にっぽん!歴史鑑定「念仏に生きた苦悩の僧・親鸞」浄土真宗の宗祖・親鸞はなぜ延暦寺での修行をやめ「念仏の道」に…

出典:EPGの番組情報

[字]にっぽん!歴史鑑定「念仏に生きた苦悩の僧・親鸞」

浄土真宗の宗祖・親鸞はなぜ延暦寺での修行をやめ「念仏の道」に進んだのか?そして、相次ぐ弾圧に流罪!数々の試練をどう乗り越えていったのか?その生涯に迫ります。

詳細情報
出演者
【歴史鑑定人】田辺誠一【ナレーター】鈴木順
番組内容
浄土真宗の宗祖・親鸞はなぜ延暦寺での修行をやめ「念仏の道」に進んだのか?その理由は、拭えぬ煩悩のせいだった!?そして、相次ぐ弾圧に流罪!数々の試練を親鸞はどう乗り越えていったのか?苦悩を抱え生き抜いた親鸞の生涯に迫ります。
HP
https://www.bs-tbs.co.jp/kantei
監督・演出
一柳良穂
音楽
また明日~タイムスリップ~
結花乃
制作
2020年

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行

テキストマイニング結果

ワードクラウド

キーワード出現数ベスト20

  1. 親鸞
  2. 法然
  3. 念仏
  4. 修行
  5. 浄土宗
  6. 専修念仏
  7. 関東
  8. 越後
  9. 生涯
  10. 聖徳太子
  11. 僧侶
  12. 悪人
  13. 戒律
  14. 出家
  15. 弟子
  16. 当時
  17. 法然上人
  18. 流罪
  19. 延暦寺
  20. 極楽浄土

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   ごあんない

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<一人の僧侶が90年の生涯を終えました>

<日本仏教 有数の宗派 浄土真宗の宗祖 親鸞です>

親鸞は 今からおよそ850年前の
平安時代末期に生まれ

貴族の世から 武士の世へと移る時代の

大きな転換期を生きた僧侶です

厳しい修行や
難しい仏典を学ぶことが

悟りへの道とされていた
当時の仏教の在り方に一石を投じ

どんな人でも念仏をとなえれば
救われると説き

多くの民衆に慕われました しかし

その生涯は 波乱に満ちたものでした

迷い 苦悩し そして
道を見つけたその先では

厳しい弾圧に遭うのです

今回は そんな親鸞の知られざる生涯に

迫っていきたいと思います

<比叡山延暦寺で厳しい修行を積むこと およそ20年>

<しかし突如 修行をやめた?>

<若き日の親鸞が抱えていた苦悩とは?>

<念仏をとなえることで 仏の道を究めようとするも>

<まさかの流罪に>

<僧の資格を はく奪された親鸞>

<人生最大の試練 そのわけとは?>

<悪人であるほど救われる?>

<親鸞がとなえた悪人正機説で世の中が大混乱>

<そんな中 実の息子を絶縁?>

<親鸞はなぜ苦渋の決断を 下さなければならなかったのか>

<その歴史の謎 鑑定します!>

<京都市伏見区にある 法界寺>

<平安時代中期 藤原北家の流れをくむ貴族>

<日野家によって 創建された古刹です>

<その日野家の一族である 有範の長男として>

<親鸞は承安3年 1173年に 生まれたといわれています>

<学問に精通した父 有範のように>

<親鸞もまた 幼いころから勉学に励み>

<貴族として 人生を全うするはずでした>

<ところが 時代がそうさせては くれませんでした>

<武家の 平家と源氏が台頭>

<中でも平家の棟梁 平清盛が>

<武士として初めて 太政大臣になるなど>

<絶大な権力を持つように なっていったからです>

<そんな時代の大きな転換期>

<9歳になった親鸞の人生も翻弄されます>

<父 有範によって 親鸞と4人の弟たちが>

<出家させられてしまうのです>

<一体 なぜなのか>

<その理由について 親鸞に詳しい 東舘紹見さんに伺いました>

出家の直前には
平清盛が亡くなっていまして

まさに 源氏と平家の争いが行われている
真っ最中でもあったわけですね

そうした中で 親鸞の父である日野有範も
争いの中に巻き込まれて

失脚をしてしまったのではないかと
いうふうに思われます

<貴族としての出世の道が絶たれた父 有範は>

<学問を生かせる仏教界での大成を願い>

<息子たちを出家させたのです>

<幼い親鸞は 伯父の 日野範綱に付き添われ>

<のちに 天台宗を束ねる 天台座主となる慈円のもとへ>

<そこで出家を 願いでたところ 慈円は…>

(慈円)「そなたの願いは分かった」

「されど 今日はもう遅いゆえ」

「出家の儀式は 明日
行うことにいたしましょう」

<これを聞いた親鸞は こんな歌を詠んだといわれています>

<生きることの はかなさを桜に例え>

<無常の世にあって あしたの命は分からないから>

<後回しなどにしないで ほしいと懇願したのです>

<その強い決意と覚悟に打たれた慈円は>

<すぐに僧侶になるための儀式 得度を執り行ったといいます>

<こうして 僧としての名を与えられた親鸞は>

<比叡山延暦寺での厳しい修行を開始します>

<ところが…>

<修行を積むこと およそ20年>

<親鸞は突如 延暦寺での修行をやめ>

<比叡山を下りてしまうのです>

<原因は どうしても拭いきれない 2つの苦悩のせいでした>

<このとき 親鸞が抱えていた2つの苦悩とは>

<何だったのでしょうか>

<親鸞は厳しい修行に励めば励むほど>

<迷いが生じていました>

親鸞が修行したのは比叡山という
お山なんですけど

そこは 全ての人が仏様になる道を
一緒に歩めるという

一乗という教えを大事にしていたんですね

しかし 難しい修行とか
学問に励んでいるお坊さんたちは

なかなか その一乗というね
みんなと一緒に歩む教えを

実感することができないでいたわけです

それから 比叡山がですね 当時
貴族社会と密接になるにつれて

貴族社会の身分制度が そのまま

出家社会にも持ち込まれるということに
なっていったわけです

そうしますと 全ての人が平等であり
等しく救われるという教えと

やはり 矛盾していくようになります

親鸞は 一生懸命 比叡山で修行する中で

そうした問題を強く感じて
いたのではないかなというふうに思います

<厳しい修行は 自分一人を高めるだけで>

<民衆とかけ離れて ゆくのではないか そして>

<当時の延暦寺自体が 貴族社会の 身分制度が持ち込まれ 平等ではなく>

<全ての人を等しくという教えに 矛盾しているのではないかと>

<親鸞は疑問を抱き 苦悩していたのです>

<さらに親鸞は 自身の 捨てきれない煩悩にも悩んでいました>

<それが愛欲です>

<仏教では 僧侶が女性と交わることを>

<女犯として戒律で禁じていたのですが>

<親鸞はその戒律に悩んでいたのです>

<(親鸞)煩悩を捨てきれずに 悟りなど開けようか…>

<悩み苦しむ親鸞がすがったのが>

<日本に仏教を広めたとされる>

<聖徳太子こと 厩戸皇子でした>

<親鸞は 延暦寺から京の都にある>

<聖徳太子が建立したといわれる六角堂に通い>

<自分の行くべき道を問い続けます>

<通い続けること95日 夜明けのことでした>

<聖徳太子が観音菩薩の姿になって 夢の中に現れ>

<親鸞にお告げを授けたのです>

(菩薩)「あなたがもしも
はるか昔の因縁によって」

「僧侶としての戒律を破り
女性を求めることがあれば」

「私が玉のように
美しい女性となって」

「あなたの妻になりましょう」

「そして
生涯あなたに寄り添い」

「極楽浄土に
導く力となりましょう」

<たとえ戒律を破り 女性を求めたとしても>

<悟りを開き 極楽浄土に 行くことができるという言葉に>

<親鸞は救われました>

<さらに 聖徳太子の生き方そのものにも 救われたのだといいます>

親鸞は 生涯にわたって

聖徳太子を大変 尊敬され続けました

聖徳太子は 決して
出家してお坊さんになったわけでもなく

在家 ふだんの生活をする中で

仏教をみんなと
確かめていかれた方ですね

そういう聖徳太子の姿に 親鸞は

みんなと共に歩む仏教というところで

非常に共感されていたのではないかと思います

<在家でも仏教を広めた 聖徳太子のような>

<生き方があるのだと気付いた親鸞は>

<延暦寺での修行をやめ 比叡山を下りたのです>

<そして しばらくたった ある日のこと>

<延暦寺で 共に修行を 積んでいた先輩僧侶>

<聖覚と出会い こう言われます>

(聖覚)「あなたを救ってくれる方が
東山の吉水におられますから」

「行ってみたらいかがか」

<親鸞はすぐに 東山の吉水にあった草庵に>

<その人を訪ねてみることにしました>

<それが 親鸞の 終生の師となる>

<浄土宗の宗祖 法然だったのです>

<その浄土宗の 教えこそが 専修念仏>

<「南無阿弥陀仏 阿弥陀様 お救いください」と>

<一心に念仏をとなえるだけで>

<誰もが極楽浄土に行けるというもの>

<相次ぐ戦乱や 大飢饉に襲われるなど>

<混乱と不安に満ちていた 当時の京の都にあって>

<広まった教えでした>

<鴨長明の「方丈記」には そんな都の>

<悲惨な様子が克明に記されています>

<こうした状況に苦しめられるのは>

<仏の正しい教えが 行われない最悪の世 すなわち>

<末法の世が到来したからだと 当時の人々は考えました>

<さらに 末法の世では どんなに修行を積もうとも>

<悟りを開くことができないとされていたため>

<法然は そんな世でも誰もが平等に 極楽浄土へ行ける方法がないかと模索>

<そうしてたどりついたのが 専修念仏でした>

<極楽浄土にいる 阿弥陀仏の本願である>

<生きとし生けるもの 全てを救うという誓いを信じて>

<南無阿弥陀仏ととなえれば その念仏によって>

<極楽浄土へ導かれると説いたのです>

仏様の名前をとなえることを

称名念仏というふうに いいますけれども

称名念仏 それ自体は
中国から伝わってきたもので

平安末期ごろには
盛んに行われていたんですね

そういう中で 阿弥陀仏への帰依こそが

大事であるというふうに考えた法然は

さまざまな戒律を守ったり
厳しい修行ができなくても

ただ 念仏すれば浄土に往生できると
いうふうに説いていかれたんですね

<親鸞は そんな法然の教えに 心を打たれました>

そして 100日もの間 雨の日も風の日も

法然上人のもとへ 通い続けたといいます

凡夫とは 仏教の真理を悟ることができずに

煩悩にとらわれ 苦しみ生きる者のこと

法然上人は 誰もが凡夫であり

迷いから逃れる道は ただ一つ

「南無阿弥陀仏ととなえよ」と
教えたのです

親鸞は あらゆる人に開かれた
法然上人の その教えこそが

自らが歩む道であると確信します

たとえ 法然上人に
だまされて念仏し

地獄におちたとしても
決して後悔はない

こうして親鸞は 法然上人を生涯の師と仰ぎ

専修念仏の道を歩きだすのです

僧でありながら結婚したのも

このころだったと いわれています

<法然のもとに通う中 親鸞はひそかに>

<一人の女性に心を 寄せるようになっていました>

<中級貴族 三善為教の娘で 同じように>

<法然の教えを聞いていた 恵信尼です>

<戒律を破り 妻をめとっても 悟りは開けると>

<聖徳太子から夢のお告げを 授かっていた親鸞でしたが…>

<(親鸞)本当に 僧の私が 妻をめとってもよいのか…>

<思い切ることができずにいた親鸞に 手を差し伸べたのが>

<師である法然でした>

(法然)「この世を生きるには」

「念仏をとなえやすいように
生きればいいのです」

「妻をもったほうが
念仏しやすいのであれば」

「妻をめとって
念仏をとなえなさい」

法然が説いたのは 阿弥陀仏に心から帰依して

念仏をとなえながら
みんなと共に歩むということでした

ですから 妻帯するかどうかということは

ご縁に従えばいいのだと
いうことだったと思います

<親鸞は法然の言葉に従い>

<恵信尼との縁を信じ 妻とするのです>

<それまで陰で女性を かこっていた僧侶はいましたが>

<公に妻をもったのは 日本仏教界では>

<親鸞が初めてだといわれています>

<法然のもとで 仏の道を究めようとしていた親鸞が>

<突如 流罪に? 一体なぜ?>

<浄土宗の宗祖 法然の弟子となった親鸞は>

<やがて師が記した 浄土宗の根本宗典>

<「選択本願念仏集」を書き写すことが 許されるまでになります>

<これは弟子として 法然に あつく信頼されたという証し>

<親鸞は迷うことなく 専修念仏の教えを究めていきました>

<ところが 法然の弟子となって 6年がたった ある日>

<流罪を申し渡されるのです>

<一体 何があったのでしょうか>

<念仏をとなえれば 誰もが 極楽浄土に導かれるという>

<法然の専修念仏の教えは 身分を問わず広まっていました>

<しかし中には その教えを信じるあまりに>

<厳しい修行を重んじる 他の宗派を非難する者が現れたのです>

<当然 言われたほうは 黙っていませんでした>

<延暦寺をはじめとする他宗派からの 強い反発を受けるのです>

<そして ついに…>

<元久元年 1204年 法然は延暦寺から>

<専修念仏の布教を やめるよう求められるのです>

<争いごとを好まない法然は>

<他の宗派の教えを 非難しないこと>

<念仏を信じる人以外に>

<論争は 持ちかけないことなどを>

<「七箇条制誡」に記し>

<親鸞を含む190人の 門弟に署名させることで>

<事態の鎮静化を図ります>

<しかし 専修念仏への反発が 収まることはありませんでした>

<その翌年 今度は奈良の興福寺が>

<念仏禁止を求める訴状を朝廷に提出>

<法然の教えは 戒律を守る人々を軽視し>

<国を混乱させると 糾弾したのです>

<救いだったのは 摂政だった 九条兼実をはじめとした多くの貴族が>

<法然の浄土宗の教えを信じていたため 朝廷が静観していたこと>

<ところが そんな状況を 一変させる事件が起こります>

<ときの後鳥羽上皇が 紀伊国へ 熊野詣に出かけていたときのこと>

<法然の弟子である安楽と住蓮たちが 行っていた念仏会に>

<上皇に仕えていた2人の女官が参加します>

<すると 専修念仏の教えに感化され 出家してしまったのです>

<これを知った後鳥羽上皇は大激怒>

<実は 出家した2人は 上皇が 寵愛していた女性だったからです>

<怒りに震える上皇は 僧侶たちを 直ちに処罰するよう命じます>

<すると朝廷は しかるべき評定 裁判を行うこともなく…>

<安楽や住蓮たちを死罪に処すのです>

<出家者の死罪は前代未聞のことでした>

<さらに朝廷は 興福寺などからの 訴状を盾に浄土宗を弾圧>

<宗祖である法然を 還俗>

<すなわち 僧侶の資格をはく奪したうえで>

<讃岐国へ流罪に>

<親鸞も同じく還俗させられ 越後国に流罪となりました>

<親鸞 35歳>

<これが 法然の弟子となって 6年目にして起こった>

<世にいう「承元の法難」でした>

<後鳥羽上皇を怒らせた事件を きっかけに始まった>

<浄土宗への弾圧によって>

<親鸞は 流罪となってしまったのです>

<のちに親鸞は このときのことを こう書き残しています>

(親鸞)「上皇も それに仕える人も」

「本当に法に背いているのかを
考えないまま」

「怒りを生じ
恨みを抱くに至ったのだ」

<こうして 承元元年 1207年>

<親鸞は 妻の恵信尼を連れ>

<流罪先である越後国に向かい>

<現在の上越市あたりにあった仮屋で 暮らすことになるのです>

<僧侶の資格をはく脱され 俗名を与えられた親鸞でしたが>

<これに反発>

<自らを非僧非俗>

<僧にあらず 俗にもあらず とし>

<流刑の地 越後で 新たな使命を見つけるのです>

<(親鸞)このように 流罪の地へ向かう縁がなければ>

<京より遠く離れた人々に>

<念仏を 伝える機会もなかったろう>

<これもみな 師である 法然上人のご恩というものだ>

<そして このころから>

<戒律を守らない愚かな人間である という意味を込め>

<愚禿釈親鸞と 名乗るようになるのです>

越後に流された 親鸞ですが

実は親鸞の曽孫である
覚如が記した文章には

「このとき 親鸞も死刑に処せられる
という噂があった」とあります

親鸞のことをよく知る 遠い親戚が
とりなしたことで

死罪を免れたのだとか

ここで親鸞が もし死罪になっていたとしたら

日本の宗教史は
大きく変わっていたということですよね

さて
命だけは助かり 越後に流された親鸞ですが

寒さの厳しい越後国

京の都での生活とは比べものにならないほどの
苦労があったことは

容易に想像できます

しかし そんななかでも喜びはあったようで

妻 恵信尼の手紙によると

越後に来て4年がたったころ

子どもが生まれたといいます

そして 京の都とはまるで違う
越後の風土のなかで

民衆に寄り添い

専修念仏の教えを伝え続けることも
忘れなかったようです

越後では
親鸞にまつわる七不思議が伝えられています

<その一つが>

<現在の新潟市に伝わる「鳥屋野の逆さ竹」です>

<親鸞が鳥屋野で布教を行っていたときのこと>

<誰一人として自分の言葉に耳を傾けないため>

<親鸞は その場に座り込むと>

<竹を切って作った杖を逆さにして地面にさし こう言いました>

(親鸞)「私が広める仏法が」

「本当に仏の意にかなうものならば」

「この逆さにさした竹に
必ず芽も葉も生えるだろう」

<その言葉どおり>

<しばらくすると 本当に 竹の杖から 芽が出て葉が生えてきたというのです>

<さらに不思議なのは>

<親鸞が逆さに竹の杖をさしたためか>

<竹の葉は地面に向かって生えてきたとか>

うーん

今では
生い茂る竹林になっているといいますから

すごいですよね

ほかにも

親鸞が桜の枝に数珠をかけたら

その桜の花が
数珠のようにつながって咲くようになったとか

親鸞が焼き栗を植えたところ

1年で3度実がなる栗の木に育ったとか

こうした
超人的な伝説が残されているということは

多くの人が 親鸞を慕い

あがめていたということかもしれません

越後に流されてから 5年

ついに親鸞に赦免の知らせが届きます

しかし 親鸞は 京の都へは帰りませんでした

向かったのは 坂東の地 関東でした

<越後を離れ 新天地 関東へ>

<そこで親鸞が見つけた新たな使命とは!?>

<越後国に流罪となって4年>

<親鸞のもとへ ある知らせが届きました>

<(親鸞)罪が許された>

<それは 師である法然と 浄土宗の門徒たちの 赦免を伝える知らせでした>

<(親鸞)これでまた法然上人と共に 念仏の教えを広めることができる>

<親鸞は 再び法然に会えることの喜びをかみしめます>

<ところが>

<赦免の知らせが もたらされてから しばらくして>

<法然が流罪先から戻った 京都大谷の僧坊で亡くなったのです>

<(親鸞)私は これから どうすればよいのだ>

<親鸞は嘆き悲しむなかで>

<法然が生前に語っていたことを思い出します>

<親鸞は 師である法然の遺志に従い>

<京の都には戻らず>

<念仏が まだ広まっていなかった 関東に行くことにします>

<そして 建保2年 1214年>

<親鸞は 家族を伴い 越後を出ると 常陸国へ>

<42歳のときでした>

<茨城県笠間市にある 西念寺は>

<かつて親鸞が滞在し布教を行った 稲田の草庵があった場所です>

<ここで 親鸞は>

<妻の恵信尼や子どもたちと暮らしながら>

<全ての人が等しく救われていく道として>

<念仏の教えを伝えていきました>

<やがて 親鸞が教えを説いていた 質素な念仏道場には>

<多くの人々が集うようになり>

<専修念仏の教えは>

<常陸 下総 下野の三国を中心に>

<関東一円へと拡大>

<高田門徒や 横曽根門徒といった>

<門徒たちの 集まりが>

<各地に 生まれていくのです>

<しかし その一方で 親鸞を煙たがる者たちも現れました>

<加持祈祷により>

<それまで地域の人々の信仰を集めていた 山伏 弁円もその一人>

<親鸞の念仏の教えが広まるとともに>

<弁円の信者が減っていったため>

<憎しみを募らせるようになっていったようで>

<こんな逸話が残っています>

「民のわれらへの心服は
衰えるばかりじゃ」

「憎き親鸞よ 許せん」

弁円は 親鸞を亡き者にしようと

親鸞がよく通る山道で待ちぶせしました

ところが

何日待っても 親鸞は やってこないのです

「なぜだ かくなるうえは」

そう言うと 弁円は なんと

親鸞の草庵に押し入るのです

…が 親鸞は

(親鸞)「弁円殿」

「そなたが来るのを
心待ちにしておりました」

親鸞の その温和な顔を見た弁円は

たちまち後悔の涙にひれふしたといいます

そして 弁円は 二十四輩とよばれる
弟子の一人になったそうです

<再び京の都で浄土宗が弾圧を受ける>

<そのとき 親鸞がとった行動とは?>

<浄土宗の宗祖であり 親鸞の師であった法然が亡くなってから15年>

<京の都で 専修念仏の広まりを 苦々しく思っていた 比叡山延暦寺の僧たちと>

<法然の弟子である浄土宗の門徒たちの対立が>

<再び 激化>

<延暦寺の僧兵たちが 朝廷の許可なく 法然の廟所を襲って破壊>

<さらに 法然の教えを記した 「選択本願念仏集」の版木を焼くという>

<ゆゆしき事態へと発展します>

<再び 浄土宗が弾圧を受けたのです>

<常陸国で これを知った親鸞は 心を痛め>

<ある決意を固めます>

<(親鸞)このままでは 法然上人の教えが途絶えてしまう>

<今のうちに 専修念仏の教えの真意を書き残さねば>

<こうして書き始めたのが>

<のちに浄土真宗の根本聖典となる 「教行信証」です>

<そして 60歳を過ぎた親鸞は>

<京の都へ戻ることにするのです>

親鸞が どうして みんなと一緒にいた関東から
京の都に戻ったのかという理由については

いろんな説があるんですけれども

やはり 私はですね

一番大事な著述である「教行信証」を
よりよい内容のものにするために

当時 最新の文献が集まっていた

京都に戻る必要があるというふうに
考えたためではないかというふうに思います

<京の都に戻った親鸞は>

<「教行信証」の加筆修正を 繰り返しながら>

<精力的に執筆>

<76歳のときに書いたのが「浄土和讃」>

<分かりやすい かな交じりで 念仏の教えをつづりました>

<その後も 多くの書物の執筆を続け>

<老いて なお>

<探求と研鑽に 邁進していくのです>

<そんな親鸞のもとには>

<遠路はるばる 教えを受けにくる者が 絶えませんでした>

<一方で 親鸞は>

<関東に残してきた門徒たちに 手紙や書物を送り>

<正しい教えを伝えることも忘れませんでした>

<その親鸞の教えの一つが>

<悪人正機です>

<一体 どんな教えなのでしょうか>

<親鸞の弟子である唯円が 書き残したといわれる>

<「歎異抄」によれば>

<善人であっても 往生をとげ 救われるのだから>

<悪人が救われないわけはない というのです>

うん?
悪人であっても救われるのだから

善人にあっては言うまでもなく
往生をとげ 救われる

そう言うなら分かりますが

先生 悪人こそ救われるとは

一体 どういうことなのでしょうか

そうですね ここで言われている悪というのは

人間は悪をなさずには生きられないという
本質的な悪のことを示していますね

ですから 悪人というのは そのことを
そのとおりですと自覚した人のことなんですね

悪人と自覚した人ですか

そうですね

逆に 親鸞が言う善人というのは

人は罪を犯すものなのに
それを自覚できないで

自分は間違いをしない よい人間だ
と思っている そういう人のことですね

ああ そんな善人でも往生できるのだから

罪を犯すであろうと自覚している者

つまり 悪人なら

なおさら往生できるという意味なんですね

そうですね

しかし 当時の人々は みんな
親鸞の この言葉の意味

正しく理解していたのでしょうか

そうですね
残念ながら そうでない場合も多かったですね

阿弥陀仏は悪人を救うんだから

悪いことをしても気にしなくていいとか

それから
むしろ悪いことをしたほうが救われるんだとか

そういうことを言う人も
出てくるようになったんですね

悪いことをしたほうが浄土に行けるとは

また ひどい解釈ですね

<親鸞から直接話を聞くことができなくなった 関東の門徒たちのなかにも>

<悪人正機の間違った解釈をする者がいました>

<これを嘆いた親鸞は>

<正しい教えを説く手紙を>

<関東の門徒たちに 何度も送るのですが>

<状況は改善されず>

<浄土宗を信じる者たちの間で 混乱が起きてしまっていたのです>

<そこで親鸞は 建長4年 1252年>

<自分の代わりに>

<息子の善鸞を関東に送ることにします>

<父 親鸞の全幅の信頼を得て 関東に着いた善鸞でしたが>

<親鸞ほどのカリスマ性がなかったためか>

<思うように 混乱を収めることはできませんでした>

<焦った善鸞は 自分に威厳をもたせようとしたのか>

<そう嘘をつき>

<さらに間違った教えまで説いてしまうのです>

<これによって かえって混乱は大きくなり>

<関東の門徒たちの疑念を 増大させてしまいました>

実際のところ どういう状況だったのか
なかなか知ることが難しいんですけれども

やはり親鸞も
信頼して善鸞を派遣したわけですし

善鸞に悪意があったというふうにも
思えませんので

やはり
当時の関東の門弟たちの混乱を収拾するには

相当 ご苦労があったんじゃないか
というふうに思います

<しかし 親鸞は>

<間違った教えを説いた善鸞を許さず>

<親子の縁を切るのです>

<親鸞 84歳>

<苦渋の決断でした>

<生涯 苦悩し続けた僧 親鸞>

<その最期とは!?>

<浄土宗の宗祖である師 法然が説いた>

<専修念仏の教えを正しく広め>

<人々を導いてきた親鸞でしたが>

<自分の寺をもとうとはしませんでした>

親鸞自身は 独立して開宗するという意思は
なかったと思いますね

というのも やはり親鸞にとっては

法然から念仏の教えを受けたということが
生涯の喜びだったわけですから

その教えを みんなと一緒に確かめる
ということに一生を尽くす

そのことが大事だと
考えていたからだと思います

<そんな親鸞も 86歳>

<老いを感じずには いられませんでした>

<(親鸞)目も見えなくなり>

<なにごとも みな 忘れてしまう>

<こんな状態では>

<念仏の教えを 人に伝えることはできない>

<親鸞は弟の尋有の住まいであった 京都 善法院で体調を崩し>

<病の床につきます>

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

<それでも親鸞は ひたすら念仏をとなえ続けました>

南無阿弥陀仏…

<そして>

南無阿弥陀仏…

<親鸞の亡きがらは 荼毘に付され>

<京都東山 鳥辺野の北にある 大谷に埋葬されました>

<そして そののち 親鸞の娘 覚信尼が>

<門弟たちと共に 吉水の北の地に廟堂を建立>

<親鸞の死から59年後には>

<曽孫である覚如が その廟堂を寺院とし>

<本願寺と号したことで>

<親鸞を宗祖とする 浄土真宗のいしずえが築かれたのです>

親鸞は こんな言葉を残しています

「あなたは一人ではない」

「常にそばに自分がいて 共に歩んでいる」と

苦難の道を人々と共に歩み

念仏の道を信じ 伝え続けた親鸞

波乱に満ちた90年の生涯でした