こころの時代~宗教・人生~ 被爆者とともに40年歩んで[字]…の番組内容解析まとめ
出典:EPGの番組情報
こころの時代~宗教・人生~ 被爆者とともに40年歩んで[字]
村田未知子さんは東京の被爆者団体で相談員となって40年。原爆を体験し苦しみに耐えてなお生きる人々に「人間の美しさ」を見るという。被爆者に寄り添う日々を見つめる。
詳細情報
番組内容
村田未知子さんは東京の被爆者団体で相談員となって今年で40年。都内に暮らす広島・長崎の被爆者やその家族などから年間一万数千件もの健康や法律に関する相談が持ち込まれる。東京生まれの村田さんが人生をかけてこの仕事に取り組むことになったのは、原爆の地獄を体験し、戦後も多くの苦しみに耐えてなお生きる人々に「人間の美しさ」を見たからだという。相談の現場に密着し、被爆者たちに寄り添う村田さんの日々を見つめる。
出演者
【出演】被爆者団体相談員…村田未知子ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
福祉 – 社会福祉
テキストマイニング結果
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♬~
(村田)あっ 深堀さんですか?
すいません 昨日 お電話頂いたようで
失礼しました。
はい。 は~い はい。
ああ ご無沙汰してます~。
そうすると その皮膚がん
出しておいたほうがいいですね。
あの 今 膀胱がんのほうは
落ち着いてらっしゃる 経過観察のほう。
あ~ よかった。 もう膀胱がんのほうは
落ち着いていれば更新しなくてもいいし。
皮膚がんのほうだけでいくということで。
うん でも
久々に深堀さんの声 聞いて 私も安心。
フフフフフ…。
東京で 被爆者団体の相談員を務める
村田未知子さん。
40年間 原爆が人間にもたらす被害を
見つめてきました。
がんは がんでも 要医療性っていってね
お医者さんの治療が
経過観察 必要ないよっていうと
だめになっちゃう場合が多いんですよ。
その時は またお電話頂ければ。 はい。
はい はい はい こちらこそお大事に。
は~い どうも~。 はい。
どうして こうやって次々
がんが出てくるんでしょうね 被爆者って。
鼻の横に皮膚がんだって。
この方 ご主人も がんで。
ご主人のお手伝いもしたんですけどね。
♬~
彼らを間近で支え続けた女性が語ります。
そこには 苦しみから立ち上がり
誰かと手を携えようとする
人間の姿がありました。
♬~
77年前 日本に投下された
2つの原爆。
かろうじて生き延びた被爆者も
過酷な人生を強いられました。
戦後 大勢の被爆者が
広島 長崎から東京に移り住みました。
ここ「東友会」は
東京の被爆者たちの相談を
無料で受け付ける団体です。
持ち込まれる相談は…
東京都からの委託を受け…
今から 77年前 広島と長崎に投下された
原子爆弾によって…。
今も役員のほとんどは被爆者です。
被爆者として国が認定した証しの手帳。
認定には 証人や証拠が必要で
東京にいると
手続きは容易ではありません。
現在…
OKです。
今日 東京都にお知らせが来たみたいで
来週の半ばぐらいには…
あっ ご無沙汰してます
東友会の村田です。
通った 通りました!
東友会一のベテラン相談員が
今年 勤続40年になる…
この人なんかは却下されたんで…
申請いつかな?
最初に申請したの6月ですね。
村田さんたちが これまで相談に乗った
被爆者の記録は
「カルテ」と呼ばれるファイルに
収められています。
その数 およそ5000人分。
本人と遺族の許諾が得られた
カルテの一部を見せてもらいました。
これは一番古いものですけれども…
これ 消してありますけど 当時は
聞ける方は聞いて したということ。
…ということを聞いて
それで そのあと
広島の これは郊外の地図ですけど
どう逃げていったかというようなことを
全部聞き取って作ったんだと思います。
だんだん記憶がよみがえってきました。
カルテを見ると。
奥さんもいらして 金さんだけ置いて
みんな韓国に引き揚げて
金さん一人残されたって
おっしゃってましたね。
あ 死亡届もありました。
急性白血病で亡くなってますね 金さん。
平成17… 急性白血病。
とにかく約束したことが実行できない
っていうんですか
いついつ何時に来てというのが
なかなかうまくいかなかったですね。
それはあの やっぱり
お疲れだったのかなというふうに。
それは覚えてます。
この方は 私のことは全部話していいよ
っていうことで
ご本人からは承諾を受けている方です。
自死した方です。 高校の先生だった方で。
死亡診断書
「縊死」と書かれています。
ご自分で
命を絶たれたという。
一番この方の すごいのは
「路上にあふれ 川岸に向かって
移動していく人」
「遺体が
両こぶしを固く握りしめていた」とか。
「水を求めていた」とかってなことを
書かれているあとに
家族4人の生活とあるけど…
自らの被爆が 子どもに
影響を及ぼすのではないかという不安。
そして やむことのない体調不良と
被爆との関連が
病院で軽視されることへの憤りが
つづられていました。
60年余り どういう思いで…。
この人の書いてある中にあった
何だっけ
川の中でお母さんが子どもを抱きかかえて
一緒に流されているけれども
そのお母さんの姿が忘れられないとかね
やっぱり 母と子。
子どもが大の字になってね 浮いてる中に
お母さんが こう覆いかぶさっていたとか。
いや ほんと植松さんは
笑った顔 見たことない。
原爆被害者調査っていうのをやった時に
小林さんが書かれていた言葉が
すごく気になりまして。
その言葉が今でも覚えてるぐらいに
印象に残っていて。
あの… 家族を見捨てた思い
見捨てたという事実っていうのが
どんなに辛いのかなって
私は想像できませんから
だけど その「お母さん ごめんなさい
親不孝を許してください」って
「逃げた その辛さは忘れられない」って
その 書かれて
そのあとも めったに
話してくださらないんですけどね。
分からないですけど
そういう事実があったということで。
私は そのご本人が この体験集に書かれた
ことの一部を淡々と読むだけですから。
どんな気持ちだったんでしょうね…。
なんか すいません。
想像できないですね。
一番家族の幸せな時間 幸せな時の翌朝
悪魔に襲われたようなもんですよね。
1945年8月5日 小林さんは広島に帰省。
両親に産んだばかりの孫の顔を見せた翌朝
被爆しました。
あ これ ちょっと これ すごい。
小林さんが書かれてる。
娘が生後1か月余りで被爆しました。
幸せにも健康に過ごしていますので
結婚する時 被爆していないということで
結婚させたと。
被爆した事実を隠して。
だから ここの証言集にも
N子って書いてるのは
そういうことですね。
そういうことで お母さんとしては
被爆してないってことで
なさったんだと思いますね。
これはちょっと貴重な証言だと思います。
こういう話は たくさん聞いてますから。
人類に 皆さんに見て頂かなきゃいけない。
被爆者の記録が宝だという村田さん。
実は…
広島や長崎に縁もゆかりもない家庭で
成長した村田さん。
小学校6年生の
最後の社会科の授業なんですけど
担任の先生が
戦争を知ってる世代だったんですね。
それで「アサヒグラフ」の1952年に
ちょうど終戦のあと プレスコードが解けたのを
見せてくださって。
教壇に ほんとに仁王立ちって
いうんでしょうね こう立って。
それですごい… あの時の先生の目は
忘れられないんだけど。
で その 小学校6年生の時に
その 浦沢先生っておっしゃるんだけど
浦沢先生がおっしゃったんです。
それが ず~っと何かこう残っていて
一枚の写真が ず~っと残っていて。
小さな薬瓶みたいなのが置いてあって
髪の毛がチリチリになった
顔が ちょうど
おからのようになった女性の写真。
その写真が ず~っと記憶に残っていて。
それを東友会に行って
この写真だって言えるぐらい覚えていて。
ああ 先生が人間が人間に
こういうことをしたっていうのは
こういうことを
おっしゃったんだなっていうのが
その時 分かったっていう感じですね。
高校を出て
病院の事務の仕事をしていた村田さん。
31歳の時 病院のカルテに詳しいならと
友人のつてでスカウトされた先が
東友会でした。
入ってすぐ 今も忘れられない
一本の電話を取りました。
当時 12月まで 私の前に
事務局をやってた方がいて。
その方が8月6日 9日は
広島 長崎に行かれたんですね。
いまだにそれは ここの 私の中に
鉛になってるんですね。
あの人に対して
私は相談員としての立場をね
全く果たすことができなかったっていう。
それは今でも ここにずっと
鉛みたいに残っている。
(取材者)
じゃあ 8月6日の ほんと直後ですね。
9日とか 6日とか9日って。
8月6日9日に向かう
7月の末ぐらいから
あの当時は具合が悪くなるって電話が
随分あって。
そういう中のお一人だったかも
しれませんけれども。
忘れがたい被爆者との出会いが
詰まっています。
東京で孤立していた被爆者が仲間と出会い
ともに立ち上がる姿も目にします。
そこには さまざまな事情がありました。
私が相談を受けた方で
とっても印象的なのは
台東区に住んでいた
吉本さんって方ですけれど。
…っていうことだと思います。
だから そういうことで
被爆者ってことを隠して
生きていけるというふうに
思われたと思いますし。
それから就職とかね
学校 入学するっていうので来た方が
ほとんどだと思いますけど
そういう孤独な思いで来られた方も
いらっしゃった。
広島 長崎から逃げたかったっていう。
狛江市に住んでいた中上さんなんて方も
亡くなる時まで
いろいろご相談受けましたけど
彼なんかも そうでしたね。
台東区の方は 自分の体に原爆の被害が
出てくるのが恐ろしかったと思いますし。
(取材者)そういった広島と長崎で
おつらい経験されてた方たちは…
東友会の相談事業が
なぜ重要かっていうのは
被爆者同士の相互の理解じゃないとね
解決できない。
それは手当を お手伝いするとか
っていうことではなくて
やっぱり心の問題のフォローですよね。
まだ差別がいっぱいありましたし
私が来た頃は結婚を反対されたとか
お子さんの結婚が壊されたとか
そんなようなのも結構ありましたから。
私が来てからも 調布の会が
原爆っていう字を入れて…
隣の人が落ちてた封筒を拾ってくれて
なんか その時の目つきがね なんか。
はっきり被爆者なのかって
聞いてくれればいいのに
聞かない あの目つきが
とっても嫌だったし
その後 娘さんへの縁談が 一切
来なくなったっていう話がありましたね。
私たち相談員は 地域で
制度の説明に伺うことがあるんですけど
そこの会に足のご不自由な女性だったと
思いますけれども
初めて被爆者の会に出てきたという方が
近所に広島から送ってきたジャガイモを…
広島から送ってきたんじゃなかったかな。
とにかく…
今日は初めてその話
昭和30年代の話だって。
その両方の姿見てて
私も涙が出るような思いをしましたし。
東京で
被爆者であることを隠して生きてきた
中上賢治さんという男性のカルテです。
家庭を持つこともなく
一人で生きてきました。
中上さんが村田さんを写した写真。
寄る辺のない人生を送った中上さんが
その最後に人間のぬくもりを求めた思いが
込められていました。
中上さん自身は当時 お小さかった
3歳か そのぐらいのお年だったと
思うんです。
中上賢治さんって おっしゃいましたけど。
それで お父さんは出征中で
戻ってこられて。
お母さんのおなかの中には
赤ちゃんがいたらしいんですけれどもね。
お母さんを妊娠させてるわけですね。
で 出血が止まらなかったみたいですね。
そのまま…
その中上さんのことを面倒みたおばさん
お母さんのお姉さんとも話したけど
難しいですねって おっしゃってました。
同じ年頃の 同級生かなんかの ご自分の
お子さんもいらっしゃるんですけど。
いとこ同士だし
全く同じ物を買ってあげても
やっぱり自分は大事にされてないと
思っちゃうんだよねっていう。
当時3歳だったらね あるいは
お母さん違うっていうのもご存じで
大きくなったのかもしれませんけど。
とっても 一人でずっと
生きてきた方でしたね。
ほいで
写真撮ってもいいかって言うから…
だから疑似恋愛みたいな感じに
なってたのかもしれませんけど。
多分 女性からお見舞いを受けるとか
花をもらうっていうのは
初めてだったのかもしれませんね。
生まれて初めて
人から花をもらった中上さん。
死後 遺品の中に収められていた写真が
村田さんに託されました。
村田さんが相談に乗った被爆者の中には
被爆して亡くなった家族を思うあまり
罪を犯すことになった男性もいました。
その方は ちょっと今
老人ホームに入ってるんで
ちょっとお名前を
伏せさせて頂きますけれども。
服役までしてるんですよ。
で 私 びっくりしたんですけど
そのころから弁護士さんとも
おつきあいあって
服役して戸籍がない方って
いるんですかっていったら
いますっておっしゃってたんで
びっくりしたんですけど。
その方は やっぱり…
多分 男の人って優しいから
特に妹だったら
とっても大事にするんだと思うんですね。
他の人たちの話も聞いて
そう思うんですけど。
私たち 女性が思うよりもっと
大事にしてらっしゃるお兄ちゃん
いっぱい知ってますから。
ところが…
それで 彼としてみれば 自分の…
それで彼は少年院に
当時 少年院があったかどうか
そういう施設に入れられて
そこで大きくなっていって。
で 犯罪にも手を染めるようになって
服役までするという。
福祉事務所の人から連絡があって
被爆者だっておっしゃってるけれども
相談に乗ってもらえないか
っていうことがありまして。
それでいろいろ調べたら
その福祉事務所の人が
この人 戸籍がないんですよって
おっしゃるんですね。
だから多分
お父さん お母さんと一緒の戸籍が
抹消されてしまったのか
分かりませんけど。
で 戸籍を取るということから
家庭裁判所に行って始めて
福祉事務所の人と一緒になって
お手伝いをして戸籍を取って。
原爆は 被爆者だけでなく
その家族をも苦しめました。
日誌には 被爆者と結婚したある女性が
たどった人生が記されています。
突然 訪ねて来られて。
小柄な女性でした。
もう顔も もちろん覚えてませんけど。
で ドアのとこに立ってらして
「どうぞ」って申し上げたら
「私 被爆者じゃないんですよ」って言って
入ってこられたんですけどね。
当時は 女性相談員3人だけでしたので。
で いろいろ話していって
うちの主人は被爆したけどって。
私がちょうど生まれた頃に
亡くなられたっていうのが分かって。
そう じゃ こんな大きくなるぐらい
あなたがこんなに大きくなる…
当時から大きかったですけど
そんな時間がたったのね なんていう
世間話をしてたんですけど。
突然お話をして…
当時の病名です。
その結婚したての若い女性が
それだけのお金を用意して
ご自分の生活も守っていくっていうことが
できなかったんだと思うんですけど。
私 どういう顔して聞いてたかなって
今でも思うんですけれども。
半年ぐらいね その街角に立って
お金を作って
そのお金で被爆者の方の輸血するお金をね
買ったという方でしたね。
ここは女性だから言えたし
こんなこと初めて。
そういうお話がね
他でもあったというふうに
被爆者以外でもあったというふうに
聞いてますけど。
たまたま私がそういう
その話を聞く立場にいたということは
一体 何なんだろうなって
あの時 考えたことがありますね。
皆さん それでは不満だから
団体を作ったんだと思いますし。
被爆者は もう いろんな集まりの中で…
自分たちの体のことはもちろんですけど。
だって あの~…
それはずっと。 遺族会って大きい団体
戦死した方たちを。
それは東京空襲も原爆も同じですよね。
それで運動してきて
暗黒の12年って言われてますけど
12年間は何の制度もなかった。
だから 土地や家を売って
医療費に充てたっていうことを
おっしゃってた
昭島の被爆者の方も
いらっしゃいましたし。
そういう思いで お金のある方はね
それで医療費出せたと思いますけど。
さっきのね 女性の方のような事例も
あったんだろうと思うんですね。
村田さんは 今年71歳になります。
引退は まだ考えていません。
どうぞ。 ここに住んでいます。
生涯をかけて被爆者とともに
歩もうとしている村田さん。
子どもなんかいるとね きっと
ワーワーって作れるんでしょうけどね。
おいしく食べてくれる。
彼らを独りぼっちにはしない。
そう決心するきっかけとなった
ある被爆者との出会いがありました。
あの 今日ここに写真 持ってきたのが…
被爆されてるんですけど。
お母さんも広島にいて。
織田さん自身は大正8年生まれですから
当時 ご結婚される方も
決まっていらしたらしいんですね。
ところが その方は戦死されてしまって
一人残されたようです。
で 被爆した時に ご自分も お母さんも
広島にいらしたんだけども
それぞれ職場にいらして
結局お母さんの遺骨が分からなかった。
広島には 寺町ってところが
ありますけれども
そこに いろいろ遺骨なんかが
運ばれてるところがあるから
あなた行ってみなさいって言われて
行って。
たくさん遺体が燃えてる中の
骨のようなものを
当時カンカンっていうんですけど
缶詰あけたの 缶に入れてもらって
それを郷里に持って帰って お墓に入れた。
そのあと もう あの…
東京に行けば なんとか生きられるんじゃ
ないかって 東京に出てこられて
ずっと仲居さんを
されていたって方ですね。
弁護士さんに照会して
調べて頂きましたけど。
ここに もしよろしかったら
写真映してあげて 喜ぶと思うから。
これ お見せしましたっけ?
こういう写真ですよね。 女優さんみたい。
(取材者)おしゃれですね。
おしゃれですね。
(取材者)
もうちょっと見せてもらっていいですか。
はい。
これのほうがいいでしょ ほら。
写真館で こういう写真を撮って。
こういうのを みんなね
自分の気に入ったのをね
私のとこに こう送って… これ あの
東友会宛てに送ってきてくださって。
こういう写真とかですね。 ほら。
本当にいつも元気そうに見せてましたけど
寂しげな方でしたね。
広島のあの 昭和60年の時かな
広島で毎年 追悼… 式典の時の
東京都の遺族代表になって
行かれたんですね。
その時 私ご一緒したんですけど。
あ これか。 その方の写真撮ったのが
これ 最後の写真ですけど
病院のベッドの上で
お見舞いに行った時の写真ですね。
この時 プレドニンっていう
副腎皮質ホルモンのお薬のんでいて。
顔がムーンフェースっていうんですけど
丸くなっちゃう状況ですね。
両足不自由になってからも
いつもタクシーで
東友会に月2回かな… ぐらい来るんです。
新宿から。
「また来ちゃったよ」って
こうやって入ってきてね
30分ぐらい おしゃべりして。
で あの~ お菓子 必ず持ってくるんで
「ここは受け取れないの」って言うと
「捨ててあったの拾ってきたの」とか
おっしゃってね それで
お茶出して いろいろおしゃべりをして
いろんな人生のお話とか
いろいろしましたけど。
屈託のない話も多かったですけど。
結局ベッドから落ちて
歩けなくなったんで
福祉の方に言われて
特別養護老人ホームに入るんですね。
それから3か月でしたかね 確か。
拒食症みたいになって亡くなりました。
あの いろんな話するんですよ。
こういう世界にいたからね…
…というふうに おっしゃってましたね。
すてきな方だったし きっぷもよかったし
きっとモテたと思います。
だから被爆してなければ
違う人生がきっと
あるいは あの 婚約してた方が
亡くならなければ 違う人生があったし
お母さんが生きていらっしゃれば
違う人生があったのかもしれませんけど。
で テレホンカードがないから
チャリンチャリンと入れながら
切れると またかかってくるんですね
お金がなくなると切れちゃうでしょ。
またかけてくるっていうようなことでね
ほんとに いろんなお話 しました。
大好きでした。
結局そうですね。
結婚はしてないですね。
いろいろいたけれどもと
おっしゃってたけど。
相当モテたと思いますけど。
そういう世界ですから。
この方については…
だから 多分ね…
被爆者のお友達も一人いましたけれども
ず~っと一人だったと思うんですね。
独りぼっちにしないでという願い。
村田さんは その後
それに応える行動に出ます。
東友会の副会長を務めた
長崎の被爆者です。
…を作ろうとしていました。
山本には
妻がいましたけど 子どもがいない。
山本さんが建てた共同の墓の名義を
継ぐためです。
墓は山本さん亡きあと
村田さんが守っています。
10月 被爆者や家族が集まり
追悼の集いが開かれました。
東京で身寄りがなく家族の墓がない人でも
入ることのできるお墓です。
あの 今日は ここに 原爆被害者の墓の
前で故人を偲ぶつどい2022というので
皆さんにお集まりを頂きました。
あの ありがとうございます。
皆さん簡単に お差し支えのない方
自己紹介をお願いします。
ゆっくりでいいですよ。
いろいろとお世話さまでございます。
石井さんを目標に。
96歳…。
「独りぼっちにしないで」と願った…
織田アヤさんは ここです。
ここに織田さん
お名前 刻ませて頂きました。
おしゃべりしてんじゃないですか。
いっぱい
おしゃべり好きな人が入ってるから。
これが父ですね。 山本英典。
去年の8月8日。
ここに入りますけど。 ええ。
妹がね うちのお墓ある…
私で終わるんですよ うちのお墓。
だから そっちに入れと言うんですけど
まあ 死んだあとのことは あの人が
やるだろうから分かりませんけど
私は ここに入れてねって
言ってるんですけどね。
向こう行って寂しくないじゃないですか
いっぱいいるから 皆さんが。 ね。
あ こんにちは どうも。 どうぞ。
この日…
母親と広島で被爆。
今 東友会の理事を務めています。
今日は厚生労働省のほう どうでした?
はい 行ってきました。
かつて…
厚労省のほうに
裁判が終わったあと行くんですよね。
戦後 国に対し 被爆者自身が立ち上がり
今ある医療の手当などの さまざまな
権利の多くをつかみ取ってきました。
東友会 村田さんは 被爆に苦しみながら
立ち上がる人々を支援してきました。
私 申し訳ないんだけど…
凜としてて。
だから あの それで あとから あのね
職業なんかも おっしゃらなかった。
聞いて なるほど 料亭の女将さん
みたいなね すごいすてきな女性でね
私 ああいうタイプの方 好きなのよ。
本当
凜としてる人で すてきな人でしたよ。
そんな感じで被爆に遭いました。
いえいえ…
それ以降 一度も
一緒には暮らしてらっしゃらない。
だから母親とは とにかく
電話もないですから
手紙だとか 時々会いに行っても
本当に数十分の顔合わせですね。
そこ いるとこに行って。
ちょうど小学校時代
学校から帰る時に立ち寄って
母親の顔を見て そのまま帰ると。
語らないんですよ。
ただ母親としては再婚という話が
ちょこちょこ あったようですけど
やはり私を連れて
再婚としてはできないということで
とにかく私を 別居になってでも
なんとか頑張って
お互いに生きようというだけの話で。
被爆としての話は
母親からは具体的に何も聞いてない。
晩年の…
子どもを養うため
一人働き 生涯 離れ離れだった母。
息子に 初めて
広島での被爆体験を明かしていました。
そして 被爆者として差別された苦しみも。
細かく 文章的には
その被爆で どうだ ああだってこと
書いてますけど
自分が今まで…
これが書きつづってあったと
思うんですけど あの手紙にね。
その手紙だけは私も
もう大切にしてるんですけど。
「敬三も苦労させました。
被爆の為に苦労が続く。
涙が出て書けない」。
31歳で東友会に入り…
やめたいと思ったこと
あったかもしれませんね。
何の時だろう。
ないかも。 あったかな。
ああ ありましたね。
あった あった。
あの… 相談を受けた人との意思疎通が
うまくいかなくて。
私がやる その方から聞いたことで
私が対応しなきゃいけない相談と
本当に その方が言いたかった
望んだことと食い違っていて。
で それのために…
で ものすごく責任を感じて。
そしたら あの
その方におわびしたんですけど
口も利いてくれなくて。
で その時は
当時の事務局長が入ってくれて
対応してもらって戻ったんですけれども。
非常に そういう
その時はもう こういうことをしたら…
そうなんですよね 考えてみたら。
私は いつでもね 戻れますけど。
被爆者の人は戻れない。
辞められないですよね。
どうしてでしょう。
「そしたら
分かるだろう」って言いませんよ。
そういうこと
言ってた人もいるんですけどね。
「本当にいいの?」
って聞くと黙っちゃって
何回か聞くと 「やっぱり だめだよ」って
みんな おっしゃる。
人間らしい人たちだと私は思います。
そういう人たちと一緒に生きられるって
誇りじゃないですか。
第一
私たちの世代しかいないじゃないですか。
私より 私たちより50年
今 生まれた子どもたちが
それは できないじゃないですか。
だから
そういう時代に生まれた人間としての
その一人として たまたま
こういう立場を
与えて頂いたという思いで今はおります。
だから やっぱり
核兵器をなくすってことは
第一の被爆者の願いですし
私も そう思うし
あの方たちが訴えてることは
ちゃんと聞いてほしいです。
だから さっき申し上げたけど
自分は被爆者手帳は取らないって
子どもたちにも話してないって方
そのお子さんは仮に がんになっても
放射線が影響だとは思わないですよね。
広島 長崎で
親御さんが被爆されてることが
原因だとは思わないですよね。
でも その方の親御さんが
手帳を
持ってるってことが分かってしまったら
もしかしたら
じゃあ自分の今度生まれてくる
自分の子どもたちは
自分の孫たちはっていうふうに
未来永劫
不安を残してしまうかもしれない。
そういう兵器ですよね。
被爆者は悪魔の兵器だとか
人類とは共存できない兵器だとかって
言い方してますけど。
まさに でも兵器そのものが そうだ
という言い方もあると思うんですけど。
やっぱり放射線というものは
やっぱり特別なものだというふうに
私は皆さんの話を聞いてて思いますね。
心まで
めちゃくちゃにされてんですもんね
皆さん。
体 暮らし 心の被害っていうふうに。
特に
記憶のある世代の方たちっていうのは
何らかの形で その原爆で殺された
人たちの姿を見てらっしゃるわけだから。
何もできなかったって思いも
あるでしょうしね。
どうなんでしょうね。
ただ 私が感じてるのは
さっき申し上げたけど…
そういうことじゃないでしょうかね。
さっき言った…
人間のつながりは 次の世代にも
受け継がれようとしていました。
どうもご無沙汰。 お元気?
ありがとうございます。
どうぞどうぞ こちらへ。
田崎豊子さん。
広島で被爆した母を持つ 被爆2世です。
お元気そうで。
ありがとうございます。
まさに今日です。
なんか呼ばれたみたいだ。
ハハハハ。 なんかね。
生前 原爆症認定の改善を求め 国を提訴。
体調がすぐれない中で 信念を貫きました。
(田崎)出し方もあるんですって。
それでね 目をね ギッと にらむんです。
そう… そうそうそう。
親の被爆体験の継承や
核兵器廃絶を掲げた活動を
村田さんは応援しています。
まあ その前から感じていたことは
ないことはありませんし。
皆さん そう言うんですよね。
(田崎)本人が行きたかったと思います。
同情できるということは
自分の立場が上だってことですよね。
そうだと思います。
同情できるというのは
自分の立場が安定してたり
上だったりするからできるんであって。
それも
一緒に生きてる一つかもしれないけど
同情はしてませんね。
被爆者に対しては一人もしてません。
もし被爆者の方が
仲間だと思ってくだされば
これ以上の喜びはありません。
さっき申し上げたことです。
それも含めて
ああ 人間って すてきだなぁって思う時
いっぱいありますよ 被爆者といると。
本当にそう思います。
それは多分
私たちのような仕事をしている人たちは
みんな
思ってらっしゃるんじゃないかしら。
とっても大変な被害を受けた方たちと
一緒に歩いてるような
相談員の方たちとかは。
そうだと思いますよ。
とっても
人間って すてきだなって思うんですよ。
さっき申し上げたように…
戦後 さまざまな事情で広島 長崎を離れ
東京で生きてきた被爆者。
そして 彼らに寄り添う人。
忘れてはいけないことを知る人は
すぐ隣にいるのかもしれません。
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