ハートネットTV 介護百人一首2020「秋編 その二」介護する人される人、日々の介護生活の中でふと心に浮かんだこと、…

出典:EPGの番組情報

ハートネットTV 介護百人一首2020「秋編 その二」[字]

介護にまつわる出来事や思いを詠んだ「介護百人一首2020」今回は秋編その二。「母なれどある時姉妹今は子になりてふわっと我に寄り来る」ほかの短歌もご紹介します。

番組内容
介護する人される人、日々の介護生活の中でふと心に浮かんだこと、ある出来事の情景を読んだ「介護百人一首2020」今回は秋編その二。兵庫県丹波市の広内やよいさん(64歳)の歌「母なれどある時姉妹今は子になりてふわっと我に寄り来る」一人っ子の私はずっと母と一緒です。ある時から姉妹のような関係になり、今は母が子供の様になりました。いつもそばにいます。 ほかの歌をご紹介します。介護の優しさに触れて下さい。
出演者
【ゲスト】洋画家…城戸真亜子,【司会】毒蝮三太夫,小谷あゆみ

ジャンル :
福祉 – 障害者
福祉 – 高齢者
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事

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  18. お母さん
  19. 栄治
  20. 記憶

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「介護百人一首2020」。

71歳の短歌です。

「一面のコスモス畑に
友を誘い出しました。

花は風に大きく揺れ 家族の縁に薄い友は
ただ泣いていました」。

介護を学ぶ 静岡県の山梨凛佳さん。
19歳の作品です。

「祖母にカラオケに誘われ

互いの好きな歌を
歌うことになりました。

私は演歌
祖母は欅坂46を練習しています」。

「介護は 明るく 楽しく カッコよく」。

全国の介護家族の皆さん
ご機嫌いかがですか?

「ハートネットTV」。 先週に引き続き
「介護百人一首」をお送りします。

今回「秋編 その2」ということですね。
そうなんだよね。

まあ 秋はね スポーツの秋とか
食欲の秋って言うよね?

スポーツの秋ったって
なかなかできないじゃない 外で。

今はね。 だから うちでね
スクワットやってんのよ。

おっ すばらしい!
それでは ゲストを ご紹介します。

洋画家の城戸真亜子さんです。

よろしくお願いいたします。
はい よろしくね。

城戸さんは 13年間 義理のお母様を
介護されたということで

この「介護百人一首」
今年の選者もされたんですね。

そうなんですよ。
毎回楽しみにしてるんですけれども

選ぶ時にね
声に出して読んで下さるんですよ。

そうすると
目で見て あまり気が付かなかったのが

声だと し~んと心にね響くんですよね。

歌っていうのはね 「うったう」「訴える」の
語源だともいわれてますね。

歌 大事ですね。
本当ですね。

それでは
じっくり味わってまいりたいと思います。

「介護百人一首 秋編」 ご覧頂きましょう。

77歳の作品です。

「百歳になる母は 冬の間は
老健施設で お世話になっています。

訪ねると 夕方には

『早く帰って 夕餉の支度を』と
気遣ってくれます」。

介護を学んでいる
愛知県の今村奈々美さん

18歳の作品です。

「シーツに しわがあるだけで

褥瘡のある利用者さんは
つらいものです。

何事も丁寧にしたいと思います」。

81歳の短歌です。

「家の留守電に
母の声が残ったままです。

関西人の母の『すんまへん』は
『ありがとう』の意味です。

聞くと 涙がにじみます」。

77歳の短歌です。

「入院中の夫の手を握ったら
振り払われたので

手の甲にチュッとしてみたら
妙な顔をして 私の顔を見つめました」。

この町の広内やよいさんも
「介護百人一首」に選ばれています。

この丹波市で
創業75年になる 丹波せんべいのお店。

歌を詠んだのは
このうちで生まれ 店を営んできた

広内やよいさん 64歳です。

やよいさんの母 一美さんと
夫の学さんの3人暮らし。

離れには 現在店を継いでいる

息子家族も暮らしています。

主人は 朝早いもんでね 5時ごろから
もう工場に入っているんです。

(取材者)お母さん おいくつになったの?

米寿。
(取材者)88。

はい。 大きなったで。 いつの間に
こんな年になったんやろと思いますで。

(取材者)ああ そうですか。
足が悪いのと…。

足… 腰がね…

それで リュウマチがあるんですわ。

こう 手でも まっすぐならしませんわ。

こっちも こう…
この指だけでね 何でもできますけどね。

でも ビールの栓は開けられるんです。

(取材者)何でだろう?

いや おさじのね…
スプーンのね 後ろでね…

こういうとこでね…。
もっと硬いスプーンで

こちょんと こうやるんです。

(取材者)働き過ぎたんじゃないの?
いや そんなことはない。

(やよい)若い時に? (取材者)うん。
そりゃあ よう働いてくれましたね。

父と2人して ねえ。

田んぼがね。

やよいさんの祖父 栄治さんは
明治41年生まれ。

昭和5年に
農家だった この広内家に婿入りし

日中戦争にも従軍した人でした。

終戦なってしもうてね
もう兵隊さん あかんしね

それで 昔々 おせんべい屋さんで
奉公しとったことあったらしいですわね。

(やよい)大阪の方や言ってたね。
うん 大阪で。

何にも お砂糖やら
そんなない時代やったからね

終戦直後で。 サツマイモをね…
ここら サツマイモがよく取れますねん。

それを潰してね
それで サッカリン入れて。

それで お芋さんで
おせんべい焼きよりましたわね。

(取材者)それが始めなんだ?

その栄治さんが 終戦直後

せんべいを焼いて 家業としたのが
始まりです。

一美さんは
その栄治さんの長女として生まれ

結婚したのは 22歳の時です。

4人姉妹だったので
一美さんも お婿さんをもらい

その一人娘が やよいさんでした。

(取材者)やよいさんも 小さい頃から
おせんべいを焼いているのが…。

そうです。 父と母が 私が目が覚めたら
カチャン カチャンいうてね。

(一美)朝早うから しよったもんね。

2人して しよっちゃったです。
そんなとこで大きいしてもらいました。

両親が家業にいそしむ中
やよいさんは すくすく育ち…。

そして 23歳になった時

やよいさんも 3代続けて
お婿さんをもらったのです。

お相手は 5つ年上の学さん。

やよいさんは
2人目に 待望の男の子を授かり

皆 大変喜んだといいます。

よいしょ。

外歩きの時は

特に気を付けなくてはいけない
一美さんですが

やよいさんも 股関節の片側を
人工関節にしています。

住まいから お店までは
100メートルもありません。

散歩がてら
ときおり 店の様子をのぞきます。

今は 4代目が切り盛りしている
おせんべい屋さんです。

これは あの…
おじいちゃんが…。 昔からあるので。

(取材者)これが最初の頃の?
昔からね これは。 そうやね。

生姜せんべいは 昔 ミンチでね
こうして擦りよった。

あ~ 生姜の汁をね。

初代の生姜せんべいに続き
2代目が考案した もち粉のせんべい。

3代目の学さんは
地元産の薬草入りせんべいを作り

そして 4代目が焼く
丹波黒大豆せんべい。

地元の人々に愛され続けてきた
丹波せんべいです。

一番初めは
おじいさんから教わりましたね。

丹波独自の… 例えば
黒大豆 丹波大納言小豆 丹波栗。

そういったものを
上手に製品に取り入れていって

「あ~ 丹波って
こういうお菓子があるね」とか

そういう魅力を発信していけたらなとは
もちろん思いますけど。

母と娘は 共に
NHKの通信講座を受講しています。

やよいさんは 短歌を15年
一美さんは 俳句を20年続けています。

カバンの中に
鉛筆とメモ帳とだけ入れといて

車でも 走ってた時でも
ちょっと横に止めて

チャッチャッチャッと その ねえ…。

思たことを この五七五の言葉に
当てはめられたら…。

収まっただけで スカッとしますよ。

下手でも何でもいいねん。 まずは…。

やよいさんが 一美さんを詠んだ短歌です。

「週二回 集ふデイケア サービスを

母は学校と 喜びて行く」。

「介護士に 大きな帽子 渡されて

今日の行事は ひなたぼこです」。

広内やよいさんの「介護百人一首」は

家業を守り ずっと一緒に暮らしてきた
母と子の歌です。

兵庫県 広内やよい。

青春から もう そのころから
相談役みたいにね

ずっと 20代 30代ぐらいは ちょっと
そういう感じやったか分かりませんね。

(取材者)それで 今 子どもにも思える?

今はね。
今は「やよいさん やよいさん」言うて…。

「やよいさん やよいさん」言うてからに。

この子も脚痛いし

それで なるべく引っ張らんようにせんな
思っとるんですけどね。

それでもね やっぱし
「やよいさん やよいさん」って 何でもね。

ふわっと 横で話してたら ドサッと…。

ドサッと寄りかかってます。

いやいや 丹波せんべい頂いたよ。

ねっ 丹波せんべいだけに…。

バリバリいこうじゃない。

やよいさんと一美さんの短歌です。

いい親子さん。 城戸さん
どういうふうに ご覧になりました?

いや~ 本当にね お母さんって 時に
お姉さんみたいに思えるんですよね。

何か やっぱり
女同士って すごく分かり合って

例えば お料理なんかも
うまくいかなかった時も

「1人でササッと食べる時は
うまく作れるんだけど

お客さん呼んだ時に限って
かえって失敗するのよね」なんて言って

私のこと励ましてくれたりとか。
本当にね いいもんだなと。

母子っていうのは 特別ですよね。
あ~。

この やよいさんと一美さんと その…

親子でもあるし
時には姉妹のようでもあるし

そして その おせんべい屋さんというね
代々続く家業を守ってきた女主人を…。

そこで生まれて育ってるわけだから

半世紀以上
100年近く一緒にいるわけだからさ。

このね 親子さんもね
すてきでしたけども

城戸さん
「介護百人一首」の選者をされて

何か印象に残っている短歌はありますか?
そうですね。

私の好きな歌は これなんですけれども…。

…っていう。 これね 母が やっぱり
デイサービスとかに行ってる時に

お見舞いとかに行くと 夕方になると

「夕方はね 車もせわしないし

危ないから早く帰りなさい」とかって
言って下さるんですよ。

何か いくつになっても
やっぱり 子どもを思うっていうかね

気遣ってくれる そういう優しさが
すごくうれしかったですね。

その話を聞いてるとさ
日本はね 女同士の世界だな。

こういうおやじのとかね
お父さんにって あんまりないんだよ。

お父さん ちょっと距離があったりする…。
だから お父さん 頑張ってほしい。

お父さんもね…。 はい。

おせんべい屋さんも
尚登さんが継いでらっしゃいますからね。

頼もしい。 いい倅じゃねえか。
頼もしい後継者です。

それでは「介護百人一首 秋編」
引き続き ご覧頂きましょう。

93歳の短歌です。

「養護老人ホームに
お世話になっています。

まだ元気はあるつもりですが

付き添いなしでは
どこへも行かれません」。

介護を学ぶ 岡山県の湯浅勇輝さん
22歳の作品です。

「アルバイト先で
親を怒鳴りつける人がいました。

周囲の人は ただ見ているだけ。

私は 何か助けになりたいと思いました」。

「私は 52歳で介護を学んでいます。

ベトナムからの留学生は
まだ言葉の壁があるものの

きっといい介護士さんになると思います」。

79歳の短歌です。

「デイサービスに行っています。

昼食前は みんなで元気に
替え歌などの口腔体操をやります」。

中川が流れる…

ここにも
「介護百人一首」の詠み人がいます。

歌を詠んだ加藤しまさん 71歳です。

お彼岸の時期になると おはぎを作ります。

(取材者)しまさん
いつも いっぱい作るんですか?

いつも… 40個とか。

あちこち配るのが趣味なので。

甘さ控えめのおはぎは
夫 征男さんの大好物でした。

はい お父さん おはぎ。

(鈴の音)

今年の7月 しまさんは 施設に入っていた
征男さんを 75歳で亡くしました。

主人は 1年ちょっと
施設に入ってましたから

だから 主人のいない生活を
1年以上してきちゃったので

亡くなったという実感が まだ湧かない。

はい。 ずっといなかったから

かえって 何か
仏壇で拝むのが不思議な感じ。 はい。

昭和42年 秋田県の高校を卒業して
東京に出てきた しまさん。

征男さんとは その時 勤めていた
印刷会社で出会いました。

2人は 昭和46年に結婚。
しまさん 22歳 征男さん 26歳。

男の子と女の子に恵まれた2人。

おもちゃメーカーに転職した征男さんは
仕事に打ち込む日々が続きます。

怖い人でした。 はい。

あの… そのころから
仕事は すごい厳しい人で

あの… きちっとやらなきゃ気が済まない
タイプなので。

だから 人にも厳しいんですよね。

だから「あの人 ちょっと怖い」
みたいな感じでした。

その後 征男さんは
子会社の経営立て直しなど 成果を上げ

従業員500人の おもちゃデパートの社長も
務めます。

そんな征男さんの社長業を
しまさんは支えます。

もう 主人の仕事関係の文書とか
まあ よく作りました。

例えば 年頭の挨拶とか。

何か 週に1回 社員の皆さんに
メッセージを出すんですよね。

今週は こういうことがあったとか
売り上げがどうだとか

頑張りましょうとか。 それも 結構…
1年とかじゃなく 2年ぐらいとか

毎週続けたんじゃないかな。

征男さんは 68歳まで働き
サラリーマン生活を終えました。

しかし その5年後の2017年3月…。

朝 えっと… 主人が携帯で電話してる声で
私 目が覚めたんです。

「家内は大丈夫です」とか
言ってるんですよね。

「どうしたの?」って言ったら…。

何か それで 電話は切ったんですけど。

そしたら 私に向かって「お母さんが
そこで血を流して倒れていたんで

救急車呼んだんだ」って言うんですよね。
「あ~ これ おかしい」と思って。

征男さんの病名は
レビー小体型認知症でした。

しまさんは
介護の記録を細かく残しています。

9月…。 9月。
あっ 「散歩中に転倒。 速足になって」。

自分で「止まらなくなった由」って
書いてあるから

「止まらなくなったんだよ」ぐらいのことは
自分で言ったんでしょうね。

征男さんの症状は進んでいきます。

整形に行く時に転んだんですよね 道路で。

それで 診察室の椅子に座れないで
転んじゃって

3月には
あっ 「車椅子届く」って書いてあります。

で そのころ ちょうど
介護認定の申請 見直ししてたら

いきなり 2 3飛ばして
要介護4になっちゃったんです。

手を焼いたのは 何か知らないけどね
「警察呼んでくれ」って言うんですよね。

何で 警察なのか分からないんですけども
「警察呼んでくれ」って。

でも
警察 電話かけるわけにいかないので

それは だますっていうか
ごまかすのに苦労しました。

だから 最後の方は
だんだん 1人にしておけなくって

私が
どうしても出かけなきゃいけない日は

息子やら嫁やら来てもらって
留守番してもらったりとか。

はい。 開いてるよ。
ただいま。 はい。 こんにちは。

お彼岸でやって来た 息子家族です。

昔は 土曜… 週休2日でもなかったので

本当に仕事ばっかして
日曜日あれなんじゃないですか。

家にも ほとんどいなかったような記憶が
あります。

記憶があるっていうか
記憶がないというか。

お義母さんがいないと
お義父さんも やっぱり不安になるのか

ここの家にいることが分かんなくなって
どっかに来てるみたいに感じて

「家に帰りたいんだけど」とか
言ったりとか。

あと 私が「こんにちは」って来た時に
仕事の打ち合わせで来た人と間違えて

「今日のスケジュールは」みたいな
手帳を広げて。

たまにしか来ないので

お義父さんの言うことも
「そうだね そうだね」って。

私から見たら これは
家でできる介護の範囲じゃないなとは

ちょっと感じてましたね。

しまさんの短歌ノートには

介護での出来事や その気持ちが
つづられています。

そんな2年の自宅介護の後

去年の6月 しまさんは
征男さんの施設入居を決めました。

そして 今年6月 持病の腸閉塞を起こした
征男さんの病状が急変します。

「来年は 金婚式よ わが夢を
叶えんとせず 逝くのか君は」。

7月7日 征男さんは
帰らぬ人となりました。

しまさんの「介護百人一首」は
49年 夫 征男さんを支え続けた歌です。

埼玉県 加藤しま。

主人は背が高いんです。
それで 私が背が低いもんですから

身長差が 30センチほどありまして。

足が だんだん弱くなって
よく転びそうになったんですよね。

それで 後ろから行って 主人を
抱き留めたことが 何度もありました。

70ったら
だんだん もう高齢者になってきて

筋肉は減る一方なのに

え~
これから介護が続くっていうことは

これから どんどん筋肉増していくのかな
という思いで詠みました。 はい。

(取材者)筋肉は…。
いや 筋肉落ちてると思います。

読み聞かせもやってないので。

話 全然違いますけど 読み聞かせで
こうやって本持つのって 結構

絵本って重いんですよね。
15分ぐらい持ってんの 大変なんです。

それが半年休んでたら
久しぶりに持ったら 手が震えて

それで筋トレしようと思って
あそこに鉄アレイがあるんです。

しまさんの歌です。

城戸さん この歌 どうご覧になりますか?

本当にね 介護とか そういう夫の病気とか
そういったものって

本当に突然来るんですよね。
ねえ。

だから 何の心の準備もないし

自分に そんなできるかしらなんて
思うと思うんですけど

どんどん 自分が
たくましくなっていくこともね

介護してると感じるんですよね。

多分 しまさんも そうだったんじゃ
ないかなっていうふうに思います。

人生でさ
四十何年連れ添ったって言うんだけど

健康な時も 後ろで原稿書いてあげたり

病んでからは
病んで介護をしてたわけじゃない?

それで亡くなったら
大好物のおはぎを作って

供えてるっていうのは
あの世へ行ってからも

面倒見てるわけじゃない?
本当にね 思うんですけど

短歌に書くっていうことは
すごくいいなって思ったんですね。

文字に書いてとどめておくと
あとから読んでも

何か あの時
こんなふうに思ったのかなとか

あの時の自分は こうだったなって
思い返すことができますよね。

そういうのって
すごく尊いことだなって思います。

城戸さんね
改めて 介護短歌 介護百人一首

どのように ご感想お持ちですか?

やっぱりね 介護って聞くと 皆さん
「うわ~ 大変」って思うんですけど

そうじゃないんですよね。
介護できたから

お父さん お母さんとも近づけるっていう
親密な そういう体験もできますし

今まで気が付かなかった
親から受けた愛情を

介護することで 自分がやることで
気付いたりもさせられますし

それを また 言葉にすることで
「あっ」って また気付きもありますしね。

ぜひ 百人一首
ずっと続けてほしいなって思います。

はい 次回はですね もう 蝮さん
「冬編」ということになります。

ねえ~。
冬か。 寒い。

はい 寒い冬になりますね。

城戸真亜子さん 2週にわたって
どうも ありがとうございました。

ありがとうございました。
次回の「介護百人一首」は「冬編」。

1月にお会いしましょう。
はい。

今週は…