
あれに接したあとの

監視人の視線というか 目の表情みたいな
家族の写真を ずっと見ながら

キム イルソンの肖像画を見ますけど
その時は

何か 命令に従わなきゃっていう
目で見てないんですよね。

もう この家族の写真を見たあとで
あれ見た時は しらけてるっていうか

ちょっと
こっちが勝ってるんですよ やっぱり。

本当に 兄たちのためを思うんだったら

北朝鮮に 一切関係ない作品を作る方が
一番 多分 平和で安全なんでしょうけど

いろんな国のことを
私たちが知ったうえで

例えば アメリカに魅力を感じる
フランスに魅力を感じる

いろんな国に対して親近感を持ったり

その国の人に対して
理解が深まるっていうのは

別に プロパガンダ的な いいことだけを
聞いてるからじゃないと思うんです。

そうなると
逆に しらけるじゃないですか。

その国の実情とか いろんな人々の
苦悩を描いた小説とか 映画とかを

たくさん たくさん見れて

その中で 私たちとの共通の部分と
違うのを いっぱい発見して

分かり合って 友情も深まりって
いうものだと思うんですよ。

「かぞくのくに」を作った時
たくさんの人に言われたんですよ。

「あんな映画 作っていいんですか」って
みんな 声をちっちゃくして

それは 総連系の人にも言われましたし
日本の映画会社の人にも言われましたし

だって ハリウッドも みんな自分の国の
バカバカしいところを描いてるし

政治の腐ったところも描いてるし

韓国映画も みんな描いてるし
そんなこと言わないじゃないですか。

何で 北朝鮮を描くと
そう言うんですかっていう話で。

それは やっぱ 別枠で見てるってこと。

あそこは アンタッチャブルだからって
ことでしょう。

腫れ物にしてるってことですよ。

私は 腫れ物にしてないから

私は フェアに扱ってるだけの
話だと思うんですよ。

腫れ物にしたくないんです。

何でかって言ったら
あたしが腫れ物になりたくないんです。

あたしは 腫れ物じゃないっていうことを
人生懸けて ずっとしゃべってんですよ。

カモーンって感じですよ ほんと。

腫れ物じゃねえんだよ。 触れよ
もっとって 触ろうよって 話ですよ。

北朝鮮も帰国事業も
在日も朝鮮学校も 総連も脱北も。

…でこそ 知り合えるってことだと
思います。

いいとこだけ見せて
権利を主張じゃなくて

こんなとこで 悩んでますねん。
こんなに大変なんです。

ここ苦しいんですって 見せないと。

…だと思っています。

腫れ物にしたくないんです。

うちの親の生き方も
うちの兄たちの存在も 私も。

「かぞくのくに」は
ベルリン国際映画祭をはじめ

世界中で高く評価されました。

堂々と世界の舞台に立つ ヨンヒさん。

しかし その陰で
身も心も追い詰められていました。

2009年7月。

映画のすばらしさを教えてくれた
長男コノさんが 病気で亡くなります。

4か月後には 父親も他界。

遺骨は 母親が
北朝鮮まで持って行きました。

兄にも会えず
父親の墓参りも かなわない日々。

借金までして 北に仕送りを続ける
母親とは いさかいが絶えませんでした。

私一人では もうね
マックスだったんだと思います。

自分を支えるのもそうだし
この家族の物語を作品にするうえでも

多分 バーンアウトだったんだと思います。

死にたいって泣いてたんですよ。

私は かわいそうとかじゃなくて

でも 死ぬ勇気がないのも
分かってたけど。

一方では やっぱり 北にいる人ほどの
しんどい思いはしてない。

私としては
何か ギルティーがあると思うんですよ。

でも そのギルティーを感じちゃうと
私の生活が壊れる。 もっと壊れるので。

「かぞくのくに」のあと

映画監督として
新しい作品を発表できないまま

10年の歳月が流れました。

この苦しみを とかしてくれたのは

兄たちが北に渡った時から わだかまりを
抱えたままだった母親でした。

怖かったでえ あっちこっちから
射撃の音が バーンバーン。

たくさん殺されたね。

学校の校庭に 強制的に引っ張って並べて
機関銃で ダダダダダ…。

学校の校庭で?

母親が語り出したのは

ずっと封印していた
18歳の時の壮絶な体験でした。

終戦間際 母親は空襲を逃れて

大阪から 自分の母の故郷
済州島に疎開していました。

それから3年。

朝鮮半島に アメリカ ソ連
それぞれが支援する

2つの国家が生まれる前夜
1948年4月3日。

済州島で 南北分断を決定づける

南での単独選挙に
強く反対する声が上がり

武装蜂起が起きます。

これに対し 軍や警察が激しく弾圧。

死者 行方不明者は
合わせて 3万人に上りました。

<動く人影には
無条件で発砲せよという作戦を立て

赤狩りの名のもと
島民を無差別に殺した>

4・3事件は 韓国現代史のタブーとして
長く歴史の闇に葬られてきました。

1980年代後半から
韓国の民主化が進み

真相究明や
遺族補償の動きが始まります。

日本でも 遺族会が誕生。

4年前には 済州島から
多くの人が逃れてきた大阪に

慰霊碑も建立されました。

済州島に帰った母親は

日本で受けたような差別もなく
結婚を約束した恋人もできました。

ここでの幸せな暮らしを
思い描いていたやさき

4・3事件が起きます。

婚約者は亡くなり
母親は幼い弟 妹を連れて

密航船で 再び大阪に戻ったのです。

ず~っと 4・3のことを語らずに

アボジは 42年に日本に渡ってきたし
私の父は。

母は 大阪生まれなんで
4・3の本を読んでましたけど

うちの両親は
直接的には関係ないんだなって

ずっと思ってましたし

母に聞いても「あ 知らん知らん」とか

済州島 行ったことないとか
最初は言ってたんで

行ったこと…
1回も行けへんかったんやね。

「1回 行ってみたい?」とか聞くと

「あっ ちょっと おったとか
ちょっと住んでたことがあんねん」とか

最初は
そんな適当な言い方をしてたんですね。

父親が亡くなってから
1人暮らしになった母は

娘が帰ってくると ポツリ ポツリと
済州島の思い出を語るようになりました。

ヨンヒさんは 記憶の断片のような
母親の証言を記録し始めます。

しかし どうやって作品にするのか
答えは見つかりませんでした。

そんな時 一人の日本人が現れます。

編集者をしている今の夫
荒井カオルさんです。

「ディア・ピョンヤン」を 何度も見て

ヨンヒさんの生きざまに
心を動かされたと言います。

初めて 荒井さんが 母親に挨拶に来た日。

40。
40個 青森ニンニク40個。

結婚するなら朝鮮人と
言い続けていた母親の姿に

ヨンヒさんは驚きました。

自慢の済州島の鳥スープを
作り始めたのです。

来はったよ。 暑いのにスーツ着て
スーツ着て来はったわ。 どうぞ。

こんにちは はじめまして
荒井カオルと申します。

荒井が 母に会った日
私は カメラマンでしたが

正直すごく衝撃を受けたし
感動したんですよね。

母の荒井に対する態度にもそうだし
荒井の母に対する態度にも

何か ほんとに
外交官かよっていうぐらい

争いごとのネタになるような会話は
一切せず

いらん質問もせず いらん説明もせず

平和を保つためだけに
ニコニコしながら

お互いを気遣い合って
ごはんを食べて別れるっていうね。

東京に戻ってきたら

お母さんには オモニには
長生きをしてもらうって言ったんですよ。

長生きしてほしいじゃなくて
長生きをしてもらうって言ったんです。

俺が そうする みたいな
言い方だったんですよ。

私 びっくりして 何かもう
家族になる気満々なわけですよ。

この人 すごいなぁと思って

そっから この2人を ずっと
ちょっと撮りたいと思ったんですね。

日本人 ダメだって言ってた
うちの母が

この日本人の荒井と
本当に 見事に どんどん近くなって

家族になっていく様子が

家族って
ほっといても なるものじゃなくて

お互いの努力によって
家族になっていくもんなんだなって。

血が つながってるとか そういうので

ふんぞり返ってちゃ
いけないんだなみたいなね。

もっと言うと 家族って
やっぱ すごい面倒くさくて

鬱陶しいものでもあるけれども

何か すごい いいもんだなって
初めてかも… 思ったんですよね。

どうも。

<韓国済州島から
済州4・3研究所のメンバーが

聞き取り調査のため 母に会いに来た。

1948年に起こった
大量殺りくの体験者を訪ね

日本でも インタビューを続けている>

<この日を境に 母の認知症が劇的に進み
いるはずのない家族を探し始めた>

アボジは 何してんねやろ。

アボジはね アボジはね

え~ アボジは アボジ
もうちょっと遅く帰ってくるわ。

今度 アボジと会うてね言わな
アボジと いっぱい飲まなあかんな。

歌 歌うて。

2018年4月 ヨンヒさんは 母親を連れて

あの日から 70年がたった
済州島を訪れました。

プロデューサーとして
映画づくりを支えてくれる夫も一緒に

消えゆく母親の記憶を
受け止めたいと考えていました。

知ってる人の名前あるかな?

犠牲者が多いんやね。

<70年前 この道を歩いた母は

無残に殺された村人たちの遺体を見て
涙があふれたと言った。

母たちは
警察の検問をくぐり抜けるため

散歩を楽しむ兄弟を装い 歩みを進めた。

どれほど怖かっただろう。

18歳の母は どんなに勇敢だっただろう>

「スープとイデオロギー」には
一切 出してないんですが

今まで
どの映画でも語ってないんですけど

実は 母の実の兄 弟じゃなくて兄がいて

その母の兄が 日本兵として戦地に行き
南方の方に 島に行き

で そのまま帰ってきてないんですね。
いまだに 戦死の知らせもないまま。

生まれ育ったところも
自分の国と思うには なかなか厳しい。

親の故郷に行ったら
そこは もっと残酷なことがある。

自国民によって… 同士殺し合う
みたいなのを目の前で見るわけですし

婚約者を失い また日本に来て

それで 日本でもない
南でもないってなって 北を信じた。

息子たちまで 全部送ったら
パラダイスじゃなかったってことで

一番上の息子は
精神を病み 自分より先に死ぬと。

母は ほんと強烈に 故郷とか祖国
母国を持ちたかったんだと思います。

でも 最後に信じた北朝鮮を失うわけには
いかなかったんだと思います。

その中でも 本当に気丈に愚痴らずに

笑いながら生きてきた精神力っていうのは
ほんと すごいなっていう。

50代後半になって

初めて 自分が避難民の娘だっていう
難民の娘だっていう

私の新しいアイデンティティーの
発見にも つながるわけですよね。

それも すごく どういう生きざまを
経てきた人の娘かっていうのを

もう一つ 踏み込んだ次元で
分かるっていうのは

すごい大事な 貴重な体験で

自分が何者の娘か みたいなのを
はっきり分かるっていうのは

すごい自信につながる。

深く分かるっていう 知るっていうことが
自信につながるってことです。

だから 何で オモニは 韓国に対して
こう思うんだろうという疑問ではなくて

その私なりの そのやっぱりパズルが
埋まるっていうか 答えっていうか

子供に 自分が何者かっていうのを
しっかり伝えるっていうのは

そういう子供に親を知り
親と自分の人生の つながり方を知り

それは 歴史というんだと思うんですが

きっかけと 道しるべみたいなのを
もらったと思ってます。

済州島という
私が生まれた場所ではないけれども

でも 私が 故郷と思いたくなるような
場所を もらったような気になりますね。

3年間という時間は
長くはないけれども

でも やっぱり母の人生において

あの3年間の済州島っていうのは
すごく長いし

あたしにとっての 母と過ごした
済州島の数日間っていうのは

やっぱり強烈に 今後 私の人生に
影響していくと思うので

そのお陰で すごい近しく思える場所。

生まれ育った大阪以上に 恋しいみたいな
気持ちになってるところはありますね。

少なくとも 短い時間でも 母がやっぱり
必死で 何か青春を謳歌して

また生き延びようと
必死に闘った場所なので。

最近 大きな変化に気付いたんです。

ブルー 青色がOKになったんですよ。
ずっとブルーが苦手だったんですけど。

海関連が 全部苦手だった。

悲しいとか 別れとか
そういうイメージなので。

それが最近ね 青OKになりました。

一つ ハードルを越えた感じがしますね。

最新作「スープとイデオロギー」は
韓国での公開も始まっています。

ブルーが大丈夫になったんで
着てみましたよ これみよがしに。

♬~

既に 次回作の企画は 頭の中にあります。

日本とピョンヤンを舞台にした劇映画。

これから シナリオの執筆に入ります。

だから 彼と出会って
本当に何て言うんでしょうね

笑うようになった。 これはね
韓国のスタッフに言われたんですよ。

明らかに 死から遠ざかったと思いますよ。
この5年で。

死にたいと考えなくなりました。

死にたいと考える回数が
ダダダーッと減って なくなりました。

ほんとに 短期間の間に
彼と つきあい始めて。

だから まずは「スープとイデオロギー」を
作らなきゃいけないんだということで

作品を作るんだと。 あなたの仕事
作品を作ることじゃないかって言って

すごい励ましたんですよ。
今 作り終わって

次は また次の映画を作るんだ
みたいなことで励ましています。

創作しながら 生きるんだ。

うちのお母ちゃんみたいな人を
主人公にね

コメディーみたいなのを
作りたいですよね。

エキセントリックに
肖像画 毎日磨いてみたいな

そういうこう 「あのおばちゃん
ちょっと おかしいねん

ちょっと 北好きやねんで」みたいな人
なんやけど めっちゃええ人なんですよ。

めっちゃ ええ人で
近所の人にも良くしてあげるんだけど

何か いろいろ 心に秘めたことがあって
やっているような

そんな おばちゃんの話
できないかなと思ってみたりね。