日本の話芸 桂竹丸 落語「ホタルの母」竹丸さんのふるさと、鹿児島を舞台にした新作落語。第二次世界大戦中、鹿児島県の…

出典:EPGの番組情報

日本の話芸 桂竹丸 落語「ホタルの母」[解][字]

桂竹丸さんの落語「ホタルの母」をお送りします(令和2年10月23日(金)霞が関イイノホールで収録)

番組内容
桂竹丸さんの落語「ホタルの母」をお送りします(令和2年10月23日(金)霞が関イイノホールで収録)【あらすじ】竹丸さんのふるさと、鹿児島を舞台にした新作落語。第二次世界大戦中、鹿児島県の知覧(ちらん)には陸軍の飛行場があり、近くで鳥浜トメが営む食堂は、陸軍指定の食堂となって多くの若い訓練兵たちの面倒を見ていた。やがて戦況は悪化し、若い兵士たちは特攻隊員として出撃していくようになる…
出演者
【出演】桂竹丸

ジャンル :
劇場/公演 – 落語・演芸

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  18. 兵隊
  19. アメリカ
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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

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♬~(出囃子)

桂 竹丸です。
本日やらせて頂く噺はですね

「ホタルの母」と申しまして

戦争中でございますが
富屋食堂のおかあさんでございます

鳥濱トメさん。
まあ 特攻の兵隊さんたちに

どれだけ尽くしたか
という方なんでございますが

この方 戦後もですね ず~っと その

戦争で亡くなった皆さんをですね
弔ったという方なんですが

「ホタル帰る」という話をもとにですね
作った落語でございます。

どうぞ最後まで おつきあい下さい。

(拍手)

♬~(出囃子)

(拍手)

ただいまは ばく大なる拍手を頂きまして
ありがとうございます。

もう こんな うれしいことは
生まれて8度目でございます。

桂 竹丸と申しまして。

以前 立川談志師匠が
自分の独演会にお客様が少なかった時

「今日 来なかった客が後悔するような
落語をやってやる」って言って

見事な高座だったらしいですね。

座右の銘となりました。 私の落語会
お客様が少なかった時に

「今日 来なかったお客様が後悔するような
落語をやってやる」って

高座に上がったら 今日 来た客が
後悔して帰りましたね。

今日は そんなことがないよう
お願いしたいなと思う次第でございます。

え~ 私 出身が 九州は南
鹿児島というとこなんでございますが

鹿児島と申しますとね
いまだにヒーローが

西郷隆盛でございます。 西郷さんですね

上野に参りますと
西郷さんの銅像がございまして

あの あれは 薩摩絣ですね。

犬は ツンちゃんという
名前なんですけれども。

明治31年 高村光雲
光太郎のおとっつぁんが

お作りなったんでございますが
除幕式がございました時に

ゆかりの皆さんが みんな集まってくる。

もちろん 鹿児島からはですね
未亡人の西郷イトさん

そして 西郷従道さんも
列席していらっしゃいました。

幕が落とされました時に
「あ~ よく似ているね。 うり二つだね」

と言ったんでございますが
未亡人のイトさんだけは

「うんにゃ うんにゃ。

うちん人は こげな人じゃなか」。

「ないごちな ねえさん。
兄さんに そっくりじゃが」。

「ないごち うちん人は
こげな耳は立っちょらんし

足も4本じゃなか。 尻尾もなか」。

「ねえさん それは犬じゃ。 犬ん隣よ」。

「犬ん隣ね。

うんにゃ うちん人は
こげな人じゃなか。 こげな顔じゃなか」。

「ないごちな ねえさん
兄さんに そっくりじゃが」。

「ないごち うちん人は
こげな青い顔じゃなか」。

当たり前ですね。 銅像ですからね。

で 西郷さんの あの慈悲深いまなざしは

一体 どこを見ているんだろうか
ということが

学会で論議されたことが
あったんですよね。

やはり尊敬してやまない
皇居にいらっしゃる明治天皇。

いや そうじゃなくて ふるさと 鹿児島の
桜島を見ていると。

2つに分かれました。 正解は
「空を見ている」が正解でございました。

西郷さんの銅像は
日本各地にございましてね。

実は 鹿児島市にも
鶴丸城の並びでございましょうか

そこに銅像がございます。

軍服を着た西郷さんが
いらっしゃるんでございます。

戦争中だったんですけどね 軍の方で
銅が足りなくなったために

差し出せという
お達しがございました時に

後に 鹿児島市長になられます
勝目さんという方がですね

「西郷さんは かごんまん心です」。

「貴様 軍に逆らう気か?」。

「やれるもんならやってみなさい」
と言って

命を懸けて守ったんですって。

昔の方は 立派だよね~。
私だったら ひと言

「どうぞう」って言いますね。

ええ。 鎌倉時代から薩摩の地は
島津家が統治していらっしゃいました。

今 島津家の当主が忠裕さんという方でね
お会いしたんですよ 直接。

品がありますよね。
本人から聞いたんですけども

すごいですね ルーツが。

父方のルーツはね 源 頼朝だそうですよ。

母方は 西郷さんのひ孫なんですって。

ということは 皆さん
えっ? すごいですね。

頼朝と西郷さんの血を
受け継いでいらっしゃるんですよ。

私は お願いしたんですよ。
「輸血して下さい」って。

「それはできない」って
言われましたけどね。

まあ 大体 鹿児島とか宮崎とか
熊本と申しますとね

我々 まあ 何と言うんですかね
九州人という

まあ 一つの連帯意識があるんですよ。

東北もそうですよね?
宮城 福島 山形に参りますと

東北人という誇りがありますよね。

東北人。 じゃあ どこでもあるか?
そうでもないですね。

広島 岡山の方を
中国人とは言わないですからね。

鹿児島の地形はね そうですね ちょっと

かわいい形と言えば
よろしいんでしょうかね。

男の子の赤ちゃんの下半身に
そっくりなんでございます。

薩摩半島ってあるんです。
これ右脚なんですね。

大隅半島って あれ 左脚でございます。

で 桜島が ぽこちんにあたります。

だから周りを 錦江湾と申します。

この大隅半島の真ん中に
鹿屋市というところがございまして

そこで 私は 生まれたんでございますが。

ここは 現在は
航空自衛隊がございますんですが

以前は特攻の基地でございました。

ちょうど その基地の前に
中学校がございまして

学校の先生がですね
「以前 ここはね 特攻隊という

兵隊さんたちがね 飛んでいったのよ。

みんなね『天皇陛下 万歳』と言って
飛んでいったのよ」と言われた時に

私は 何かね
胸にモヤモヤするものがあったんで

おふくろに聞いたんですね。
「だったの?」って。

「うん 確かにね そういう人もいたけどね
ほとんどの方はね

お母さんの名前を言って
飛んでいったよ」と言われた時に

あぁ… 何か こう
すっきりしたような気持ちがあったのを

覚えているんですけれども。

で 祖父母のとこに参りますとね
庭に こんな大きな穴が開いておりました。

「じいちゃん あれ 何?」。
「ああ 防空ごうよ」。

「防空ごうって?」。
「逃げ込むのよ」。

「何で逃げ込むの?」。
「戦争だからよ」。

「戦争って アメリカの飛行機が
撃ってくるから」。 「何で撃ってくんの?」。

「まあ 大きくなったら分かるがよ」なんて。

まっ 子どもの時から 何か その
戦争の薫りというものが 知っている

少年時代だったんですが。

この鹿屋基地には ある有名な方
名優でございます

西村 晃さんが いらっしゃったんですね。

西村 晃さんは
この特攻の兵隊さんとして

3度飛んで 3度帰ってきたそうです。

当時は 粗末な飛行機でも
あったんでしょうね。

1度でも帰ってくると
肩身が狭いんですから

それを3度帰ってきたんですから

まあ どれだけ心労があったかと
思いますけれども。

鹿屋というところは
これは あの 海軍でございます。

そして この錦江湾を挟んで
薩摩半島には

知覧というところがあるんですけれどね。

いい町なんですよ。
以前 知覧城ってございましてね

その麓だからでございましょう
武家屋敷が実に整備されておりましてね。

知覧茶という おいしいお茶もございます。

また う~ん 春になりますと
桜吹雪がきれいに舞うという

薩摩の小京都といわれるとこで

ぜひ一度お越し頂きたいと思いますが。

また 旧陸軍の飛行場の跡地がある。

で 現在ですと 特攻平和会館というものが
建てられておりまして

ここにはですね 若くして南方に散った
1, 036人の遺影というもの

そのそばにはですね 書きつづりました
遺書というものが展示されております。

隣にはですね 観音様を祀りました

特攻平和観音堂というものが
建立されておりまして

まあ 例年ですと 大型バスで
また 修学旅行の学生さんが

足を運んで下さるという。
年間100万人近い方が

お越しになると聞いておりますけれども。

鹿児島に来られた方は
一度は足を運んでみたいという

スポットでございます。
出来ましたのが昭和62年でございます。

ある日の夕暮れ時でございました。

観音様のそばにたたずむ
一人のおばあさんがおりました。

そのおばあさんこそ
「特攻の母」といわれました

鳥濱トメさんでございまして。

トメさんが手を合わせて
拝んでおりますと どこからとなく

小さく光るものが す~っと
飛んでまいりまして

観音様の肩にとまります。

ん~ 季節にしては まだホタルは
早いんだけれども。

しかし トメさんは不思議がることなく
深々とおじぎをいたします。

遡ること45年前 昭和16年12月8日。

日本は アメリカ イギリス オランダ
中国に宣戦布告をいたします。

真珠湾攻撃の奇襲 大成功によりまして

連戦 連戦 連勝 連勝となります。

あっという間に東南アジアを
ほぼ占領いたします。

当時は 実はあの 日本は
経済封鎖を受けておりましてね。

まあ 生活物資の困窮というものが
国民にはあったんですが

この勝利は
非常に沸いたんでございますけれども…。

「トメさん! トメさん どこいや?

トメさん! トメさん どこいや?
トメさん」。

「あら 町長さん 久しかぶいですね。
元気やったですが。 おやっとさあです」。

「今日はね 用があって来たんだけどね
トメさん。

まあ 私 あなたの
この富屋食堂 足を運ぶとね

何か気持ちが落ち着きますが。
よう まあ トメさん あなたがね

この知覧に来て食堂を始めると
言うた時ね

まあ こげな繁盛するとは思わんかった。

そいもこいも おまんさあが
美人で 気さくで きっぷがよか。

その3つがなせる業だが」。

「まあ 町長さん そげな世辞を言うために
来られたわけじゃないんでしょ?」。

「本題に入らんといかんね。

トメさん あの 上の方に
飛行場が造られてね

今 学校が造られているわけよ。
そこにね これから まあ 全国の うん

少年訓練兵の皆さんがね
この知覧にやって来るわけよ」。

「町長さん そげな話
私と どげな関係が…」。

「まあ 最後まで聞かんね。
まあね その軍の方から

どこか落ち着けるところはないか
ちゅって 相談を受けましてね。

じゃらいね トメさんげ
富屋食堂がよかちゅうて

私が推薦しましたがよ」。

「そげなこと急に言われましても
私は 食堂の女主人

何にもできませんがよ」。

「いやいや トメさんなら 普通どおり
やってもらったら それでよかが。

大丈夫だから。 決まったことですから。
まあ頼んでな 頼んで」。

「あ~ あらあら 行ってしまわれた。

どげんな人たちが来るんだろうか」。

昭和17年3月になりますと

少年訓練兵の1期生
80名が やって参ります。

まあ皆さん 学校と申しましてもね

今のような楽しいものではなくてですね

それは過酷な訓練が
待ち受けているという。

もう とにかく 重い病気にでも
ならないかぎりは

しゃばに出られないというような
ところへですね

親元を離れた15~16の少年たちが
志願してやって来るわけですね。

楽しみと申しますとね
食べること 寝ること

たまの休日の外出でございました。

知覧という町は
それほど大きな町ではございません。

まして遊ぶところも
そう多くございませんので

この富屋食堂の存在が知れ渡るのに
そう時間は要しませんでした。

「いいとこ見っけた」。
「どこ?」。

「そこのおばさんね 何でもおいしいもの
食べさせてくれんだ」。

「いいな~ 俺も行ってみてぇ」。
「じゃあ 一緒に行こうじゃないか」。

休みともなりますと この富屋食堂に
わんさか押しかける。

「何だね この子たちは え?
まだ子どもじゃないか え?

親元を離れてね ふびんだがね~」。

「おばさん 腹減った!」。
「俺も!」 「俺も!」 「俺も!」…。

「よかよ。 おばさんがね
おいしいものこさえてあげるから。

順番… 順番に並ばんね。
あんた 何食べたいの?」。

「きつねうどん」。
「うん。 あんたは 何が食べたい?」。

「たぬきうどん」。
「よかよ。 で あんたは?」。

「鍋焼きうどん」。
「みんな うどんだがね。

よかよ。 おばさん こさえたるから
ちいと待っちょってね。

で あんたは 何が食べたいの?

あんたは 何が食べたいの?

はっきりせんね こん子は。
ん~ じゃっ よか。

おばさんが こげな大きな
あんころ餅をこさえてあげるがよ」。

「おばさん どうして僕が
あんころ餅 好きだって分かったの?」。

「おばさんはね あんたんたちの顔見れば
お見通し」。

「すげえな!
田舎の母ちゃんみてえだ!」って。

まあ トメさんというのはですね
人が弱っております時

困っている時に 何かしてあげたいという
性分でもございましたんですけれども

まあ 娘はね お嬢さんは
2人いたんでございますけれども

男の子はいなかった。

ですから こう 接していくうちに
情が湧きましてね

「我が子のように思えて
しかたがなかった」なんてことを

戦後 おっしゃってましたけども。

一方 戦況はと申しますと
アメリカが反撃を開始いたします。

各地におきまして 連敗 撤退 連敗 撤退。

2年たった時には もう 壊滅的状態に
陥っておりました。

まあ 皆さんね 日本っていう国は
いい国ですよ。

ええ。 しかし その 大きな国ではない。

例えばですね 戦争が始まって
日本が造った飛行機の数は

6万5, 000機だったそうですね。
一方 アメリカは30万機。

まっ 艦隊もそれに比例したでしょうから
物量が違うんですよね。

その時 上層部が出した結論が
特攻隊でございました。

「トメさん! トメさん どこいや?
トメさん! トメさん! どこね?

トメさん! トメさん!」。
「はいはいはい 奥でですよ。

あ~ 町長さん 久しかぶいですが

おやっとさあです」。

「トメさん ん~? 白髪が増えたね」。

「そういう町長さんも
髪の毛がなくなって

おあいこじゃないね。
年を取ったもんじゃ」。

「トメさん 富屋食堂は 大層
繁盛しているそうじゃないか」。

「いや 繁盛はしちょらんですがね
にぎやかですがよ。

休みともなりますと 2階の座敷で

まあ夜遅くまで
遊んでいらっしゃいますがね。

まあ訓練は厳しいだろうに。 ええ。

愚痴一つこぼすことなくですよ。 ええ。

『あ~ おばさん こげな話聞いて

おばさん あれが食べたい』。
ですから 私はね せめて

おいしいものだけでも作ってあげたいと
そう思ってやっているところなんですよ」。

「軍の方でも評判だよ。
富屋食堂に行けば

おいしいものが
食べさせてもらえるちゅうて。

でも トメさん 軍の方から
配給があるけども

それだけじゃあ 足らんでしょ?」。

「ですよ。 まあ 軍の方からね
米や うどん粉の配給はあるんですが

ええ。 足りませんでね」。

「う~ん どうやって工面してるわけね?」。

「ええ。 奥の方で工面してますが」。

「奥の方で? トメさん 前に比べたら
広くなったような気がするがね」。

「広くなったりせんですが。
以前 ここにですよ

たんすが3つほどありました。

そん中に まあ若い時
こさえた着物があったんですがね

そのうち その着物が食べ物に変わり
たんすが食料に変わりですが」。

「トメさん すまんかったね。
町長が頼んだばかりにね。

あんたに苦労かけたが
知たんかったがよ…」。

「いやいや そげなこと言わんで下さい。

私はですよ 好きでやってることですから。
子どもたちが喜ぶ顔を見れば

それだけで十分ですがよ。 ええ。

で ましてや こんな時代ですから
着物を着てさるっこともなかですから

かえって すっきりしてよかですよ。
好きでやってることですから

町長さん そげなこと言わんで下さい。
ええ。

何か用件があって
今日は来られたんでしょ?」。

「うん…。 トメさん
特攻隊って知っちょいや?」。

「は?」。
「特攻隊って知っちょいや?」。

「はい。 新聞か何かで見ましたが。

何か その 飛行機が アメリカの艦隊に
体当たりするっちゅうて。

あれですか?」。
「うん。 いや 実はね

今 あの 飛行場の横に
兵舎が造られていてね。

これから全国の
まあ 特攻隊の兵隊さんたちが

この知覧にやって来る。
まあ トメさんには今までね

少年訓練兵の面倒を
見てもらったんだけどね

これからはね その特攻隊の
兵隊さんたちを見てもら…」。

「とっ とっ…」。
「いやいや… もう決まったことで

軍の機密事項だから黙ってて…。
まあ トメさん

う~ん また あんたにはね
迷惑をかけるやね。

まあ そげなことなんで 頼むが」。

「はあ… 特攻隊? 特攻隊…」。

まだ その時 トメは 特攻隊の重みを
知る由もございませんでした。

昭和20年3月28日 知覧の町は
桜がきれ~いに舞っておりました。

富屋食堂に 飛行服姿の青年将校が
一人やって参ります。

3年前まで 知覧に駐屯しておりました
小林少尉 その人でございまして。

もう そのころのあどけなさは
全く残っておりません。

「おばさん! おばさんいますか?

おばさん! おばさんいますか?」。

「はいはい。 え~…

だいけ?」。
「おばさん 小林です」。

「あら! 小林さんね。
まあ立派になられて。

おばさん分からんかった。
まあ 小林さん

まあ 田舎のお父さん お母さん方も
喜んでいらっしゃるでしょうね。

大人になられて。 ええ?
今日は いけんしゃったとな?」。

「明日 ここを去るもんですから

おばさんにひと言 礼が言いたくて
やって参りました」。

「まあ あなたはね まあ昔から
堅い人でした 義理堅い人でした。

あ~ あなたはですよ
あんころ餅は好きでしたかね。

私は 今 あんころ餅こさえるから

いっぺこっぺせんね あんた。

まあ 懐かしかね。 まあ ゆっくり…」。

「あんころ餅は好物なんですが
喉を通らんです」。

「戦争に行きなさるのね。
う~ん どちら方面に?」。

「それは… 聞かんで下さい」。

「聞かん…。

特攻… 特攻隊…」。

今まで 我が子のように
かわいがっておりました小林少尉が

明日 死んでいくと。

「はあ… はあ… んっ…」。

トメは ぐっと涙をこらえます。

「おばさん。 おばさんは
本当に俺たちをよくしてくれました。

まるで我が子のように
かわいがってくれました。

そのよき思い出を持って
旅立てる我々は幸せであります。

おばさん ありがとう…。
おばさん 俺たちの分まで

長生きして下さいね。
長生きして下さいね…。

おばさん ありがとうございました。
行ってまいります!」。

「あ~ ないごてあげなよか子が
けしまなならんとね。

ないごて…。

何かしてやれんかね 何かして…。
じゃっ 親御さんに手紙を書こう。

いつ我が子が けしんだか知たんと
あまりにもむごい。

あまりにも悲しい。 手紙を書こう」。

その時の手紙が現在も残っておりまして

トメは 大変に
まっ 動揺もしていたんでしょう。

文字と文章 乱れておりますけれども
その書き写したものがございますので

読ませて頂きます。

「小林少尉殿のお父様。 急の便りに

びっくりなさいますことと思いつつ
一筆お知らせしてあげたかったのです。

小林殿は 以前 世話をしてあげた私を
母のように優しくして下さいました。

昨日 突然やって参りまして
『おばさん 小林です。

久しぶりにお目にかかれて
うれしいことはありません』と

言葉かけられました。
『今度は どちらへ?』とお尋ねすると

『聞かないでくれ』とのこと。

何を差し上げても
一口も召し上がりません。

勧めても『おばさん 欲しい物 食べたい物
少しも心から起こらないよ』と

申されるので はっと思いました。

特攻隊の隊長として行かれます。

今日は3月29日
少し風が吹いております。

今日の夕方にはたたれます。

あの勇ましい姿をお父様に
一目見せてあげたかったです。

私から一筆お便りを差し上げますと
申したら

『急に驚かせたくない。
長く日がたってから知らせてくれ』

とのことでした。 そのようにしないのは
すまないことと思いますが

父上様には 早くお知らせしておきます。

毎日 毎日 新聞を見ていて下さい。

何より お元気で 長く長く生きて
日本の勝つ日をお待ち下さい。

それこそ 小林少尉の魂こそ
残っておられるのです。

私も そのつもりで元気でおります。

読みにくいペン字 許して下さい。
ただ急いで お知らせまで。

小林少尉のお父様へ トメより」。

トメは 連日 家族に手紙を書きます。

戦争はというと もう壊滅的状態に
陥っておりました。

2か月の間に 何百という尊い命が
南方に消えていきました。

トメの胸は 張り裂けんばかりで
ございましたが ぐっとこらえます。

昭和20年6月5日
富屋食堂は 兵隊たちで

大変に にぎわっておりました。

明日 出撃を控えました
宮川軍曹のはなむけにと

せっせと トメは
手料理をこさえておりました。

すると空襲警報が鳴ります。

ウ~ウ~!

トメと兵士たちは
防空ごうに逃げ込みます。

敵の爆撃機が通り過ぎるのを
じ~っと耐えるという

鹿屋のじいちゃん ばあちゃんに
聞いたことがございましたが

「いけんやったって おとろしかったがよ。
生きた心地がせんかったがよ」なんて

言っておりましたですが。

敵の爆撃機が通り過ぎるのを
確認いたしますと

トメと兵士たちは表に出てまいります。

その日は 星一つない真っ暗。

まして 灯火管制がひかれておりますから
真っ暗。

小川のせせらぎの音を頼りに
トメと兵士たちが歩いておりますと

どこからとなく小さく光るものが
すっと前を横切ります。

一人の兵士が
「ホタルだ。 あっ ホタルだ」。

場が和みます。
辺りを見ると 川の辺りで

無数のゲンジボタルが静かに
飛び回っておりました。

すると 宮川軍曹が「おばさん 俺ね

何の心残りもないんだけどさ ハハハ!
あ~ 明日死んだらさ

おばさんのところに帰ってきたいな~」
と言うと

川の辺りで飛んでおりました
ゲンジボタルが

すっと宮川軍曹の前にとまります。

「おばさん 俺 明日
ホタルになって帰ってくるからさ。

富屋食堂に来たホタル
それ俺だからね。

追っ払ったりなんかしないでよね」。

「追っ払ったりなんかするもんか。

おばさん待っちょっでね。
必ず帰っきてね。 待っちょっでね」。

翌日も 富屋食堂は 大変に
兵士たちは にぎわっておりました。

死んだ兵士がホタルになって帰ってくる
なんてことは

信用はしておりませんでしたけれども

その時 言葉を失った
自分たちにかけてくれた

宮川軍曹の優しさだと思うと

余計に悲しみが込み上げてまいりました。
すると…。

富屋食堂に 一匹のホタルが
す~っと入ってまいります。

柱のはりのとこにとまりまして

ほのかな明かりをともします。

「みや みや みや… 宮川軍曹が
ホタルになって帰ってきたんだ!

みや… 宮川軍曹が
ホタルになって帰ってきたんだ!」。

何事かと トメは兵士たちを見ますと

全員 決して人前で
涙を見せることのない兵士たちが

立ち上がりまして 敬礼をしておりました。

それから5日 続きます。

最後となりましたのが 6月11日。

特攻の最後でございました。

間もなくいたしまして 8月に
広島 長崎に原爆が投下されまして

8月15日 終戦を迎えます。

玉音放送で 天皇陛下の声が

雑音で聞こえづらかったんで
ございますけれども

日本が戦争に負けた
終わったということだけは分かりました。

「終わったの?

負けたの?

あ~ しっかりせないかん。

じゃあ あの子たちは
死ぬことなかったじゃないですか。

こんなふうに終わる戦争だったら

あん子たちは
死ぬことなかったじゃないですか。

あの子たち… 誰か教えて下さい」。

昭和62年2月。

特攻平和会館がオープンいたします。

トメは 足腰が
だいぶ弱っておりましたので

車いすの列席でございました。

その顔は 幾分 穏やかであったと
申します。

「長かったですがよ。

やっとここまで来ました。

おばさん 皆さんのおかげで
長生きさせてもらいました。

もう少ししたら そっちへ行きますがよ。

もうちっとばっかい
待っちょって下さい。

小林さん 小林さん
あん時 たもれんかった あんころ餅

おばさん こさえるからね。
今度は たもってね。 よか?

宮川さん あんた
うちの次女の礼子にですよ

別れ際に あんな高価な万年筆を
下さいましたね。

礼子は 今もね 形見として
大事に取っておりますがよ。

宮川さん うちの礼子は
宮川さんが好きでしたがよ。

宮川さんがね 生きててくれたらね

宮川さんが
生きててさえいてくれたらね…。

私はね 皆さんに謝らないかん。

『皆さんのお母さんになりたい』
って言うたでしょ? 言うたでしょ?

なれんかったね。
本当のお母さんだったら

飛ばせはせん 行かせはせんかったと思う。
おばさん 許してねぇ…。

これから どんな時代になろうともですよ
皆さんのことは

決して忘れませんがよ。
決して… 決して忘れませんがよ」。

トメの見た ホタルというのは

兵士の仮の姿だったのか
それとも幻だったのか。

トメの祈りが終わりますと ひときわ
ほのかな明かりをともしまして

暗闇にす~っと飛んでまいりました。

ある人は こう言います。

戦争というのは 年寄りが決めて
大人が命令をして

若者が飛んでいくという。

今から75年前なんですが
夢を見ることすらできなかった

青年たちがいたことを
我々は忘れてはならないと思う。

いや 忘れてはならない。

鳥濱トメ物語「ホタルの母」でした。

(拍手)

♬~